日本では江戸時代にも陸上運輸手段としての馬車の発達はみられない。その代わり沿岸航海航路の発達は世界一の規模をもつようになる。その意味で日本は「海の民」である。
例えば、新潟(越後)の米を江戸に運ぶことにしよう。陸路では一頭の馬の背に振り分けで二俵の俵を運ぶわけだから千俵の米では五百頭の馬が必要になる。この馬を曳く馬子も一人が二頭の馬を曳くとして二百五十人が必要になる。一日で終わるわけはないので、宿場に宿泊するわけわけだが、馬の背に積んだ荷はそこで降ろして翌日再度馬の背に荷をのせることになり、その労働も追加になるわけである。
一方、船であると一旦船荷として積み込んでしまえば、後は十人程度の船乗りで輸送が済んでしまう。しかも日本の船(弁才船)は甲板がないので一艘に千俵程度の米は積めた。このような海を使った輸送手段が江戸時代、それ以前から発達した。伊達政宗が作らせた貞山運河などもその沿岸航海航路の延長である。陸上の輸送手段に比べて、海を使った輸送手段は圧倒的に優位にあった。
ローマ帝国は「陸の民」だろう。アッピア街道など帝国に張り巡らされた街道は馬車が走ってもよいような堅牢なものであった。軍隊の移動手段であったろうが、物資の輸送手段にもなったはずである。