4万4000年前の物語?

今朝の新聞の記事のタイトルである。

インドネシアのスラウッシ島にはさんご礁でできた洞窟が沢山あり、それらの洞窟の壁面には壁画が描かれたものがあることが1950年ごろより知られていてその数は242箇所にもわたっている。

壁画の描かれた年代は?

2014年にオーストラリアのグリフィス大学とインドネシアの国立考古学研究センターの研究者たちによる年代測定がなされた。4万年前近くに描かれた壁画もあるという驚くべき結果であった。

2017年に見つかった洞窟壁画ではさらに面白いことが見つかった。この洞窟はレアン・ブル・シポン4洞窟と名づけられたもので動物(2頭のスラウェシイボイノシシと4頭のスイギュウ)が描かれていたが、一頭のスイギュウの前には人らしきものが6人描かれていた。この人らしきものは「くちばし」や「尾」ようなものを持っていて当時の人々の想像力によって生まれた「獣人」だという。この壁画の年代測定もされて4万3900年~3万5100年と出た。

こんな古い時代から人類は想像力を働かして世界を見ていたのだ。

この洞窟の壁画の画像はここで見られる。

 

 

美術に表現された馬(1):Blue Horse I (Franz Marc)

Dr. Seuss’s Horse Museumという面白い本をもらった。こども向けの本であるがおとなが見ても面白い。馬の本でなくて、美術の本である。芸術家たちが馬という動物をどのように見ていたのかを紹介したものである。面白ので何人か紹介する。

初回はFranz Marc(フランツ・マルク)の”Blue Horse I”である。

かれの作品はここで見られる。

本の中の解説によれは

ドイツ生まれのフランツ・マルクは大胆な色使いの動物、特に馬の絵によってよく知られている。マルクにとって馬は人類が失ってしまった方法で自然とつながりを持つ神秘的な創造物であった。彼のエッセイ「馬は世界をどうようにみてるのだろうか?」の中で彼は「芸術家にとって自然が動物の目の中にいかに反映されているかを想起する以上に神秘的な観念以上のものがあるだろうか?」、「馬は世界をどうのように見ているにか、タカは、シカは、はたまたイヌは?」

ジャン・グルーヴァーの「静物写真」

ちくま文庫「アメリカの現代写真」(小久保彰著)の中でジャン・クルーヴァー(Jan Groover)の「静物写真」の紹介があった。

写真はここ

スプーンやピーマンなどの日常的なものを対象としながら配置や構図で非日常を表現している。大変に興味深い写真家である。

ハヤブサの見分ける速さ:人間の2倍以上

今朝の新聞によれば

スウェーデンのルンド大学の研究者たちはハヤブサの見分ける速さを測定し、そればヒトの二倍以上であることを見出した。

光源を点滅させる測定をする。ヒトでは毎秒50-60回以上の点滅であると、この光源は点滅ではなく常時点灯しているように感じる。これがヒトの限界である。だから映画は毎秒60コマの静止画を観客に見せて動画として感じさせている。ハヤブサの実験ではこの限界が毎秒120回の点滅以上にならないと常時点灯とは感じないという結果になった。

動体視力というものがある。ピッチャーの投げたボールが「止まって見える」という表現で動体視力が話題になるが、これは視覚の空間分解能と時間分解能による。空間分解能が同じであると時間分解能が高いと速いボールでもコマ切れ(静止画)のように見えるわけである。

ハヤブサは鳥などを捕獲するとき毎時300キロメートルもの速度で追跡するそうでこの動体視力が物を言うのである。

ウマはホース(26):バルブ

今回は(北)アフリカのウマをみる。最初はバルブ(Barb)種で、画像はここ

バルブ種はアラブ種に続いて世界の馬の品種の基礎になった馬である。この品種はサラブレッドの基礎になっている。

この品種は北アフリカのモロッコが原産地である。この品種は氷河期を乗り切って野生ウマの集団を形成したと考えられている。どうだとすると、この品種はアラブ種より古いこのになる。ある時点でアラブ種のいくらかを血がはいったが体型はアラブ種の典型から引き継いだものはなにもない。近年伝統的なバルブ種、つまりイスラムのヨーロッパに進出にたいして大きな役割を果たしたベルベル人の騎兵が乗った馬に関する検討が進められた。元来のバルブ種の起源は不明な点があるが、バルブ種とアラブ種にははっきりとした違いがある。

 

ウマはホース(25):ルシターノ

今回はポルトガルの馬であるルシターノ(Lusitano)の取り上げる。ルシターノも画像はここをみてほしい。

ルシターノは最高級の騎乗馬と同時に観閲用の馬車馬としても特筆され、かつてはポルトガル騎兵の騎乗馬であった。この馬はポルトガルの闘牛士たちに最も好まれた馬であり、この役割のため、Haute Ecoleの上級運動コースで訓練された。近年ではイベリア半島だけでなく、多くの愛好者がいる。

この品種はスペインのアンダルシアンのポルトガル版と言ってよい馬である。

 

 

ウマはホース(24):アンダルシアン

久ぶりに馬の話。

スペインの南に位置するアンダルシア地方の馬であるアンダルシアン

現生のアンダルシアンはアラブ馬やバーブ馬と並んで世界の馬の品種に絶大な影響を与えたスペイン馬の後裔である。十九世紀までスペイン馬はヨーロッパ中で第一級の馬であり、ルネッサンスの乗馬学校の古典馬術がその基礎とした馬であった。ウイーンのスペイン乗馬学校はそこで使われていたスペイン馬に因んで付けられ、有名な葦毛のリピッツァナーは十六世紀にスペインからスロベニアのリピカに輸入されたスペイン馬から直接に引き出されたものである。

アンダルシアンの生産はヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、コルドバ、セビリアが中心で、そこではカソリック修道僧たちによって生産が継続されていた。スペイン馬は野生種のターパンとの関連でポルトガルのソーライアと北アフリカから侵攻してきた部族たちが持ち込んだバーブ馬との混血かもしれない。

アンダルシアンは雄姿の馬である。速い馬ではないが、素早く動き運動能力は高い。鷹のようなスタイルの優雅な頭部で、たてがみや尾の毛は長くときとしてウエーブしている。

 

 

宋の太祖趙匡胤(ちょうきょういん)の「石刻遺訓」

小説十八史略」(陳舜臣)の中で著者は宋の太祖趙匡胤を大変に褒めている。

この趙匡胤は生粋の軍人であるが、国家の基本に文治主義を貫いたからだ。かれは子孫のため遺訓を石に刻み、禁中の最も奥の皇帝しか入れないところに置き、新帝が即位するとこの遺訓を読むことを重要な儀式とした。この遺訓は三百年も続いた宋王朝の基本姿勢となった。

この「石刻遺訓」には何が書かれていたのか?

一 宋に国を譲った後周王室柴(さい)氏を子々孫々にわたって面倒をみること。

ー 士太夫を言論を理由として殺してはならぬこと。

これが遺訓の内容であった。

第一の遺訓のお陰で三百年の宋王朝の期間柴氏は宋王朝の賓客の扱いを受けた。第二は「言論の自由」を保障したことである。