日本の国家の起源に関して、騎馬民族説というのがある(江上波夫著「騎馬民族国家」)。これは大和朝廷の主体になったのはだれかという問題である。
古墳前期に比べて古墳後期(四、五世紀)になると、馬に関する埋葬品(馬具、馬の埴輪、乗馬服を着た人物埴輪など)や壁画が大量に古墳から出てくる。これらの事実はそれ以前の弥生時代から始まる農耕民族が自ら馬の文化を大陸から輸入したというよりも、馬を操る民族自体が大陸とくに北アジアから日本に上陸して、旧来の勢力を平定・同化した結果であるとする説である。だから大和朝廷の主体は騎馬民族であると言うわけである。面白い説であるが、古墳時代を調べている考古学者たちからは粉砕の対象らしい。
”粉砕”の対象になる主な理由として、時代が下るが十三世紀にモンゴルのフビライ騎馬軍団が日本に来襲したが失敗に終わっている事実がら、古墳時代に大量の馬を伴って船で日本海を渡るのは不可能でというのがある。
問題は古墳前期に日本にいた旧来の勢力を平定するために必要だった騎馬軍団の規模である。騎馬民族はいわば戦いを専門とする軍事集団で、戦いに勝って得た戦利品で生業をしていた訳である。どのくらいの規模で日本に来襲したか不明だがそんなに多くなくてもよかったのかもしれない。
フビライ騎馬軍団の来襲については、記録がある。高麗から出発する四万の東路軍と、慶元から出る十万の勢力である。計十四万の大規模軍団である。人員の一割が馬の数としても一万匹余になる。こんな大規模な軍団も日本海を渡り、対馬に達したわけである。内部の意思疎通のなさや台風の影響で本州に攻め込むことには失敗したが、この時代には一万匹程度の馬でも日本海を運ぶ技術はあったわけである。