レオナルド・ダ・ヴィンチと司馬江漢

レオナルド・ダ・ヴィンチと司馬江漢は二人とも画家であるが、天文研究もしていたという共通点がある。しかも太陽中心説を擁護する論法が独特で面白い。

レオナルドは言う:

「大きさからみても、 力からみても、宇宙に はそれを凌ぐ天体は見当たらないのから。太陽の光は宇宙に広がるすべ ての天体を照らす。 」(「太陽の賞賛」手稿)

江漢は言う:

「太陽ノ大ナルコト三十万九千五百一里余ナリ、日輪天の一度ハ三十万二千九百八十六里三二九ナリ、太陽ノ一跨(ヒトマタギ)ニ不足(タラズ)、タトエハ人ノ五尺ノ身以テ昼夜歩(ユカ)バ二十里ヲ歴(ヘ)ル」(和蘭天説)

と両者とも太陽が不動なことを主張している。論法が面白い。

 

ウマはホース(35):ペルビアン・パソ

南米ペルーのウマである。独特の四節の歩様で走る。動画が面白い。

ペルビアン・パソは前回紹介したクリオロと共通の祖先によることが分っている。このウマはパソ・ラノという名称で知られている独特な肢を横に蹴り出すような四節で走り、特異な体型をしてる。

このウマの品種改良はこのパソ・ラノという歩様を完成させる方向でなられている。パソ・ラノの動作では前肢を円を描くように活発に動かし、後肢はこの動きを強力にサポートする。そのため馬体の後半部を低く構える。

この品種は大変に強靭である。後肢および繋は長く、関節はことのほか柔軟である。これらの要素がことウマの歩様の快適さに貢献している。

レオナルド・ダ・ヴィンチの天文研究

世界史的にみると天文学が個別科学となるのは17世紀で「太陽系の大きさ」といった天体までの距離や天体の大きさが議論されはじめたころであると考えられる。これはコペルニクスの天動説から地動説への転回(1543年)より天文学にとっては本質的であると考える。

このような状況にあって15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて生きたレオナルド・ダ・ヴィンチがどうような天文学の研究をしたか興味がある。この問題にたいする詳しい研究の一つに井上昭彦氏の研究がある。それによればレオナルドは「太陽の賞賛」という手稿の中で以下のように記している

「ああ 、太陽よりも人間を崇め讃えようとする人びとに論駁できるほどの 語彙が私にあればよいのだが。大きさからみても、 力からみても、宇宙に はそれを凌ぐ天体は見当たらないのから。太陽の光は宇宙に広がるすべ ての天体を照らす。 」

全てを照らす太陽が宇宙(太陽系)の中心にあることを主張している。これ以前の手稿で天体の見かけの大きさと真の大きさとの関連を議論したり、月の性質を議論している。

天体の見かけの大きさと真の大きさの関係を量的関係として把握する一歩手前まできている。

因みに天体の大きさや天体までの距離を最初に量的に把握したのは古代ギリシアの人々で、地球の大きさ、地球から月までの距離、月の大きさを観測から求めている。地球から太陽までの距離はさすがに難しく信頼できる値は得られていないが、太陽がとてつもなく大きな天体であることは認識できた。これらの知識はアラビアの科学を経て12世紀ごろからヨーロッパに知られるようになる。

ウマはホース(34):クリオロ

南米の馬を紹介する。最初はアルゼンチン原産のクリオロ(Criollo)である。画像はここにある。

アルゼンチン原産であるが、少し異なった体型と異なった名前で南米大陸全体に生息している。例えばブラジルではCrioula Brazileiroの名前を持っている。アルゼンチンにおいてはクリオロはパンパスで働くカーボーイ、ガウチョ(Gaucho)にとっては不可欠な乗り物であり、アルゼンチンで有名なポロ・ポニーの進化で重要な役割を果たしている。

クリオロは16世紀に南米にもたらされたスペインウマの系統を基礎としている。それらの馬は忍耐強いバーブ種の血を持っていた。目立った最初の輸入は1555年にブエノスディアスの建設者であるDon Pedro Mendozaによってなされた。その後原住民のこの都市への侵入で、これらの馬は広範囲に四散し野生となった。

クリオロはスペイン馬を祖先とする仲間に共通の特質である堅牢さや従順さでは世界一のウマである。過酷な環境で最低の食料で生きることができる。また耐久競技では信じ難い力を発揮し、長寿であることも特質である。

レオナルド・ダ・ヴィンチの三つの騎馬像

田中英道著「レオナルド・ダ・ヴィンチ」によればレオナルド・ダ・ヴィンチは未完も含め三つの騎馬像に関わっている。

(1)コレオーニの騎馬像

ヴェネツィアのカンポ・サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場に現存する騎馬像である。画像はここで。直接の製作者はフィレンツェのヴェロッキオであったが騎士の厳しい表情や馬の首あたりの緊張感は当時ヴェロッキオの弟子であったレオナルドの影響が強く出ているといわれている。1480年ごろの作品で、馬は常歩の歩みをしている。

(2)スフォルツァ騎馬像

レオナルドがフィレンツェからミラノに移り、ミラノ公ロドヴィコの依頼により製作を試みた。騎馬像の馬の頭部から脚の先の長さが7.2メートルでしかも馬はレヴァードの姿勢(馬の両前肢を地上に上げて馬体を後肢のみで支える)をとっているというものである。青銅製でその鋳造に必要な青銅の重さは72.5トンという巨大なものであった。1490年ごろの試みである。レオナルドより依頼主が計画を断念してしまったという。強化プラスチックによる現代版「スフォルツァ騎馬像」。

(3)トリヴルツィオ騎馬像

1510年ころである。素描が残っている。その画像はここで。現存しないし製作したのかも不明。

 

東洋の星学(7):南極老人星

南極老人星(なんきょくろうじんせい)はカノープスを神格化したもので、寿星とも言われている。明るい星であるが北半球ではこの星は南の地平線のぎりぎりのところに見える。星図でみるとここである。

古代中国ではこの星は天下泰平のときのみ見えると思われていて、見えると人々は争って幸福と長生を祈った。

 

東洋の星学(6):文昌帝君(ぶんしょうていくん)

文昌帝君(ぶんしょうていくん)は北斗の魁星(かいせい)=(北斗七星を柄杓(ひしゃく)になぞらえたとき、水をくむ部分の先端にある第1星)の近くにある文昌六星を神格化したものである。

唐代に張亜という人がいて、故郷の浙江省から梓潼(しとう)県に移って先生になったが、人柄がよいうえに文章にすぐれ、しかも人々に親切丁寧に教えたのですっかり尊敬された。かれが死ぬとかれの徳をしのんで梓潼君祠をたてて祀ったという。この梓潼君が文昌帝君と結びつき文昌帝君が「文章・学問の神」とされるようになった。

また、文昌帝君は文字を書いた紙を粗末にしないという習俗と関連して信仰されている。この習俗を「惜字紙(せきじし)」という。

 

東洋の星学(5):南斗真君

南斗星君(なんとせいくん)は南のいて座の近くにある六星、南斗六星を神格化したものである。位置はここで。北斗が司命の神であるのに対して南斗は生を司る神である。

「道教の神々」(窪徳忠著)では、南斗は「北斗七星の柄杓の近くにある六星」としているがこれは別な星か?

 

ネアンデルタール人も魚介類に舌鼓

今日の朝刊の記事のタイトルである。ネアンデルタール人も魚介類を食べていた証拠が見つかったという記事である。現生人類(ホモサピエンス)が狩猟生活をしていた時代はタンパク源として大量に魚介類を食べていたことは骨の窒素含有量で推定されているが、ネアンデルタール人も魚を食べていたことが遺跡の発掘調査でわかった。

バルセロナ大学の研究者たちはリスボンの南30kmの大西洋に面したところにあるフィゲイラ・ブラバ遺跡で、二枚貝のムラサキガイや魚、カニの化石を発掘した。これらの化石は年代測定で10万6000年~8万6000年の範囲にあることが分り、この年代にヨーロッパにいたのはネアンデルタール人だけであることからネアンデルタール人も魚を食べていたと結論つけた。

ネアンデルタール人と海洋動物の関係に新たな光を当てる発見である。

焼いた痕があるカニの爪の化石