鎌倉街道:奥州藤原氏の滅亡も北条氏の陰謀?

奥州藤原氏が開いた奥大道は広義の鎌倉街道である。「街道」(杜山悠著)によれは狭義の鎌倉街道は保土ヶ谷と鎌倉とを結ぶ街道だった由。この著者はこの鎌倉街道で連想するのは「頼朝一族の滅亡」であるという。

○文治5年(1189)4月30日義経奥州衣川にて殺害さる(31歳)

○建久4年(1193)8月17日範頼(義経の兄)伊豆修善寺に流され、ついで殺害さる

○正治元年(1199)1月13日頼朝変死す(53歳)

○元久元年(1204)7月18日頼家(2代将軍、頼朝の長男)修善寺において殺害さる(23歳)

○承久元年(1219)1月27日実朝(3代将軍、頼朝の次男)鎌倉鶴岡で公暁に殺害さる(28歳)。その公暁(頼家の次男)も北条義時によって殺害される(20歳)

これで「源氏の正統断絶」となる。これらの殺害の加害者は北条氏であるという。

奥州藤原氏の基礎には源義家が深く関わっており、鎌倉政権とは対立する要素はあまりながったと思われる。にも拘わらず義経に関連して滅亡させてしまったことは「義経殺害」が頼朝の意図でなかったと同様、この奥州藤原氏の滅亡も北条氏が頼朝にさせた陰謀では?