馬上蛎崎神社と蛎崎大明神

近くに馬上蛎崎神社がある。片平消防署の道路を挟んで向かいにある。
境内にある案内板によれば、「藩祖政宗公に功臣後藤信康が献じた五島という愛馬があった。年老いて慶長19年(1614)公の大阪出陣に洩れた事を悲しみ本丸の崖から飛下り死亡した。依ってその地蛎崎に葬り馬上蛎崎神社を建てて祀り追廻馬場の守護とした。明治4年片平町の良覚院跡に移して社殿成り桜田如水を宮司として町の間に「五島墓さん」と称して親しまれた。子どもの馬脾風(ばひふ=ジフテリア)除けの信仰があり胡桃を奉納する。例祭日は8月1・2日」という。
境内には馬頭観音の石塔や安政六年と読める「山神」の石碑がある。社殿は新しいもののようだ。

馬上蛎崎神社全景
馬上蛎崎神社全景


仙台にはこの「蛎崎」と名前が付く神社がもう一つある。それが蛎崎大明神である。場所は仙台城の東の崖下にある。この崖は直角に近い急峻な深い崖である。この神社というか祠へは、広瀬川の西岸にある追廻を南に進み崖下にでるのがよい。この祠の位置は青葉山公園の政宗騎馬像からみた崖の真下になる。四つ鳥居があり、最後の鳥居を潜ると右手に小さい祠があるが、正面にはとてつもなく大きな岩が二つ並んでいるのに出会う。もともとの祠はこれらの大岩の間にあったのでという雰囲気であるが、そこは大規模な落石があって何も残っていない。これが蛎崎神社の説明にあった「本丸の崖」かなとおもった。確かに深い崖である。

蛎崎大明神(最後の鳥居から大岩を臨む)
蛎崎大明神(最後の鳥居から大岩を臨む)

支倉常長と金華山号

このブログで以前書いたが仙台市博物館所蔵で支倉常長が持ち帰ったもの(全て国宝)の中に鞍や鐙など乗馬の器具が多い。これは常長が乗馬に大変に興味を持っていたことからだと思う。当時日本にやってきた宣教師たちが馬を連れてきた可能性があるが、常長は当時のヨーロッパで出会ったアラブ馬の立派な姿態に驚いたことであろう。常長がヨーロッパから馬を持ち帰ったという伝説もある。その馬を基に伊達藩では馬産が幕府に秘密裏に行われたという。
時代がずっと下るが明治天皇の御料馬になった東北の馬がいた。これが金華山号である。明治9年東北巡幸の際に付き人が目をつけて御料馬として買い上げたという。この馬の出身地は仙台の北、鳴子鬼首(おにこうべ)である。この馬は乗馬馬として優秀だったらしくよく調教されていたと言われている。例えば、儀礼式典の際には、祝砲などの大音響の会場でも落ち着いてヒトを乗せていたという。馬の姿態にはモンゴル系の馬以外の特徴があった。
支倉常長が持ち帰った馬の末裔とこの金華山号を関連づける人々もいる。
慶長と明治とは300年以上離れている。その間には江戸幕府八代将軍吉宗によるペルシア馬の組織的な輸入や馬産もある。こちらは資料的にもはっきりしている。この事跡の規模と拡がりのなかに伊達藩が含まれていた可能性もある。
金華山号の木彫が鬼首荒雄川神社境内の主馬(しゅめ)神社にまつられる。

金華山号
金華山号

生きた馬の博物館

世界中には様々な博物館があるが、この博物館は「生きた馬」の博物館である。これはフランスのシャンティイ城のコンデ公ルイ・アンリが建てた18世紀のヨーロッパ最大の厩舎で、ヒトと馬とに関連する博物館である。実際に今でも競走馬の厩舎になっていて、生きた馬が観察できるし、馬術ショーもやっている。展示スペースには馬車や馬具など馬関連の工芸品など200点が展示されている由。

アングロ・アラブ種「パオン」

昨日の馬場レッスンで乗った馬が「パオン」である。
アングロ・アラブ種でサラブレッドに比べてがっしりした体型で肢も太い。
Smithsonian Handbook”Horese”によれば、アングロ・アラブ種はアラブ種とそれを派生させたサラブレットの分家である。この馬は両方の馬の良い点を受け継いでいるにちがいない。このような掛け合わせはアラブ種の「大人しさ」と「スタミナ」を引き継ぎ、サラブレッドの「速さ」と「理解力」を直ぐに興奮する性質なしに受け継いた。
この馬の生産は英国で組織化され、ポー(Pau)、ポンパドゥール(Pompadour)、タルブ(Tarbes)、ヘロス(Gelos)などのフランス各地の大きな生産農場で150年に渡って組織的に生産され、その様式が完成したと言われている。英国でも優秀な馬が生産されたが、フランスへの影響はそれほどない。フランスでは1816年にアラブ種の二頭のオス馬と三頭のサラブレッドのメス馬との交配から生産が始まった。血統台帳への登録は最低でも25パーセントでアラブ種の血が入った馬で、両親がアラブ種、サラブレッド、またはアングロ・アラブ種である馬であることが確認されたものである。
アングロ・アラブ種の見かけはアラブ種よりサラブレッドである。アングロ・アラブがサラブレッドほど速くはないが、襲歩(gallop)ができる体型である。全体的にいってアングロ・アラブ種はアラブ種に比べ大きくがっちりしている。フランスではアングロ・アラブ種だけの特別な競馬もある。さらに国際的な規模で馬術等の競技に参加している。

 

支倉常長と乗馬

仙台市立博物館には支倉常長が当時のヨーロッパから持ち帰った品ものが展示されている。その全てが国宝である。昨日もその展示を見たが、招来されたものに馬具が多いのに気がついた。教会関連のものが多いのは当時の常長の関心事であったように、乗馬も常長の関心事であったのだろう。
常長が戦国時代の遺風のある時代に生きた武将でもあった証なのかもしれない。
馬具は
鞍(くら)(木製革張り)
鞍(くら)(木製)
鐙(あぶみ)(真鍮製)左右ー足置きが透かしになっている。鐙の側面に鋳出しの模様がある。
鐙(あぶみ)(鉄製)
轡(くつわ)(鉄製)2つ
四方手(しおで)
野沓(のぐつ)
である。
四方手(しおで)や野沓(のぐつ)は日本の乗馬用具名であるが当時のヨーロッパの鞍の部品なのであろう。。

古墳時代の「壷鐙」

滋賀県東近江市の蛭子田遺跡で、5世紀後半~6世紀前半(古墳時代後期)の木製のつぼ鐙が出土し、14日、同県文化財保護協会が発表した(河北新報7月14日)。
同協会は「木製つぼ鐙としては最古級。この地域が乗馬の文化をいち早く導入したことを示すとともに、初期の馬具を考える上で重要」としている。材質は針葉樹で、1本の木をくりぬいて作っていた。高さ20センチ、幅14センチ、奥行き16センチ。つま先に向かって左寄りになる形状から、右足用とみられる。表面は磨かれ、丁寧に仕上げられていた。地下約2メートルの川跡から出土。近くで見つかった須恵器から時期を特定した。

木製つぼ鐙
木製つぼ鐙


日本での鐙の歴史を見ると
日本の「鐙」は6世紀頃、中国、朝鮮半島から伝えられ、初期の原始的な「鐙」が数多く、各地の古墳から出土している。初期の「鐙」は、足を掛けるところが輪状になっている「輪鐙」と呼ばれる木製の物で、その後、木製の物に薄い鉄の板で補強した、木芯鉄張り「輪鐙」が登場し、6世紀末には「鐙」の先端部が壷を横にした形の「壷鐙」が登場する。平安時代になると「壷鐙」の足を乗せる部分が踵まで伸びた「舌長鐙」へと変化し、鎌倉から江戸時代末期まで、日本の「鐙」の主流をなした。この形は日本独特の形状で他ではみられない。平和な時代と共に、実戦用の物がすたれ、金銀象嵌、螺鈿、漆蒔絵の豪華な美術工芸品としても素晴らしい物が作られた。
と言われていて今回の「壷鐙」は壷を縦にしたような形で使うもので特異である。

馬の生物学定義

G.G.シンプソン著「馬と進化」(どうぶつ社)によれば、馬は
動物界(アニマリア)

脊索(コルダタ)動物門

哺乳(マンマリア)動物綱

奇蹄類目(ペリソダクチラ)

馬科(エクイデー)

馬属(エクウス)

馬(エクウス・カバルス)
となる。

原田甲斐供養会

原田甲斐の供養会が9日に営まれた(河北新報12日夕刊)。「寛文事件」で最も謎に満ちた人物が原田甲斐(はらだかい)である。伊達安芸の居城である涌谷では、原田甲斐は反対派の伊達兵部の一味ということになっている。
小説「樅の木は残った」(山本周五郎箸)、「虹の刺客」(森村誠一著)では、酒井雅楽頭(うたのかみ)の兵部を取り込んだ伊達家取り潰しの策動を察知した原田甲斐は、伊達安芸のように伊達家が兵部によって藩政が壟断されていることを幕府に訴えることで幕府介入のきっかけを与えてしまうことを心配していた。そこで「なにも無かった」ことで事態を収拾しようとした。刃傷事件のあった酒井邸で居合わせた伊達藩の重臣を原田甲斐は斬り殺して沈黙させてしまう。原田甲斐自身も駆けつけたものたちによって殺されてしまう。生き残ったのは古内志摩(ふるうちしま)唯一人である。かれは、この刃傷事件にはなぜか沈黙している。
伊達安芸はこの事件では正義派ということなるが、原田家は大悪人としてお家断絶となる。真実は分からないが歴史に埋もれさせるのには惜しい人物である。
供養会はいつもは命日の4月に行われるが震災の影響で7月になった。場所は「荘厳寺」。ここには原田邸にあった山門(逆さ門)が移設されて原田家とは縁が深いことからだと説明があった。原田邸は現在の高等裁判所の敷地である。

「戦争に征った馬たち」

表題の「戦争に征った馬たち」(著者:森田敏彦)という著書があることを今日の新聞の書評欄で知った。馬とヒトの出会いは最初は食料としての馬だったと云われている。世界中の遺跡で馬を食料としていた証拠が見つかっている。その次が軍馬である。世界史的にみても、ローマ帝国から両世界大戦まで馬は戦場で「武器」として使われてきた。日本においても、鎌倉時代から太平洋戦争まで馬は戦争目的のために使われていた。
この著書はとくに日本の近代の日露戦争・日中戦争・アジア太平洋戦争で戦地に征った馬たちの運命を全国に残っている「軍馬碑」(全国で950基あるそうだ)を基に調べている。ぼう大な数の馬が「出征」していった。兵士は帰還した人もいたが、帰還した馬はゼロに近い。
軍馬、いわば「動物兵士」を消耗品とした近代の戦争の実相がある。これは「人兵士」の扱いにも通じるものである。

春・夏・秋・冬

現在の日本では一年を春・夏・秋・冬の季節に分ける。何時からいつまでを「春」というのだろうか?これが今日のテーマである。
江戸時代の太陽太陰暦では、天体の月の満ち欠けに合うように「月」の初めとその長さが決められたが、太陽の動きにも合わせるようにした。そのため、「二十四節気」という太陽の動きに基づく節目を太陰暦に導入した。「二十四節気」は
立春(りっしゅん)
春分(しゅんぶん)
立夏(りっか)
夏至(げし)
立秋(りっしゅう)
秋分(しょうぶん)
立冬(りっとう)
冬至(とうじ)
など太陽の動きによる節目である。例えば、冬至は一年の内で南中の太陽の高度が最も低くなる日であるし、逆に、夏至では高度が最も高く日である。
二十四節気では、各「立」と「分」の間に二つの節が入る。
たとえば立春と春分の間には
雨水(うすい)
啓蟄(けいちつ)
の二つの節がはいる。このようにして6X4=24になる。
日本の春・夏・秋・冬はこの二十四節気を基に決められる。すなわち
春:立春から立夏まで
夏:立夏から立秋まで
秋:立秋から立冬まで
冬:立冬から立春まで
となる。立春は二月上旬であるので、実感の季節感からすると、この季節区分は少し前倒しである。だから、「暦の上では、春ですが…」となる。立秋は八月上旬であるので、この事情は秋も同じである。二十四節気は中国起源であるのでもっと緯度の高い北京あたりの季節に対応したものであるという説があるが、秋については、妥当であるが、春は逆センスになる。
僕はこれを以下のように考える。
そもそも天体の運行に基づく暦を作ろうとした文明には四季折々の風物から季節をはかる自然暦の環境が無かった。だから、「立春」などの節も単に観念的なものであったと思う。 ところが、それを輸入した日本には、以前から自然暦の長い伝統があった(本居宣長「真暦考」)。そこで輸入した暦に自然暦の対応をせざるを得なくなった。そこで上のような季節を配当した。これが僕の説である。
因みに西欧では
春:春分から夏至まで
夏:夏至から秋分まで
秋:秋分から冬至まで
冬:冬至から春分まで
となる。こちらの方が日本の季節感にマッチする季節区分である。