天文学:宇宙観からの脱却

1543年にコペルニクスの「天体の回転について」が出版されて太陽系の地動説が登場、ガリレオによる木星の衛星の発見もあり、太陽系のモデルとして地動説が不動のものとなり、新しい宇宙観が確立した。

この新しい宇宙観を以って個別科学の天文学の確立と言えるのだろうか?

天文学の研究対象はもちろん天体である。この天体の特徴は「手にとって眺めることができない」ことである。天体の実体の把握は目的の天体までの距離がわかって始めて可能になる。この点で、太陽系の大きさを問題とし、地球と火星との間の距離を実測したカッシーニの業績を以ってヨーロッパで個別科学としての天文学が確立したと見たい。コペルニクスから約100年後である。

火星までの距離

火星の表面で地震を観測したという話題が今朝の新聞に載っていた。米国の探査機「インサイト」の観測である。「インサイト」は2018年11月の火星地表に着陸。地震計で地表の地震波を測定した。火星では火山活動が起きておりそれによる地震(最大でM4.0程度)が起きていると思われている。

ところで地球から火星までの距離を最初に問題にし、観測を試みたのは誰で何時ごろのことだろうか?

資料によれば

それはカッシーニであり、太陽系の大きさを問題にし、1671年に地球と火星の距離を測定したのが最初である。恒星の距離測定には年周視差が用いられるこの方法で恒星の距離測定ができたのはこれより200年後のことである。

カッシーニが用いたのは地心視差で地球の表面の遠く離れた二つの地点で同時に目的の天体を測定する。二点間の距離が分っていて天体を見込む角度がわかるので地表からその天体までの距離が出せる。

この年には火星が近日点を通り過ぎていており地球からも近かった。南米のカイエンヌでフランスのジャン・リシェが測定しているのと同時にカッシーニとジャン・ピカールはパリからの火星の位置を突き止めた。この観測は使用機器の質が悪かったが、カッシーニは地球と火星までの距離を出した。

ここまでできれば、太陽から火星の距離なども推定でき、太陽系の大きさも概算できる。

 

日本で天文学が意識されたのは何時ごろか?

個別科学としての天文学が日本で意識されたのは何時ごろのことであろうか?

年表によれは明治五年(1872)南校ではフランス人レピシェを雇い入れ数学・天文学の教育にあたらせた。天文暦学とは関わりのない、純然たる天文学教育の始まりである。この純然たる天文学教育は星学(せいがく)と呼ばれていた。

この星学という言葉は司馬江漢著 『和蘭天説 (Oranda tensetsu)』
寛政8年 (1796)の中に見える。「天文学三道あり、一は星学(セイガク)、二は暦算学、三は窮理学なり」

窮理学は物理学のことである。

最初に講義された「星学」の具体的な中身については不明であるが

遠西観象図説(1823)には

「六星の大小及び其運行遅速距離遠近等、傍通(〈〉みとうし)して目(〈注〉めのへ)にあり。実に星学家坐右の珍宝なり」

とあり、星学では惑星の運動、惑星の距離などが議論されたと思われる。特に惑星の距離はその惑星の実体を知る上で不可欠なものであり、これが議論されるということは「星学」は本物の天文学になりつつあることを示している。

この「星学」が司馬江漢の時代に現れたということは、この時代あたりから洋学を通して個別科学の天文学が日本でも意識され始めたと言ってよいと思われる。

学問を科学にする三要件

「日本の唯物論者」の中で著者の三枝博音は学問を科学にする三つの要件をあげている。

第一は人民大衆である。大衆に触れさせない。大衆に秘密になっている。大衆の幸福と生活が考えられていない。このような学問は科学とはいえない。

儒家の一人の言

「学問は王家の嘉謀なり」(つまり人民を支配する道具である)

これでは学問は科学にはなりえない。

第二は自然である。これは三浦梅園の言葉が当を得ている。

第三が確実性である。言い切ることができることである。

これには自然の対象を孤立系(空間的にも時間的にも限定されたもの)と見なして見る視点が重要になる。この視点が個別科学の発展を促し、法則性(つまり言い切る)の発見を促したと考えられる。東洋の学問は関連性に重点を置いた(たとえば、大宇宙と小宇宙(人体)との対応関連、これは最たるものであるが)ことと対照的である。

みうら・ばいえん(三浦梅園)

「日本の唯物論者」の中で著者の三枝博音はみうら・ばいえん(三浦梅園)を高く評価している。

三浦梅園はこんなことを意っている。

「ほんとうに自然を見抜くということになれば、聖人とか仏陀ついったところで結局は人間なのだから、わたしたちの学問の討究においては同僚であるにすぎない。先生とすべきものは自然である」

このような認識は自然科学の方法論の真髄である。

とみなが・ちゅうき(富永仲基)

日本の唯物論者」の中で三番目に取り上げたのが、とみなが・ちゅうき(富永仲基)である。

大阪の裕福な商人のこどもで、地元の懐徳堂(かいとくどう)で朱子学を学んだ。新興商人階級の目で正統的な学問に批判的な精神で触れることができた。こんなことを言っている。

「仏道のくせは幻術、儒道のくせは文辞、神道のくせは神秘、秘伝、伝授にてただものをかくすがそのくせなり」(出定後語)

 

 

おぎゅう・そらい(荻生徂徠)

「日本の唯物論者」の中で著者の三枝博音は第二の人物としておぎゅう・そらい(荻生徂徠)を取り上げている。

荻生徂徠は二つの点で唯物論の萌芽が見られとしている。

第一は理論性の徹底である。

例えば当時の暦であった授時暦(じゅじれき)を批判して

「実験(推論)に基づくというが、それは三、四十年くらいしかないではないか、これでは私たちは信頼できない。」と述べ、理論的な裏づけ(惑星の運動、太陽系のモデル)を要求している。

第二は技術の重視である。

「理で考えていくのは宋の儒者が始めた。理をつかむ基礎ができていない。だから理にとどまっている。」と「理」の哲学を批判している。いったいのものは多くの理が集まっているところのものである。人はこのものに親しんでいるとそのものの理がわかろようになる。

また「後代の儒者は技術ということを軽蔑して言わないようになった。これでは本当の学問にならない。」と批判している。

 

かいばら・えっけん(貝原益軒)

「日本の唯物論者」の中で著者の三枝博音は近世の日本で唯物論を準備した人々を紹介している。そのトップがかいばら・えっけん(貝原益軒)である。唯物論としているが、これはヨーロッパの学問の方法論を準備した人々といってもよい。

益軒には「大疑録」という著述がある。その中で「形而上と形而下とを論ず」という一節がり、当時の朱子学の批判を展開している。「陰陽は地上のものとしている。これはおかしい。」地上にあるものは益軒にとっては技術の対象であり、観念的なものではなかった。天上にあるもののみが「陰陽が象をなしている」のである。

益軒は『大和本草』(二十五巻)などの実学的な著作があり、地上のもの対して博物学的な知識を体系化していおり、地上にあるものは観念的な対象でなく技術の対象であった。ここにものに即した学問の萌芽が認められる。