「高瀬庄左衛門御留書」(砂原浩太朗著)

久ぶりに時代小説を読んだ。「高瀬庄左衛門御留書」(砂原浩太朗著)である。

地方の小藩が舞台で、村回りの一役人が主人公である。設定から「藤沢周平」に似ている。人物描写や風景描写は極めて気に入った。

村でおきた大事件が余りにも都合よく解決されてしまった点が気になった。

須弥山宇宙と地動説

ヨーロッパにおいては「天動説」から「地動説」へに転回は大論争を引き起こし、その転回は「コペルニクス的転回」として科学史上の大転回と位置づけられている。

江戸時代になってこれらの知識がわか国へももたらされるが「地動説」を「天動説」からの「コペルニクス的転回」として驚きを持って受容したようには思えない。

これは当時主流であった儒教には「宇宙モデル」というものがなかったことに起因するように思われる。面白いことには、仏教が「天動説」や「地動説」に敏感に対応していることである。

仏教は伝統的な「宇宙モデル」を持っていた。それが須弥山宇宙である。西洋天文学の新知識と須弥山宇宙とを融合する努力がなされた。「星の宗教」(吉田光邦著)によれば、その努力の頂点にたったのは円通である。彼は「仏国暦象論」「梵暦策進」の著書で地動説は須弥山宇宙に含まれると主張した。かれは「地動説」を充分理解し、地動説は須弥山宇宙の見えてる部分に対する説だとした。西洋天文学の受容の仕方としてこれは面白い。

杉田玄白と吉益東洞:「気の理」と「理の否定」

「徳川合理思想の系譜」(源 了圓著)では荻生徂徠の弟子である医者であった杉田玄白と吉益東洞を対比している。

荻生徂徠の思想の大きな特徴は思弁的な朱子学的な理の否定である。杉田玄白と吉益東洞もこの荻生徂徠の弟子であり、両者とも医者である。師の朱子学的な理の否定の影響を受けながらも、朱子学的な理の克服では対照的な道を歩んだ。吉益東洞は医術の世界で「事実主義」を主張、彼は言う:

「唯毒の所在を視て療治するなり、因を論ぜずという主意は憶見に落ちて治療なりがたく殊に道を害することある故なり。」

一方、杉田玄白は洋学と出会うことにより、人体構造の解剖学知識にもとづいた病理を明確に認識した。朱子学の思弁的な理に替わる「気の理」の重要性を認識した訳である。かれは言う:

「只願くば病因を分ち、条理を知るを肝要とすべし」

ここには理論と実践の相互フィードバックという科学的方法論の自覚が明確に表明されている。

 

西川如見:「命理の天学」と「形気の天学」

「徳川合理思想の系譜」(源 了圓著)で暦学者の西川如見を取り上げている。如見は「命理の天学」と「形気の天学」を提唱した。これは科学的方法論の「実験(観測)」と「理論」との関係を彷彿させる。

しかし、かれにとっては「命理の天学」はあくまで朱子学の思弁的理論天文学であり、この双方の天学は不可分なものとしているが、「形気の天学」から「命理の天学」へのフィードバックまたその逆の「命理の天学」から「形気の天学」へのフィードバックも予定されていない。

「命理の天学」は余りにも思弁的・哲学的であり、「形気の天学」との距離があり過ぎた。これでは双方からフィードバックは期待できない。日本の学問はこの距離をいかに縮めるかという方向で発展したように思われる。

日本の本格的な暦学は外来の中国の暦を日本独自の暦に置き換えることから始まった。このような機運は同じく外来の朱子学の「命理の天学」への距離を縮めることに繋がったと思われる。

惑星の運行の理論模型はプトレマイオスまで遡る。この古い理論模型はケプラーなどの火星の運行に関する観測によって否定されコペルニクスの理論モデルに置き換わった。これは科学的方法論の典型である。

 

「仏教」から「儒教」へ

「徳川合理思想の系譜」(源 了圓著)の中の冒頭で

「近世初期において仏教から儒教へと大きな転回が行われたのは、うき世ということばの内容が、中世的憂世から浮世にかわったことが示すように、人々の関心が、彼岸から此岸へと移った精神的背景のものにおいてであった。」

なるほどと思った。

 

昨日の雨は激しく「車軸を降らすような」雨だった。

この「車軸を降らすような」雨という表現はよく使われる。

広辞苑によれば

「車軸を下す」また「車軸を流す」とも言う。雨が車軸のような太い雨足でふることの意である。盛衰記に「折節降る雨車軸を下して」とあることを紹介している。出典は不明。

昨日の雨では箸のように延びた雨垂れが落ちてきたが、「車軸を降らす」とは雨垂れの形が太いばかりでなく、長く伸びたものになったことを形容しているのかもしれない。

 

 

また?!左巻きツブ貝:南三陸の漁師金華山沖で発見

今朝の河北新報の記事のタイトルである。

発見したのは漁師の星さん。貝は「コエゾボラモドキ」というツブ貝で通常は殻の頂点から右巻きに成長するが、これは左巻き。画像はここ

水深250メートルに設置したミズタコの籠漁の籠の中に入っていた。殻の長さが約10センチの左巻きのツブ貝である。

南三陸町の志津川湾でも昨年11月左巻きの「ヒメエゾボラ」が見つかっている。

巻き貝の巻く方向は、種によって決まっているのが普通である。9割の種が右巻きと言われているが、理由はよくわかっていない。巻く方向は1個の遺伝子か強く連鎖する複数個の遺伝子によって決定されるという。発見された左巻きのツブ貝は突然変異体である。

 

 

ヨーロッパ中世における賎民

ヨーロッパ中世においても被差別民がいた(中世賎民の宇宙(阿部謹也著))。

日本の中世とヨーロッパ中世との決定的違いはヨーロッパにおけるキリスト教の存在である。キリスト教下では日本のように「穢れ」の蓄積が病気や不運の原因になるといった観念はなかったと思われる。それにも拘わらず、革剥、羊飼、牧人、犬革なめし工、家畜を去勢するものなどが差別された。

農村における共同体の発展や都市におけるギルドの発生によって社会の組織化が進み、これらの組織の枠外にある人々が出てきた。これらの人々が被差別民であった。枠外にあることが直ちに蔑視に繋がらないが、利害が対立する中で「蔑視」の雰囲気が醸成されたのかもしれない。

 

「穢多」(えた)ということば

奈良時代には穢れ(けがれ)を酷く嫌いそれが自分の体に蓄積すると病気や不幸の原因とされ如何に穢れを無くすかが真剣に考えられた。

そのころから「「穢多」(えた)の事なり」として差別された人々がいた。この「穢多」という言葉は「そのひとに穢れ(けがれ)が多い」からか、または「そのひとが穢れ(けがれ)が多いと考えられていたものに従事していた」からか。

多分後者であろう。

塩は当時から特別の物質と考えられていた。腐敗を予防するなど何か神秘的な力を持っている物質と考えられていた。「穢多」の人々はこの塩を使って穢れ(けがれ)を清める特別な能力を持っていて天皇や寺社の管轄下にあってある種の特権、例えば塩の専売権を与えられていた。

南北朝以降天皇や寺社の権威が落ちてくるに従って「穢多」の人々に対する評価も変化した。商業の発達によって塩がより普及することによって塩の神秘性、延いては「穢多」の人々の神秘性も失われていった。

このような状況によって次第に「穢多」の人々に対する蔑視の環境が醸成された。

星の年齢:宇宙で最初に生まれた星

まず太陽が誕生してから何年になるかという問題である。

その直接的な検証はできないが地球上で一番古い岩石の年齢が48億年であることから太陽は誕生から50億年程度たっていると思われる。

このように単独の星の年齢を推定することは難しいが星団に関してはそれを構成する星が同時に誕生したと仮定すると恒星進化論との比較でその星団の年齢は推定できる。球状星団に年齢が古く130億年というものもある。

星は宇宙進化の過程で誕生したと思われるので宇宙の初期に誕生した星の情報が得られれば最初に生まれた星ということになる。宇宙は誕生から膨張しており宇宙の初期に誕生した星の光は赤方偏移を受けて観測される。この赤方偏移の度合いを膨張宇宙のモデルと比較するとその星に年齢が推定できる。最近の観測で約138億年前のビッグバンから約3億年後の宇宙最初期の銀河(星)が見つかっている。

宇宙の初期では物質は水素とヘリウムの形をとっていてそれより複雑な元素が存在しないと考えられている、複雑な元素は星の内部で生成される。星から来る光の分光観測で星の表面付近の元素の存在に関する情報が得られる。この情報からその星が誕生したときの元素分布の推定できる。重い元素を含まない星はより初期に誕生したと考えられるので、重い元素を含まない星が観測されればそれは初期の星ということになる。そのような星が観測されている。われわれの銀河の中にあってその一つは推定年齢は135億年となっている。

宇宙が一様であるとすると約138億年前のビッグバンから約3億年後の宇宙最初期の銀河は我々の住んでいる銀河の135億年まえの過去の姿である。太陽は存在しないが、古い球状星団は誕生して重い元素を欠く星が誕生したような時代である。