ヘリオット「猫物語」

ドクター・ヘリオット「猫物語」(JAMES HERRIOT’S CAT STORIES by James Herriot: illustrations by Lesley Holmes)には実にさまざまで個性的な猫が登場する。そして全てのストりーが面白い。しかも挿入されているイラストがなかなか趣味がいい。

英語版表紙
英語版表紙


タイトルを列記すると
1.アルフレット お菓子屋の猫
2.オスカー 社交家の猫
3.ポリス 逃げ足が速い猫
4.オりーとジニー うちに来た二匹の子猫
5.エミリー 紳士の家に住みついた猫
6.オりーとジニー 住みつく
7.モーゼス 灯心草の中で見つかった猫
8.フリスタ 死の淵から何度も蘇った猫
9.オりーとジニー 最大の勝利
10.ベスター ボールを拾ってくる猫

こんなに沢山の猫が登場する。

天に昇った「かいばおけ」

春の星座にかに座という星座がある。これが天に昇った「かいばおけ」である。ふたご座の東にある。星座として見ると以下のような図になる。

かに座
かに座


実はこの星座は二匹のろばたちは向き合って中央にあるおけからかいばを食べているいう図でもある。中央にあるかいばおけには星々が沢山見える。M44という星団である。この星団の名前はギリシャ語でファトネ(かいばおけ)と呼ばれ、ラテン語のプライセペ(Praesepe)となった(野尻抱影著「星座の話」)。
神話では、これは酒の神バッカスと火の神ヘーファイストとの二匹の馬で、神々が巨神族と戦ったとき、大声でいなないて敵を潰走させた功により、おけ(桶)もろとも星になったそうである。だからPraesepeは天に昇った「かいばおけ」である。
因みのM44という呼び名はメシエのカタログの44番目の天体の意味であるが。メシエはハリー彗星で有名なハリーと同時代の人で、彗星発見をするために邪魔になる彗星と間違えるような広がりを持った天体のカタログを作った。これがメシエのカタログで100ばかりの天体が登録してある。有名なところではM31。これはアンドロメダ銀河である。

Paul Revere(ポール・リビア)

今日のお昼のテレビでPaul Revere(ポール・リビアが登場した。彼はアメリカ合衆国の独立戦争の英雄で、米国人ならだれもが知っているくらい国民的な英雄であるそうである。 その騎馬像が彼が暮らしたBoston(ボストン)にある。

Paul Revere
Paul Revere


番組では、なぜ彼が国民的な英雄であるがを紹介していた。それによれば、当時イギリスの植民地であったボストンを始めとする北アメリカ東地区で、イギリスから独立しようとする動きが起きる。米国の独立戦争である。18世紀のことである。彼はこの戦争に献身する。
その最中、イギリス軍が革命派の武器庫を襲撃する計画があるのを彼や仲間が知った。急いで知らせる必要がある緊急の事態である。ランプの点灯を中継して知らせたが、遠くの味方がこれを確認したかわからない。そこで彼はこの情報を革命派に知らせるべく真夜中に馬を走らせて味方に知らせた。1775年4月18日のことである。ボストンからほぼ西の30kmの所のconcord(コンコード)に武器庫はあった。このエピソードは戦争の帰趨にかなり重要らしく、このことで彼はこの独立戦争の英雄となった。詩にも謳われている。

この当時は馬が情報伝達の強力な手段であったわけである。

ウマノツラ星

日本の星の呼び方に馬起源のものがあるか調べてみている。「クラカケ星」については以前に触れた。今日は、「ウマノツラ星」について述べる。これは牡牛座のα(アルファ)星であるアルデバランとヒヤデス星団の四星を結んで出来る細長い三角形である。画像では画面左中央にアルデバランが明るく見える。日本の多くの地方でこの星のつながりを「ツリガネ星」(釣り鐘星)と呼んでいる。これを「ウマノツラ星」と呼んでいる地方がある。山形地方である(野尻抱影著「日本の星」)。

ウマノツラ星

ウマノツラ星


沖縄ではこれを「ンマノチラブシ」(馬の面星)と呼ぶ地域がある(内田武志著「星の方言と民俗」)。また、茨城県では「オモツラボシ」と呼ぶ地域がある。いずれも、星を結んで出来る細長い三角形に因んで付けられた星の名前である。
ところで、東北地方では雪よけにかぶる細長い頭巾(多分わらで出来た)も「ウマノツラ」と呼ぶらしい。これもその形が馬の頭に似ているからにちがいないが、まだ実物を見たことがない。

いて座(Sagittarius)

西洋の星座の中で馬に関連する星座について以前ペガスス座を取り上げた。今日は「いて座」(Sagittarius)を取り上げる。この星座の主人公は半人半馬の怪人であるが、数ある怪人のなかでは最も賢い。音楽の神アポロンと月と狩りの女神アルテーミスから、音楽、狩猟、医術、予言術などを授けられ、後にペーリオン山の洞窟に住んで、百芸の師となった(野尻抱影著「星座のはなし」)。多くのギリシャの勇者は彼から教えを受けた。たとえば、双子座のカストルは彼から馬術を習った。 星座の形は
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いて座
いて座

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いて座の東半分は中国でいう「南斗六星」で、「北斗七星」を伏せたような形である。半人半馬の馬の部分はほぼ南斗のマスにあたり、その上に頭があり、下に続くこまかな星の列が腹と前脚になる。後脚の附近の半円はみなみのかんむり(南冠)座である。「いて座」の方向は銀河の中心であるので「天の川」がここで幅広になり、星は密集してあり、星雲なども極めて多い。星座に見えるM8,M20, M22,M23,M25は星雲や星団である。因みにM8,M20は生まれたての若い星からなる星雲である。

世界最小の馬

 

馬の体高の話をしていて思い出したが、少し古い話であるが世界最小の馬の誕生がニュースとして話題になったことがある。
ニュースでは
The world’s smallest horse was born just days ago in the United States and he is gaining plenty of attention.
At just 6 pounds and 14 inches tall, “Einstein” is a half pinto stallion who was born April 22, 2010 in Barnstead, New Hampshire.
Breeder Judy Smith of Tiz A Miniature Horse Farm says, “I have been at this for 20 years plus but I have never seen one this tiny or even close to it.”
WATCH Einstein, the world’s smallest horse, here:
この馬の名前は「アインシュタイン」で「PINTO」種の混血牡で、体高は14インチ(約36cm)で体重は6パウンド(約3kg)。こんなに小さくて軽いので大人では小脇に抱えることが出来る。

写真で見る。

ビデオで見る。

馬の「身長」

馬の「身長」は図のように「き甲」から地面までを垂直に測った距離で示す。これを馬の体高という。「き甲」は馬の背中にある背骨の出っ張りであり、鞍の先端が接する部分にある。馬が頸を挙げたり下げたりしてもこの「き甲」までの高さは変わらないので、馬の体高としては合理的な定義だと思う。

馬の身長
馬の身長


僕が所属している乗馬クラブの馬達の体高についてのデータは手元にないが、競走馬であるサラブレットについて典型的な値が知られている(日本中央競馬会・競走馬中央研究所編「サラブレットの科学」)。三冠馬のミスターシービーを一例とすると四歳時では159cm、五歳時では163cmとなっている。160cm前後が今の馬達の値である。
ところで馬と言えば日本では義経の鵯越(ひよどりごえ)が有名であるが、このころに馬は小型であったと言われている。どの程度に小型であぅたのだろうか?調べた人がいる。孫引きになるが、林田重幸氏が鎌倉幕府滅亡時に埋められたと見られる馬の骨を計測して体高を推定してる。それによれば推定体高は109cm~140cmで平均すると130cmと小型であることが分かる(鈴木眞哉著「鉄砲隊と騎馬軍団」(洋泉社:2003))。ほかにも戦国時代に埋葬された軍馬のデータがあるが、それらは130cm~140cm程度であり、極端な例では、武田の本陣があった甲府市の躑躅(つつじ)ヶ崎館跡から出土した馬は何と120cmしかなかった。
体高が147cmより小さい馬はポニーと分類されるが、その分類に従えば、鎌倉・戦国時代の日本の馬は全てポニーであったわけである。

下馬戦闘

「わが馬、わが師」の中で、第一次世界大戦のロシア戦線で騎兵が馬を下りて徒歩で戦闘に参加したというエピソードを著者アロイス・ポジャイスキーは回想で述べている。騎兵は乗馬したまま戦闘に参加することはなかったする事実である。この事実は実に興味深い。乗馬を始めてみると、以前から日本の戦国時代にいた騎馬武士が馬に騎乗したまま刀や槍で白兵戦闘をしたのだろうかという疑問が湧いた。テンションが上がった馬を乗り回し、しかも刀や槍などの武器を振り回して戦う訳である。相当に訓練しないとできない武術である。このような武術を会得した騎兵を有効に戦闘に使うとするとある程度の人数を用意しなければならない。
以前のこのブログで戦国時代の最強と言われた武田騎馬軍団についてふれたが、全戦闘員の約一割が騎乗した武士であることを明らかにした。後の九割は馬をもたない歩兵である。この程度の騎乗武士が馬に乗って戦っても戦いの帰趨にはたいした影響はないようにおもう。馬の利用は部隊移動や情報伝達にあったと思われる。このようなとき騎馬武士は馬を下りて歩兵と同じような形態で戦闘をすることになる。 これを「下馬戦闘」という。
鈴木眞哉著「鉄砲隊と騎馬軍団」(洋泉社:2003)によればこの「下馬戦闘」は日本の南北朝あたりから一般的になり戦国時代にはごく普通の騎馬武士の戦闘形態になったそうである。馬は「馬囲い」という特別な場所にその戦闘の期間は管理されたとうことである。
また、鎌倉時代などでは馬に騎乗した武士が騎乗のまま戦闘に参加したらしいが、使った武器は刀や槍などの接近戦で使う武器でなく、弓など遠くからしかけられる武器を携行した騎馬武士が多く、騎乗したもの同士の白兵戦などは少なかったことをあきらかにしちる。騎乗した武士が鞍の上で安定を保ち馬も手綱なしでも走れるように訓練すれば、騎乗で弓を使うことは可能かなと思われる。

馬頭娘(ばとうじょう)

昨日の河北新報の夕刊に遠野で開かれた本州唯一の乗用馬の競り市の様子が載った。一歳から五歳までの31頭が競りに掛けられて24頭が競り落とされた。平均で一頭あたり90万円程度になるそうだ。最高は301万円。遠野の乗用馬飼育でも後継者問題は大きいとの話である。
ところで遠野と言えば、オシラさまが連想で出てくる。このオシラさまはお蚕の神様であるが、馬の守り神でもある。
このオシラさまと同じような神さまが道教にもある。これが、「馬頭娘」である。「蚕女」とも言うから基本的な性格は、お蚕に関連する神であるが、馬とも縁がある。どんな形で縁があるかは以下のストーリーで分かる(窪徳忠著「道鏡の神々」):
「四川省地方に親娘三人の家庭があった。あるとき、突然に父親が賊にさらわれて行方不明になった。娘は心配のあまり食事も喉を通らなくなった。心配した母親は、父親を無事に取り戻してくれた人に娘を嫁にやると公言した。すると、その家で父親が可愛がっていた馬が突然に綱を切ってどこかにいってしまった。
数日後、その馬が父親を乗せて帰ってきた。がその馬はその日からかいばも喰わず、娘がそばを通るたびにいななきあばれる。不審に思った父親が母親に事情を聞くと、『娘を嫁にやる』と言ったことが判明。しかし、父親は馬は人でないとこれを無視する。と馬はますます暴れ手に負えなくなる。遂に父親はこの馬を殺してしまい、その皮を庭にさらしておいた。
ある日、娘がそのそばを通りかかると、馬の皮はパッとおどりかかって娘を巻き込むと、そのままどこかに飛んでいってしまった。十日ほど後、桑の木の上にひっかかっている馬の皮が発見されたが、娘は蚕(かいこ)となって、桑の葉を食べ、糸をはき、繭(まゆ)を作っていた。これが蚕女である。」
四川省では馬の皮をきせた女性の像をつくって多くの道観においてあるが、その女性像が「馬頭娘」であり、人々は蚕の豊作を祈願したそうだ。

猫の水飲み

昨日(11月12日)の新聞に猫の面白い記事が載った。複数の新聞に載ったので見た人が多いと思う。生き物は僕らが想像する以上に凄いことができる。それが「猫の水飲み」である。猫は唇がない(?)ので水を飲むときヒトのように水を吸って口に中に入れることができない。さて、どのようにして猫は水を飲んでいるのか? この疑問をMITの研究者達が猫が水を飲んでいる様子を高速度ビデオカメラで撮影してメカニズムを解明した。これが記事の内容だ。
それによれば、まず猫は舌先を手前側にJの字形に丸めて水面に浸した後、素早く引き上げて細い水柱を作り、タイミングよくその水柱が口の中に入ったら口を閉じて水を飲むということが分かった。舌先を水面から引き上げる速度は秒速78cmで水柱にして飲める量は一回当たり0.14ml程度。1秒間に3,4回の頻度で舌先を水に浸している。
面白いのは速度より、水柱を引き上げる時の加速度で、それは1g,つまり重力加速度(1g)と同じ程度の大きさになることである。これから、水柱を紐で結んで、「ヒョッ」と勢いよく引き上げるようなイメージで猫は水を飲んでいるのが分かる。
そんな記事を読んだ後、馬はどうやって水を飲んでいたかなと思った。次の乗馬レッソンの時に観察してみることにする。