あそびと知識:「エッダ」にみる

「エッダ」(17世紀に発見された北欧神話について語られた写本。9世紀から13世紀にかけて成立したとされている、古ノルド語で書かれた歌謡集(群)である。)の中でも質問競技は主題の一つである。

ヴァフスルーズニルの歌」の中では主神オージンは天地創成時代についての知識の持ち主である巨人ヴァフスルーズニルの知恵と自分の知恵との優劣を競っている。

例えば

「オージンが『最初に生まれた巨人族は一体誰なのか』と質問した時、ヴァフスルーズニルは『はるか昔に、巨人ベルゲルミルが生まれ、その力ある巨人はスルードゲルミルの息子で、アウルゲルミルの孫なのである』と答えた。」

という調子である。

ホイジンガはこれらははるか過去の原始的謎解き競技のスタイルを引き継いでいると述べている。

 

オオムギのビールづくり:6000年前のヨーロッパでも

今日の新聞の記事のタイトルである。

オオムギをつかったビールつくりはメソポタミアなどで6000年前ごろから行われていたという記録があるがヨーロッパ(古ヨーロッパ)でも6000年まえごろから麦芽飲料が飲まれていたという話である。

大麦を発芽させると大麦の粒の最外層のアリューロン層細胞膜が薄くなる。この証拠を遺跡から発掘された陶器に付いていた穀物でも見つけた。これによって6000年前の古ヨーロッパでも麦芽が作られていた。

 

 

コンパイラPython:Pypyの実力

久ぶりにPythonの話題である。

インタプリタであるPythonは実行速度が遅い。この遅い原因を回避するためにPython言語で作ったプログラムをコンパイルして実行するPypyというコンパイラがある。どの位の性能があるか試してみた。環境はOSはwindows7で、使ったPythonおよびPypyのヴァージョンは
>>python -V
Python 3.7.6

>>pypy3 -V
Python 3.6.9 (2ad108f17bdb, Apr 07 2020, 03:05:35)
[PyPy 7.3.1 with MSC v.1912 32 bit]

例1:単純な四則計算


import time
start = time.time()

for i in range(100000000): # 10^8
    1 + 1
    1 - 1
    1 * 1
    1 // 1

process_time = time.time() - start
print(process_time)

結果は
Python3.7  4159ms
Pypy  95ms

となり、約40倍の速度向上が見られた。

例2:配列


import time
start = time.time()

A = [i for i in range(10000000)] # 10^7

for i in range(10000000):
    A[i] = 0

process_time = time.time() - start
print(process_time)

結果は
Python3.7  1844ms
Pypy  70ms

となり、約30倍の速度向上が見られた。

 

あそびと知識:「リグ・ヴェーダ讃歌」にみる

「われ、汝に大地の尽きるさいはてを問わん。われ、汝に大地の臍のいづくに在りやを問わん。われ、汝に雄々しき種馬の種につき問わん。われ、汝に弁論の最高の場を問わん。」

これはリグ・ヴェーダ讃歌(紀元前1200年ごろの最古のヴェーダ文献。バラモン教の最高聖典で1018の歌からなる)の第一巻164歌である。ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」ではこれを祭僧(バラモン)たちが祭儀の際におこなった「知恵比べ」がヴェーダの詩句として残されたものだとしている。

これは形式からも問いの内容からも禅宗の僧が行っている「禅問答」に大変に似ている。

「あそび」と知識

太古の人にとっては、何かを知っているということはそれ自体魔力であった。彼にとってはどんな知識でもことごとく世界秩序そのものと直接の関係があるからである。それ故に、祭祀におけるあそびとして力くらべなどの競技と同じく知識の競技が行われた。

ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」では祭祀の重要な一部であった「謎解きあそび」を古代インドのヴェータ文学から説く解す。

日本の祭りでも綱引きや相撲が祭礼の重要な一部となっている競技の例が多い。祭礼における「言葉あそび」としては「祭文(さいもん)」がある。

「相馬(そうま)」という地名

今朝りんごを食べようとしたらその「しなのゴールド」にラベルが貼ってあり「青森県産JA相馬村」と書いてあった。福島県の相馬以外にも「相馬」という地名があることが面白い。

「相馬」とは、馬市で市場で競りに掛けられた馬のコンディションを観ることで、相馬はそのような場所であったと思われる。

青森県の相馬村は弘前市に隣接した村であった。現在は弘前市の一部である。

WEBで「相馬」を検索すると、福島と青森以外に茨城と千葉にまたがる下総国・相馬郡という地名があったことがわかる。常陸を支配した相馬氏が下総の千葉氏の後裔であることを考えると、この相馬と福島の相馬とは何か繋がりあるのかもしれない。

 

 

馬頭観音と蒼前(そうぜん)駒形明神

馬頭観音と蒼前(そうぜん)駒形明神の双方とも今では馬の守り神とされているが。

馬頭観音は馬の頭部を頭に頂く観音であり、十一面観音や千手観音などと同じ密教の異形の観音の一つである。「陀羅尼経集」なかにも説いている観音で奈良時代ごろにはわが国に知られるようになったといわれている。この観音像の作例はすくなく本来は馬の守り神という特殊な性格は持っていなかったが、近世になるとなぜか馬の守り神と思われるようになった。

一方、蒼前(そうぜん)駒形明神は「蒼前さん」とも呼ばれ、特に馬産が盛んであった東北地方で信仰を集めた馬の守り神である。起源ははっきりしないが、遅くとも中世にはあったようである。

例えば遠野地方の蒼前さんについて、郷土史家の菊地幹氏は以下のように書いている:

「これは馬の安全を祈ることから生まれた信仰で、旧正月十六日と旧四月八日の例祭日には近郊近在はもちろん遠くの村々から馬産を志す人々でにぎわった。…. 参拝者は社務所でお守りの笹の葉をいただき帰路についた。まさに人と馬と神とをつなぐ祭りであった。」

この馬を曳いて蒼前さんに参拝する様子が「チャグチャグ馬っこ」の原型である。

 

「あそび」と法律

裁判というのは法廷という日常から離れた特別な空間で、法服と鬘まで着けた法官が登場する。これらは「あそび」の形式的な特徴である。

ギリシア人のあいだでは法廷での両派の抗争は一種の「討論」とみなされていた。厳しい規則に従いながら抗争する二派が審判者の裁きを要求する闘争であった。訴訟は競技であった。

訴訟における正邪より、原始的な法意識の奥深くに遡ってゆくほどに勝利の期待という要素が強くなる。「あそび」の要素が前面にでてくる。

ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」より

 

「あそび」と文化の関係

ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」は言う:

「『あそび』から文化になる」ではない。
「文化の中に遊ぶという行為の席があった」ということでもない。
「『あそび』から文化へという発展過程がある」ということでもない。

著者は

「文化は『あそび』の形式のなかに成立したこと。文化は原初から遊ばれるものであった」

と主張する。

「原始人の共同体の生活に、動物より価値の高い、単なる生物的なものを越えた特性を保たせていたもの、それがさまざまな形態のあそびである。このあそびのなかで、共同体は生活と世界についてのかれらの解釈を表現した。

文化とはただわれわれの歴史的判断が、この与えられたものに対して名づけた名称でしかない」

「あそび」と闘争

ルールのある闘争、例えば刀を使った真剣勝負もまた「あそび」の範疇に入る。「槍のあそび(asc-plega)」などの詩的比喩で「あそび」ということばを使うことがあるが、武器による真剣勝負もそこにルールがある限り「あそび」である。

楽器を演奏する、たとえばピアノを弾く(play the piano)は英語では「あそぶ」と同じplayである。そうだ、楽器を演奏するのは「あそび」なのである。面白いことに、歌を歌う(sing a song)はplayとは言わない。「道具を使う」かどうかということかもしれない。日本には「演歌」というものがある。play with the voiceかな?

ーホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」を読みながら