「穢れ」(けがれ)と香

古代の人々にとって病気や怪我や不運などの悪いことは身体の溜まった「穢れ」のせいとされた。この「穢れ」を除く方法は沢山あった。その一つは人形にその「穢れ」を移しその人形を川に流せば「穢れ」も流れて行くというものだ。

古代のインドではさまざまな香はこの「穢れ」を取り除く効果があると考えられた。仏教で使われる線香を含めさまざまな香はこのようなインドの思想によるのかもしれない。

レクトール・チャンセラー・プレジデント

レクトール・チャンセラー・プレジデントは何れも大学の学長に対応する名称である。レクトールはヨーロッパ中世の大学で国民団の中から選ばれた自分たちの長を呼ぶのに使われた。任期が短いのが特徴で一ヶ月という短いものもあった。

プレジデントは大学に理事会がありそれが選んだ学長で、大学の部外者がなることもある。アメリカの大学の学長の呼称である。

チャンセラーは教会もこれに関わる形で選任されるイギリス型の学長の呼称である。名誉職の色彩が強い。現在でもロンドン大学などエリザベス女王がチャンセラーになっている大学が多い。

「中世大学都市への旅」(横尾壮英著)より。

ヨーロッパ中世における親族の墓あらし

Newscientistの記事のタイトルである。

ヨーロッパ中世初期に親族の墓を暴いて財宝を持ち去るという風習がはやった。これは単なる墓あらしと思われていたが最近の研究ではそのように単純なものではないことが分ったという話である。

ストックホルム大学の研究者たちは西はブリテンから東はトランシルバニアにある中世の墓に関する記録を解析した。これらの墓は紀元500-800年にわたる期間に亘るものである。

大部分の墓が暴かれ物が持ち去られたことが判明したが、奇妙なことにその墓の中の最も貴重なものが常に持ち去られたというわけではないことが判明した。

例えばケント州のある墓では遺体の衣服からブローチが持ち去られているが、銀箔のペンダントやガラスの数珠でできたネックレスは残されていた。

 研究者のAlison Klevnäsは「墓暴きは最大の利益のみを狙ったものではないように見える」と語っている。

傾向としては剣やブローチといったその親族に数世代に跨がって伝わってきた品々が持ち去られている。ナイフなど個人に繋がる品々は残された。

少数ではあるがもっと不気味な理由で墓が荒らされた証拠が見つかった。ある地域に跨った墓では不死を怖れて遺体に細工をした証拠があった。

「遺体は土に埋められその後は全く手をつけないというのは普遍的ということから遠く離れた観念である」とKlevnäsは語っている。石器時代には墓は生きている人々が遺体と再度対面できるように造られていた。今日でも生きている人々が遺体の残物と面会するような風習や祭りを持っているような文化は数多くある。

中世の大学と国民団(ネイション)

中世の大学で最も重要な集団の単位が国民団(ナテイオ)であった。出身地を同じくするものが相互の利益を守るために大学のなかで結成したものである。

例えばボローニャにはフランス、イギリス、ピカルディ、ブルゴーニュ、ボルドー、カタロニア、ハンガリー、ポーランド、ドイツなど十三の国民団があり、イタリア出身者のために四ないし三つの国民団があった。国民団は大学の重要事項を決める単位であった。中世の大学は国際的かつ学際的であった。

この初期の大学の特徴は国境という枠によって強く規制され、学問の単位として学部を重視する傾向とが強まることによって無くなってゆく。

 

 

ボローニャのスペイン寮

現在もスペイン政府の管轄下にあるボローニャ大学の寮である。

1367年の設立で今も使われて600年以上も歴史を持つ。名前の由来はスペインの枢機卿アルボルノスの遺言で生まれたことによる。設立の主な目的はスペインの若者の法学の本場で修業をつませることにあった。

スペイン寮:<講演録>ボローニャ : 都市と大学の誕生と発展(山辺 規子著)より

「中世大学都市への旅」(横尾壮英著)より。

 

 

ひだえりとボウズ:ジェントリのファッション

イギリスのエリザベス時代のファッションがひだえりとボウズである。

ひだえりはこれである。大きいのは肩をすっぽりと隠してしまうほどのものもあった。ボウズはホースで長いストッキングのことである。これと短いズボンの組み合わせがボウズである。

「洒落者たちのイギリス史」(川北稔著)より。

暗くなったベテルギウス:ちりと温度低下が原因

今朝の新聞のタイトルである。

このブログでも取り上げたベテルギウスの大減光の原因についての研究の記事である。

フランス国立科学研究センターのグループは欧州南天天文台の超大型望遠鏡(VLT)での観測からこの減光はベテルギウスの南半球に大量にちりが放出されたことと同じく南半球の表面温度の一部が低下したことによると結論づけた。

中世イタリア商人の世界-ルネサンス前夜の年代記

中世イタリア商人の世界(清水廣一郎著)という面白い本がある。イタリア・ルネサンス直前(14世紀)のフィレンツェの商人、ジョヴァンニ・ヴィツラーニが書いた年代記を紹介しつつ、当時の都市国家としてのフィレンツェの様子を紹介している。

日本でも堺が商人の町として自治権を持っていたことが知られているが、都市国家というのはその規模が桁違いに大きなものである。例えばフィレンツェでは商人たちつまり市民が暮らす市街地以外に東京都や神奈川県の大きさの規模の農山村地帯を支配地域として持っていた。これらの農民は支配される側の人々であった。商業で利益をあげることもあったわけであろが、このような農民支配は都市国家の経済的基盤であったのであろう。

南極を発見したのはポリネシア人かも?

今日の朝刊の記事のタイトルである。

ポリネシア人が7世紀ごろ南極大陸を発見した可能性があるという話である。

ニュージーランドもポリネシアの一部でポリネシア人が定住したのは1000年以上前からだと考えられている。かれらはマオリ(MAori)と呼ばれ自分たちの歴史を口伝として残している。

それらを解析した結果、ポリネシア人と南極大陸の関係を示す最も古い物語は1320年前に遡るという。