「ヤマト」から「日本」へ

「日本」という国名ができたのは何時ごろかという問題。

海と列島の中世」(網野善彦著)によれは、それは律令制が確立した7世紀から8世紀にかけてのころである。それ以前には、「ヤマト」という呼び名であった。「日の本(ひのもと)のヤマト」である。その「日の本」(中国から見て太陽が朝のぼってくる地方)から「日本」が出てきたもの。これには原始的な太陽神信仰の影響もある。

この時期以前には「日本」も「日本人」もなかった。さらにこの時期以降も東北地方(蝦夷)や九州(隼人)には日本人」はいなかったわけである。

「若狭井」(わかさい)と製塩土器

「塩釜」は鉄製の大きな釜でそれで海水を煮立てて塩を作る。その鉄器以前は土器を使って塩を作っていた。福井県若狭ではそのような製塩用の土器が沢山みつかっている。ここは古くから製塩が盛んであって平城京に米の代わりに塩を納めていた。平城京から出土する木簡でもそのことは確認されている。平城京と若狭は深い関係あったのだ。

ところで東大寺二月堂で3月に行われている「お水取り」の行事は火と水の行法であるが、そこで使われる水は「若狭井」がある閼伽井屋(あかいや)(ここには水取衆といわれる特別な人のみが入れる)から運ばれる。なぜ「若狭井」と呼ばれるのか?

「お水取り」の行法は三月初めから始まるが、調べてみると若狭湾に面した小浜市の若狭神宮寺でも三月の初めに「お水送り」の神事が行われている。この神事も火と水の行法で「お水取り」と極めて似ているものである。この神事がどの様な歴史を持っているか不明であるが、若狭と東大寺延いては平城京との深い係わり合いによるものであるように思われる。

讃岐街道と義経

これも「街道」にあった話である。讃岐街道は四国の東端から屋島に通じる街道である。

屋島に陣取っていた平家の軍勢に対して海からではなく、山側から奇襲をかけたのが義経である。撫養(むや)街道の板野から北上する讃岐街道は大坂峠という難関がある。この大坂越を雨を突いて進撃した義経等150騎はこの峠を突破して瀬戸内海に出て屋島に出たという。摂津の渡辺津から義経がとった経路はここで見れる。

街道というものは人や物は通るものであり、人が登場するがその街道を使った人のいろんなエピソードが面白い。

 

備讃瀬戸・丸亀渡しと北畠師清(もろきよ)

これも「街道」(杜山 悠著)に出ていた話である。

海賊の話である。瀬戸内海は海賊の活躍したところである。「村上水軍」がその一例であり、近くには九鬼水軍(くきすいぐん)がいた。

今は瀬戸大橋が架かり面影が無くなっているが、児島半島の先端にある下津井(しもつい)港から四国の丸亀までは塩飽(しわく)諸島を縫って海上航路が開かれていた。この塩飽諸島は海賊の本拠地であった。表題の北畠師清(もろきよ)もここで活躍した人物である。

かれは南北朝時代の南朝の武将北畠顕家の落胤と自称し、伊勢の海から備讃瀬戸に入り塩飽海賊を手下にし、その勢いで村上水軍の総師になったといわれる人物である。海の歴史も面白い。

生きることは描くこと:大地の画家・神田日勝

このタイトルの記事が「大人の休日倶楽部」2020年7月号に載った。この画家についてはこのブログでも以前取り上げた。今年はこの画家の没後50年にあたるのでいろんなかたちで取り上げられている。

かれが画家かつ農民として生活した北海道鹿追町にある神田日勝記念美術館にはかれが描いた多くの絵画が展示されている。馬を描いた作品も沢山ある。

この地方は現在でも馬が多く、この鹿追町には日本最長の馬の散策路「馬の道」がる。

2020年「視点」第45回展作品集

今日の新聞の読書欄に表題の写真集の案内が載っていた。

プロ、アマの区別なく自由なテーマで応募できる写真展「視点」。その2020年入賞・入選作品を収録した写真集である。その一部はここで見られる。今回視点賞を受賞したのは組写真「止まったままの時計ーフクシマ」(「6人の目の共同制作で、モノクロ写真6枚)である。新聞ではその内の1枚(本木進撮影)の相馬の馬の写真が掲載されていた。何かをうったえるような硬い馬の表情が印象的な写真である。この組写真は6人が9年前から記録してきた中から生まれた作品の由。

西国街道攝津路と荒木村重

「街道」を見て見ていたら「荒木村重」という人物が登場する街道が紹介されていた。それが表題の西国街道攝津路である。伊丹市から西宮に向かう街道である。その街道沿いに伊丹城(跡)がある。この城の城主だったのが荒木村重だった。

荒木村重は現代のわれわれからみると理解し難い行動をした戦国大名である。その行動は「下克上」が普通であった戦国時代の潮流からかもしれない。そこから荒木村重は本能寺の変の首謀者だったのではないかという説も生まれている。

「飼養衛生管理基準」の改定案の問題点

農林水産省が検討を進めている「飼養衛生管理基準」の改定案が畜産農民の中に不安を広げているというニュースが今朝の新聞に載った。

家畜伝染病が発生した際の「放牧中止」などの項目である。農民運動全国連合会も意見書を出した。その中で肉用牛の繁殖雌牛の17パーセント、酪農での飼養頭数の23パーセントが放牧であり、この中止条項の影響は大きい。放牧は耕作放棄地の解消や森林・農地の維持に大きな役割を果たしており、放牧が家畜伝染病の感染リスクを高めるという科学的な根拠は示されていないいう。

また記事は「放牧の中止はSDGs(持続的開発目標)やアニマルウェルフェア(動物福祉)を進めている国際社会の流れに逆行する」(畜産農民全国協議会の会長の森嶋氏の発言)という発言も載せている。

これらの運動があって「放牧中止」の項目は改正案から削除されることになったが、図らずも役所の現状認識や世界的な潮流に対する認識不足を露呈する結果となった。

神田日勝(かんだにっしょう)の「馬」

神田日勝(かんだにっしょう)という夭折の画家がいた。名前は以前から知っていたが、かれの絶筆となった作品が「馬」という題名の作品である。

昨日の新聞に「大地への筆触」というタイトルで回顧展の記事が載った。かれの父親が拓北農民隊として家族で北海道に疎開、1945年に十勝平野、鹿追村で暮らし始めた。かれは農業を引き継ぎ、傍ら絵を描き始める。しかし1970年には体調不良、32歳の若さで他界した。

かれの遺作の「馬」という作品がある。この作品以外にもウマをテーマにした作品があるが、この遺作の「馬」が画家と馬の精神的距離が一番近いように思われる作品である。