奈良時代には穢れ(けがれ)を酷く嫌いそれが自分の体に蓄積すると病気や不幸の原因とされ如何に穢れを無くすかが真剣に考えられた。
そのころから「「穢多」(えた)の事なり」として差別された人々がいた。この「穢多」という言葉は「そのひとに穢れ(けがれ)が多い」からか、または「そのひとが穢れ(けがれ)が多いと考えられていたものに従事していた」からか。
多分後者であろう。
塩は当時から特別の物質と考えられていた。腐敗を予防するなど何か神秘的な力を持っている物質と考えられていた。「穢多」の人々はこの塩を使って穢れ(けがれ)を清める特別な能力を持っていて天皇や寺社の管轄下にあってある種の特権、例えば塩の専売権を与えられていた。
南北朝以降天皇や寺社の権威が落ちてくるに従って「穢多」の人々に対する評価も変化した。商業の発達によって塩がより普及することによって塩の神秘性、延いては「穢多」の人々の神秘性も失われていった。
このような状況によって次第に「穢多」の人々に対する蔑視の環境が醸成された。