猫に関する格言

ネットワークが不調でここ2,3日記事をかけなかったが
フランスで出会った猫たち」(レイチェル・マッケナ)を眺めていて見つけた猫に関する格言を紹介したい。

(1)猫は毛皮と着たディレッタントだ。
デオフィル・ゴーチェ

(2)猫は書斎の虎だ。
ヴィクトリ・ユゴー

(3)数多くの哲学者と数多くの猫を研究した。
猫の知恵のほうが果てしなくすぐれている。
イポリット・アドルフ・テーヌ

(4)猫は地上に降り立った精だと私は信じている。
猫なら雲の上だって足を踏み外さずに歩けるはずだ。
ジュール・ヴェルヌ

(5)他の動物はすべて眠るときには疲れきった様子で横たわるのもだ。猫だけが自然から特権を与えられている。詩人であればそれほど現実をねじまげることなく、その眠りを瞑想や夢想と描写するだろう。
マリウス・ヴァジョン

(6)神は虎を愛撫するという喜びを人類の与えるために猫をつくった。
フェルナン・メリー

(7)まどろむ小さな猫。それは美の完璧な姿。
ジュール・シャンフリー

つがる市の「馬市祭り」と「馬ねぶた」

今朝の東北地方のニュースでつがる市で行われた「馬市祭り」と「馬ねぶた」が取り上げられていた。

つがる市のホームページの説明によれば、

明治36年より木造(きづくり)地区で始まった馬のせり市は大変な賑わいで、東北三大馬市に数えられるほど有名でした。しかし、近代化の波で農業の機械化が進むにつれて農耕馬が減少し、馬市は次第に衰退していきます。そこで昭和50年、馬にちなんだ祭り行事として「馬市まつり」が始まりました。

馬市まつりは8月下旬に3日間(今年は8月23日(金)~25日(日))開催され、よさこいや上原げんと杯のど自慢大会など多彩な催しで賑わいます。最終日には、趣向を凝らしたパフォーマンスや仮装をしながら馬ねぶたをひいて木造中心商店街を練り歩く「馬ねぶたパレード」が行われます。

ウマはホース(17):カマルグ

今回のウマはフランスのウマである。その名もカマルグ(Camargue)。画像はここ

「海の白馬」の名称を持つカマルグ馬は南フランスのローヌ川の三角洲にいる固有種である。半野生(Manade)のこの種は塩分を含んだ風(mistral)が支配する湿地という環境の野生で数千年の間生息したと同じような姿で現在の生息している。カマルグ馬はカマルグ・カーボーイ(gardian)によって騎乗され、カマルグに生息する野生の黒ウシの管理には不可欠である。

カマルグ馬は19世紀のその生き残りがソルトレで発見された先史時代のウマの後裔であるかもしれない。確かに、このウマは紀元前約15,000年のラスコーの壁画に画かれているウマに似ている。この固有種はムーア人の侵入によって北アフリカからもたらされたバーブ種の影響を受けていると断言できる。その後はこの半野生(Manade)地は外からの影響を受けなくしているのでこの地域の隔離は確実なものとなっている。

模範的な体型とは言い難いが、この品種は強靭で耐久力がある。信じ難いほど逞しく生育の遅れたアシの湿原をエサに生命を維持できる。動きは独特である。常歩、駈歩、襲歩は自由闊達であるが、速歩はぎこちないので滅多に使わない。

 

「近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)

大坂冬の陣で真田信繁と信幸の兄弟が登場する歌舞伎である。時代を鎌倉時代に移している。徳川家康は北条時政、真田信繁は佐々木高綱、信幸は盛綱となって登場する。八段目が「盛綱陣屋」で、首実験が大きなテーマになっている。

「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の「寺子屋」、「義経千本桜(よしつねせんぼんさくら)」の「すし屋」、そして「谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」の「熊谷陣屋」でも首実験が大きなテーマである。

ウマはホース(16):リピッツァナー

今回はウィーンのスペイン乗馬学校で有名なリピッツァナー(Lipizzaner)を取り上げる。画像はここ

スペイン乗馬学校で有名なリピッツァナーはオーストリアのグラーツの近くにあるピーバー繁殖牧場で育てられている。この品種はハンガリー、ルーマニア、チェコ、そしてスロベニアで精力的に生産されている。ヨーロッパにほかの地域でも数は少ないが生産されている。

リピッツァナーはスロベニアのリピカにある繁殖牧場から名前が由来しているスペイン馬の後裔である。この牧場はオーストリア大公、カール二世が9頭の牡馬と24の牝馬をイベリア半島から導入した1580年に創設された。彼はグラーツの公爵牧場やウィーンに宮廷牧場を見栄えのする葦毛の馬でいっぱいにしたかった。「スペイン」馬に由来するスペイン乗馬学校は貴族ための訓練のため1572年に創設された。冬宮にある現在の乗馬学校は1735年に完成した。

リピッツァナーの体型は多目的に有用なコブのそれである。今日ではリピッツァナーは騎乗馬と同様に引き馬としも有用されている。ハンガリーで生産されている種は優秀な馬車馬で、サラブレッドの影響はあり動きは多様で自由度が大きなものになっている。この馬は長寿で、乗馬学校の馬たちは二十歳を過ぎても難しい演技をこなすことができる。

 

「馬面(うまづら)」花巻電鉄

花巻市街地と花巻温泉郷を結び走っていたのが花巻電鉄である。1969年まで現役であったが、現在唯一存在する車両に乗ってみる体験会があった(河北新報8月15日記事)。

記事によれば花巻電鉄は県道の一部を借用してレールを敷設したため、レールの最大幅員が1.6メートルしかなく、従って車両も極めて縦長になっている。これを称して「馬面(うまづら)電車」と言ったそうである。

画像はここ

ウマはホース(15):シャギャ・アラブ

今回はオーストリア・ハンガリー帝国時代のハンガリーで飼育されていたシャギャ・アラブ(Shagya Arab)である。画像はここ

この時代にハンガリーの最大の繁殖牧場で飼育されていたウマの中で最も著名なウマがシャギャ・アラブである。このウマは類稀なハンガリーの軽騎兵の乗用馬の質と量とも負っていた。現生のシャギャ・アラブはその祖先と同じ実用であるが、騎乗ばかりでなく引きウマとしても使われている。

シャギャ・アラブの生産の中心地は1789年の創設されたバボルナ繁殖牧場であった。1816以降は純粋な「砂漠」のアラブ種の生産に傾いており、「アラブ種競馬」の半血種の生産が増加した。これらのウマはスペイン種、ハンガリー種およびサラブレッドの系統をひく牡ウマと卓越したアラブ種の牝ウマの交配によったものであり、その基礎になった牡ウマの名前シャギャの名前を引き継いだ。

シャギャは体型も性質もアラブ種であるが現生のアラブ種より大きい。き甲がより顕著で強力な肩はより傾斜している。アラブ種では後肢がよく批判の対象になるが、シャギャにおいては概ね正常である。

夏越祓(なつこしのはらい)

もう一つ古式の雰囲気を残す夏の祭りを紹介したい。それは夏越祓(なつこしのはらい)である。

縄解きの神事が始まる。神前に供えられいた短い縄の山が神官たちによって参拝者に配られる。一人に二本ずつ、一本は右より、もう一本は左より。祝詞が詠まれる。参拝者はみな右縄の一端を口にくわえ、右手で縄の撚りを解く。また祝詞が詠まれるが、今度は左縄で同じことをする。すっかり解けてしまった縄で体にあちこちをさする。これによってその人の災厄や不祥の全てが縄に移される。この縄はあとで人形(ひとかた)とともに川に流される。

川原に祭壇が作られている。その祭壇には人形が置かれている。人形は白紙に人形を黒や赤で画いたものである。この人形がさきほどの縄と一緒に川に流される。これが夏越祓(なつこしのはらい)である。

人形を流す風習は平城京の時代でも知られている。穢れやそれを浄める祓いは古い時代からあったわけである。

七夕祭:乞巧奠(きつこうてん)

七夕祭は女子のお祭りだった。平安朝には乞巧奠(きつこうてん)といわれ盛大なものであった。「宇津保物語」には

「七月七日になりぬ。賀茂川に御髪すましに大宮より始め奉りて、小君たちまで出で給えり。賀茂の川辺に桟敷うちて男君たちおはしまうさず、その日の節供川原にまいれり、君達御髪すましはてて、御琴しらべて七夕に奉り給ふほど….」

とある。琴を鳴らして奉納する対象は七夕で牽牛、織女の二星である。ここには中国の七夕伝説の影響があるが、川辺に桟敷をつくり、そこで髪を洗い浄め、食事もそこでとるということは水神に奉仕する巫女のことである。つまり夏にはその力を発揮する水神のため、おとめたちは桟敷ー棚(たな)ーを設けて神に仕えた。棚には織機ー機(はた)-がすえられ、おとめたちは神に捧げる神衣を織った。これが日本のタナハタであった。