個別科学としての天文学が日本で意識されたのは何時ごろのことであろうか?
年表によれは明治五年(1872)南校ではフランス人レピシェを雇い入れ数学・天文学の教育にあたらせた。天文暦学とは関わりのない、純然たる天文学教育の始まりである。この純然たる天文学教育は星学(せいがく)と呼ばれていた。
この星学という言葉は司馬江漢著 『和蘭天説 (Oranda tensetsu)』
寛政8年 (1796)の中に見える。「天文学三道あり、一は星学(セイガク)、二は暦算学、三は窮理学なり」
窮理学は物理学のことである。
最初に講義された「星学」の具体的な中身については不明であるが
遠西観象図説(1823)には
「六星の大小及び其運行の遅速、距離の遠近等、傍通(〈注〉みとうし)して目(〈注〉めのまへ)にあり。実に星学家坐右の珍宝なり」
とあり、星学では惑星の運動、惑星の距離などが議論されたと思われる。特に惑星の距離はその惑星の実体を知る上で不可欠なものであり、これが議論されるということは「星学」は本物の天文学になりつつあることを示している。
この「星学」が司馬江漢の時代に現れたということは、この時代あたりから洋学を通して個別科学の天文学が日本でも意識され始めたと言ってよいと思われる。