ウマノツラ星

日本の星の呼び方に馬起源のものがあるか調べてみている。「クラカケ星」については以前に触れた。今日は、「ウマノツラ星」について述べる。これは牡牛座のα(アルファ)星であるアルデバランとヒヤデス星団の四星を結んで出来る細長い三角形である。画像では画面左中央にアルデバランが明るく見える。日本の多くの地方でこの星のつながりを「ツリガネ星」(釣り鐘星)と呼んでいる。これを「ウマノツラ星」と呼んでいる地方がある。山形地方である(野尻抱影著「日本の星」)。

ウマノツラ星

ウマノツラ星


沖縄ではこれを「ンマノチラブシ」(馬の面星)と呼ぶ地域がある(内田武志著「星の方言と民俗」)。また、茨城県では「オモツラボシ」と呼ぶ地域がある。いずれも、星を結んで出来る細長い三角形に因んで付けられた星の名前である。
ところで、東北地方では雪よけにかぶる細長い頭巾(多分わらで出来た)も「ウマノツラ」と呼ぶらしい。これもその形が馬の頭に似ているからにちがいないが、まだ実物を見たことがない。

いて座(Sagittarius)

西洋の星座の中で馬に関連する星座について以前ペガスス座を取り上げた。今日は「いて座」(Sagittarius)を取り上げる。この星座の主人公は半人半馬の怪人であるが、数ある怪人のなかでは最も賢い。音楽の神アポロンと月と狩りの女神アルテーミスから、音楽、狩猟、医術、予言術などを授けられ、後にペーリオン山の洞窟に住んで、百芸の師となった(野尻抱影著「星座のはなし」)。多くのギリシャの勇者は彼から教えを受けた。たとえば、双子座のカストルは彼から馬術を習った。 星座の形は
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いて座
いて座

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いて座の東半分は中国でいう「南斗六星」で、「北斗七星」を伏せたような形である。半人半馬の馬の部分はほぼ南斗のマスにあたり、その上に頭があり、下に続くこまかな星の列が腹と前脚になる。後脚の附近の半円はみなみのかんむり(南冠)座である。「いて座」の方向は銀河の中心であるので「天の川」がここで幅広になり、星は密集してあり、星雲なども極めて多い。星座に見えるM8,M20, M22,M23,M25は星雲や星団である。因みにM8,M20は生まれたての若い星からなる星雲である。

世界最小の馬

 

馬の体高の話をしていて思い出したが、少し古い話であるが世界最小の馬の誕生がニュースとして話題になったことがある。
ニュースでは
The world’s smallest horse was born just days ago in the United States and he is gaining plenty of attention.
At just 6 pounds and 14 inches tall, “Einstein” is a half pinto stallion who was born April 22, 2010 in Barnstead, New Hampshire.
Breeder Judy Smith of Tiz A Miniature Horse Farm says, “I have been at this for 20 years plus but I have never seen one this tiny or even close to it.”
WATCH Einstein, the world’s smallest horse, here:
この馬の名前は「アインシュタイン」で「PINTO」種の混血牡で、体高は14インチ(約36cm)で体重は6パウンド(約3kg)。こんなに小さくて軽いので大人では小脇に抱えることが出来る。

写真で見る。

ビデオで見る。

馬の「身長」

馬の「身長」は図のように「き甲」から地面までを垂直に測った距離で示す。これを馬の体高という。「き甲」は馬の背中にある背骨の出っ張りであり、鞍の先端が接する部分にある。馬が頸を挙げたり下げたりしてもこの「き甲」までの高さは変わらないので、馬の体高としては合理的な定義だと思う。

馬の身長
馬の身長


僕が所属している乗馬クラブの馬達の体高についてのデータは手元にないが、競走馬であるサラブレットについて典型的な値が知られている(日本中央競馬会・競走馬中央研究所編「サラブレットの科学」)。三冠馬のミスターシービーを一例とすると四歳時では159cm、五歳時では163cmとなっている。160cm前後が今の馬達の値である。
ところで馬と言えば日本では義経の鵯越(ひよどりごえ)が有名であるが、このころに馬は小型であったと言われている。どの程度に小型であぅたのだろうか?調べた人がいる。孫引きになるが、林田重幸氏が鎌倉幕府滅亡時に埋められたと見られる馬の骨を計測して体高を推定してる。それによれば推定体高は109cm~140cmで平均すると130cmと小型であることが分かる(鈴木眞哉著「鉄砲隊と騎馬軍団」(洋泉社:2003))。ほかにも戦国時代に埋葬された軍馬のデータがあるが、それらは130cm~140cm程度であり、極端な例では、武田の本陣があった甲府市の躑躅(つつじ)ヶ崎館跡から出土した馬は何と120cmしかなかった。
体高が147cmより小さい馬はポニーと分類されるが、その分類に従えば、鎌倉・戦国時代の日本の馬は全てポニーであったわけである。

下馬戦闘

「わが馬、わが師」の中で、第一次世界大戦のロシア戦線で騎兵が馬を下りて徒歩で戦闘に参加したというエピソードを著者アロイス・ポジャイスキーは回想で述べている。騎兵は乗馬したまま戦闘に参加することはなかったする事実である。この事実は実に興味深い。乗馬を始めてみると、以前から日本の戦国時代にいた騎馬武士が馬に騎乗したまま刀や槍で白兵戦闘をしたのだろうかという疑問が湧いた。テンションが上がった馬を乗り回し、しかも刀や槍などの武器を振り回して戦う訳である。相当に訓練しないとできない武術である。このような武術を会得した騎兵を有効に戦闘に使うとするとある程度の人数を用意しなければならない。
以前のこのブログで戦国時代の最強と言われた武田騎馬軍団についてふれたが、全戦闘員の約一割が騎乗した武士であることを明らかにした。後の九割は馬をもたない歩兵である。この程度の騎乗武士が馬に乗って戦っても戦いの帰趨にはたいした影響はないようにおもう。馬の利用は部隊移動や情報伝達にあったと思われる。このようなとき騎馬武士は馬を下りて歩兵と同じような形態で戦闘をすることになる。 これを「下馬戦闘」という。
鈴木眞哉著「鉄砲隊と騎馬軍団」(洋泉社:2003)によればこの「下馬戦闘」は日本の南北朝あたりから一般的になり戦国時代にはごく普通の騎馬武士の戦闘形態になったそうである。馬は「馬囲い」という特別な場所にその戦闘の期間は管理されたとうことである。
また、鎌倉時代などでは馬に騎乗した武士が騎乗のまま戦闘に参加したらしいが、使った武器は刀や槍などの接近戦で使う武器でなく、弓など遠くからしかけられる武器を携行した騎馬武士が多く、騎乗したもの同士の白兵戦などは少なかったことをあきらかにしちる。騎乗した武士が鞍の上で安定を保ち馬も手綱なしでも走れるように訓練すれば、騎乗で弓を使うことは可能かなと思われる。

馬頭娘(ばとうじょう)

昨日の河北新報の夕刊に遠野で開かれた本州唯一の乗用馬の競り市の様子が載った。一歳から五歳までの31頭が競りに掛けられて24頭が競り落とされた。平均で一頭あたり90万円程度になるそうだ。最高は301万円。遠野の乗用馬飼育でも後継者問題は大きいとの話である。
ところで遠野と言えば、オシラさまが連想で出てくる。このオシラさまはお蚕の神様であるが、馬の守り神でもある。
このオシラさまと同じような神さまが道教にもある。これが、「馬頭娘」である。「蚕女」とも言うから基本的な性格は、お蚕に関連する神であるが、馬とも縁がある。どんな形で縁があるかは以下のストーリーで分かる(窪徳忠著「道鏡の神々」):
「四川省地方に親娘三人の家庭があった。あるとき、突然に父親が賊にさらわれて行方不明になった。娘は心配のあまり食事も喉を通らなくなった。心配した母親は、父親を無事に取り戻してくれた人に娘を嫁にやると公言した。すると、その家で父親が可愛がっていた馬が突然に綱を切ってどこかにいってしまった。
数日後、その馬が父親を乗せて帰ってきた。がその馬はその日からかいばも喰わず、娘がそばを通るたびにいななきあばれる。不審に思った父親が母親に事情を聞くと、『娘を嫁にやる』と言ったことが判明。しかし、父親は馬は人でないとこれを無視する。と馬はますます暴れ手に負えなくなる。遂に父親はこの馬を殺してしまい、その皮を庭にさらしておいた。
ある日、娘がそのそばを通りかかると、馬の皮はパッとおどりかかって娘を巻き込むと、そのままどこかに飛んでいってしまった。十日ほど後、桑の木の上にひっかかっている馬の皮が発見されたが、娘は蚕(かいこ)となって、桑の葉を食べ、糸をはき、繭(まゆ)を作っていた。これが蚕女である。」
四川省では馬の皮をきせた女性の像をつくって多くの道観においてあるが、その女性像が「馬頭娘」であり、人々は蚕の豊作を祈願したそうだ。

猫の水飲み

昨日(11月12日)の新聞に猫の面白い記事が載った。複数の新聞に載ったので見た人が多いと思う。生き物は僕らが想像する以上に凄いことができる。それが「猫の水飲み」である。猫は唇がない(?)ので水を飲むときヒトのように水を吸って口に中に入れることができない。さて、どのようにして猫は水を飲んでいるのか? この疑問をMITの研究者達が猫が水を飲んでいる様子を高速度ビデオカメラで撮影してメカニズムを解明した。これが記事の内容だ。
それによれば、まず猫は舌先を手前側にJの字形に丸めて水面に浸した後、素早く引き上げて細い水柱を作り、タイミングよくその水柱が口の中に入ったら口を閉じて水を飲むということが分かった。舌先を水面から引き上げる速度は秒速78cmで水柱にして飲める量は一回当たり0.14ml程度。1秒間に3,4回の頻度で舌先を水に浸している。
面白いのは速度より、水柱を引き上げる時の加速度で、それは1g,つまり重力加速度(1g)と同じ程度の大きさになることである。これから、水柱を紐で結んで、「ヒョッ」と勢いよく引き上げるようなイメージで猫は水を飲んでいるのが分かる。
そんな記事を読んだ後、馬はどうやって水を飲んでいたかなと思った。次の乗馬レッソンの時に観察してみることにする。

馬の神々(2)

吉田芳哉著「馬の神々たち」(art life 1979. No.3)は小さな記事だが、多くの馬の神々、特に東北地方のそれについて言及している。「馬歴神」(ばれきしん)という馬の神がいる。
説明によれば、「….我国には桓武天皇延暦二十三年に空海が唐よりもたらしたもので、勅命により多賀之国府に近い国分寺の西門にあたる所に祀ったのが始めである。神体はなにやら馬頭観音像と結びついたらしく八臂形であり弘布するにあたっては産業神としてであった。本地が「房」(ぼう)の四星と言われ世に謂ふ「蠍座」(さそりざ)である。」
面白いことに、この馬の神は、蠍座を神格化したものであるということである。道教などでも星を神格化したものは多いが北半球の文化であるので殆どが北半球でよく見える星である。例を挙げてみると(窪徳忠著「道教の神々」(講談社学術文庫:1996)):
北極紫微大帝ー>北極星
北斗真君ー>北斗七星
南斗真君ー>北斗七星の柄杓とところにある六星
文昌帝君ー>北斗七星の魁星(かいせい)の近くにある六星
と北半球で見えやすい星ばかりである。唯一の例外は
南極老人星ー>カノープス(二月ごろ南の空の地平線ぎりぎりところに見える)
である。
だから、「蠍座」を神格化した馬の神である「馬歴神」は珍しい。

方位の十二支(続き)

前回に「月の十二支」から「方位の十二支」が案出されたプロセスを探るのはなかなか難しく、単に陰陽五行説によった観念的なものであったのかもしれないと書いた。
ところで、「正月。初昏参中。斗柄懸在下。」というものがある。これは夏小正に見える記事である(能田忠亮著「東洋天文学史論集」(恒星社:平成元年(復刻版))。この夏小正は夏の時代(紀元前2000年ごろ)の一年の月(十二支の月)の初めの夕刻に見える天体の様子を示したのもである。
紀元前2000年ごろは北斗七星は北極星に極めて近くにあり、中国ではどんな季節でも一晩中見えていた。だから北斗七星は極めて重要な星座であったはずである。「斗柄」とは、北斗七星のかたちを柄杓と見たときの柄の部分である。だから最初の記事は正月一日の夕刻に北斗七星の柄が下(南)を向いていたという事実の記事である。この記事の面白いところは、十二支の月名と北斗の方向が対応されることである。
夏小正には同様な記事がある:
「六月。初昏斗柄懸在上。」
「七月。斗柄懸在下則旦。」
明らかに、十二支の月と北斗七星の柄の方位の関係を観察したものである。ここに、「月の十二支」から「方位の十二支」を案出する鍵があると思われる。日没後に見える斗柄の方向が月の十二支であるから月毎の方位を十二支で呼んだわけだと思われる。

方位の十二支

十二支は、年の数え方、一年の間の月の唱え方、一日の時刻の唱え方など時間に関する領域で使われているが、方位に関してもまた十二支が現れる。
方位では
真北 子
真南 午
真東 卯
真西 酉
を「四正」(しせい)とし、それぞれの「四正」の間には、「丑」「寅」が東北間に、「辰」「巳」が南東間に、「羊」「申」が南西間に、「戌」「亥」が北西間に配当されている。これが方位の十二支である。纏めると以下の図のようになる。

方位の十二支
方位の十二支


この「方位の十二支」は地球の南北に引いた経線を「子午線」と呼ぶなど現在でも使われている。
ところで、これらの十二支の起源について考えてみる。一年の間の月の唱え方に用いられたのが最初ではないかと思われる。この十二支は最初は一年を十二ヶ月として季節の変わり目や年中行事に因んで付けた符号だったのだろう。この時点では十二支と動物との対応はなかった。古代の人々にとって一年の季節変化は一日の時間のサイクルの次に、時間のサイクルが容易に観察できた循環的な現象であったはずである。この循環的な時間の流れに付けたのが「月の十二支」である。これが最初の十二支だろう。
一日のサイクルはもちろん一日の太陽の動きである。これも容易に観察できたはずである。一日の内で太陽がどの方角にあるかが一日の時刻である。だから、時刻に十二支を対応させるためには方位の十二支が「月の十二支」の次に案出されたはずである。
「月の十二支」から「方位の十二支」が案出されたプロセスを探るのはなかなか難しい。単に陰陽五行説によった観念的なものであったのかもしれない(吉野裕子著「ダルマの民俗学」)。または、なにか天体現象などによるのかもしれない。いずれ調べてみることにしたい。
「年の十二支」は木星(周期11.86年で太陽の廻りを一周する)の天空上の年ことの位置によるとしているが、観念上の十干十二支が考えられたあとに後付られたように思われる。