データベース(DB)にアクセスするプログラムをPythonで作ってみた。
藤沢周平の作品(文庫本で読める作品全て)名をデータベース化したものを用意した。目的は
- 文庫本毎にはどんな作品が収録されているか
- 作品カテゴリー(江戸市井もの、海坂藩もの、等)による分類
- 作品の初出情報
である。使ったDB管理プログラムはSQlite。結果を表示する等のグラフィックユーザフェースはwxpythonを使った。
以下は使用時の画面表示の一部である:
データベース(DB)にアクセスするプログラムをPythonで作ってみた。
藤沢周平の作品(文庫本で読める作品全て)名をデータベース化したものを用意した。目的は
である。使ったDB管理プログラムはSQlite。結果を表示する等のグラフィックユーザフェースはwxpythonを使った。
以下は使用時の画面表示の一部である:
馬頭観音、ソウゼンなど馬がヒトの守護神になってる「馬の神々」はいろいろある。「青麻宮」もその1つである(古田義芳哉「馬の神々」(アートライフNo.3:1979))。解説によれば「…『あおそさん』と呼称られるが、正しくは『いちびこのみや』で雄略記九年の項にでてくる新羅帰化人田辺央(たなべふびと)伯孫と埴輪馬との物語に起因する神」であるとの由。
仙台にも「青麻神社」がある。「青麻宮」と関連があるのか不明であるが、後者は「日星月」を祭る神社である。星を祭る神社は日本ではめずらしい。この三つの天体は
日:天照大御神
星:天之御中主神
月:月読神
の諸神に対応させられている。天之御中主神とは、天の中心にある星、北極星かもしれない。道教では沢山の星が神格化されているが、この星は北極紫微大帝(ほっきょくしびたいてい)という名前で神格化されている。
昨日のパーティで面白いチーズを食べた。Caciocavalloがそのチーズの名前である。イタリア語でcacioはチーズ、cavalloは馬である。だからCaciocavallo(カチョカバロ)は馬のチーズということになる。説明文は
「イタリア生まれの歴史あるチーズです。ユニークな型はくびれの部分に紐をかけつり下げて熟成させるためで、その様子が馬の鞍に跨がるように見えることから[馬の乗ったチーズ(=カチョカバロ)]と呼ばれます。」とある。
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画像で見るように瓢箪型に縊れた型をしたチーズが紐で結ばれてペアーになっている。このペアーを水平の梁に「振り分に」して懸ける訳でである。この様子が馬の鞍に「振り分け」で乗せられた荷物のように見える。これがこのチーズの名称、つまり、Caciocavallo(カチョカバロ)の由来らしい。
アロイス・ポジャイスキー(Alois Podhajsky)著My Horses, My Teachers( Trafalgar Square Publishing : 1997) の日本語訳である。著者はウイーンのスペイン乗馬学校の高名な所長且つトレーナーである。書名は馬に教えられることが無数にあり、乗り手にとってもトレーナーにとっても馬自身が教師であるといった意味である。
以下はその日本語訳の「目次」と「はじめに」である。
わが馬、わが師
ヒトのロコモーション(locomotion)の話をしたい。馬やヒトも含めて生き物が移動(locomotion)のためにとる歩様は実にさまざまで興味深い。ヒトが取る歩様は身近なことであるので最もよく調べられている。「歩く」、「走る」がヒトがする基本的な歩様である。
今回は「歩く」時の速度の限界について考えてみる。「これ以上速くは歩けない」という速度がある。これ以上の速度であると、ヒトは走り出す。この限界の速度はどのようにして決まるか?と、いう問題である。
研究者はこのような問題を考えるときに、実際のヒトの体の細部は無視して、問題をできるだけ単純な形、つまり「模型」で考えてみる。この模型が単純であればあるほど真実に迫っていると考える。Simple is the best(簡単なほどよい)とする精神である。
以下の図は、ヒトの片足のモデルでR.M. Alexander著”Priciples pf Animal Locomotion”から取ったものであるが、多分最も単純なモデルである。膝の関節も無く足は一本の棒であるこの先端は地面を押し、片方の先端に体重の大部分を占める体がある。「歩く」とはこの棒の先端を地面に着けて片方の先端にある体を弧を描いて運ぶことである。
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歩く模型:(Principles of Animal Locomationより)
こんな簡単のモデルでなにか面白いことが出せるかな?と疑問になるが、結構使えることが分かる。紐の先に石を結んで石が円を描くように回すと拳は石から石の方向に向かう力を受ける。だから拳から紐を放すと石は飛んでいくわけである。この力が遠心力である。 上のヒトが歩くモデルでも地面に接した棒の先端を支点として体は円運動をしているとみなせる。重力で遠心力で体が地面から放れるのを防いでいるが、ある速度以上になると遠心力が重力を打ち勝ち、足は地面から放れる。これが「歩く」限界の速度である。このモデルを使うとこの限界速度が出せる。この限界速度は重力の大きさと足の長さにのみによるとでる。地上で90cmの長さの足を持つとして計算すると限界速度は3.0m/sとでる。実験で歩行のスピードを測ると、日常的な世界では2m/s程度、少し速足では2.7m/s程度である。モデルが示す値はかなりよい一致を示す。因みに、競歩での歩く速度の限界は4.4m/s程度だそうだ。これは尻の動きを特別な形にして見掛けの足の長さを長くさせていることからくると考えられている。
地球上から月面上に移ったらどうなるのだろうか? 月面の重力は地上の6分の1だからこれを考慮するは地上の場合の3.0m/sは1.2m/sとなる。かなり小さい速度で走りだすわけである。
馬が神として信仰されている馬頭観音について述べたが、東北地方にはソウゼンと発音する馬のための神がいる(”みちのく古代 蝦夷(えみし)の世界”)。東北固有の馬のための神である。「ちゃぐちゃぐうまっこ」などもこの神に関連するらしい。 この馬のための神が東北地方のみにあることも興味深い。馬が北まわり(日本海を渡って津軽半島あたりで上陸)のルートで日本へ伝えられた部分もあったのかもしれない。
下北半島の先端にある尻屋崎には「寒立馬」{かんだちめ)がいる。背の低いずんぐりとしたいかにも在来種といった古典的な雰囲気の馬である。北海道には在来種の痕跡がないので、この寒立馬が日本における在来種の北限ということになるのかもしれない。
それにしても、大和朝廷まで遡ってみると、在来種が関東以北、九州など朝廷の支配圏の外周にあたる所にあることは興味深い。この地域は馬の供給地となっていたのだろう。関西地方には馬の放牧に適した広い平原が少ないという地理的な条件だけなのかもしれないが。
関東には平家物語にも登場する「多々羅(たたら)の牧」がある。 例の義経のシンパになる千葉胤春(たねはる)のふるさと、千葉氏の本拠地である。この千葉氏は江戸時代は江戸幕府の馬を管理することを任されることになる。千葉県佐倉あたりは、江戸時代には民間の馬の取引所が開かれるなど大きな馬の供給地になっていた。
馬頭観音は江戸時代には馬の守護神として流行するが、本来はこの逆で馬頭観音は馬を人の守護神として信仰したものだと思う。アジアでは古来からいろんな動物に不思議な力が宿っているとして、動物や動物を似せた像を信仰してきた。
古い例では、天平時代の有名な阿修羅に代表される八部衆の中に「五部浄」(ごぶじょう)という像がある。阿修羅と同じように少年の顔つきをしているが、頭部に象の冠をかぶっている。この「五部浄」以外の八部衆も殆どが何らかの形で動物と関連している。
馬頭観音もこのように、馬に何か神秘的な力を感じて信仰対象としたことを起源としているように思われる。江戸時代の流行は、この「馬」の字面から馬の守護神であると安易に転用したものであろう。
因みに、広辞苑によれば、馬頭観音は、「頭部に馬頭をいただいて憤怒の相をした変化観音。馬頭を直接頭とするものもある。…馬頭明王ともいい八大明王の一つ」とある。
アイルランド(Ireland)の レイタウン(Laytown, County Meath)で行われている海岸競馬についてテレビで見た。海水は疲れた馬の脚を癒す効果があるということで海水の中をゆっくり走る馬の映像から始まった。この海に沿った砂浜で年に一度だけ競馬レースが行われる。それがレイタウン海岸競馬である。番組はこのレースに出る馬を調教する二つの厩舎で、夏の二ヶ月の間馬の世話をする三人の少年達(10才前後)と馬の交流を軸に展開する。この少年達は騎手を目指しているが、この世話には、馬房の掃除、馬の飼料やりなど馬全般の世話をするし、調教師の指示に従って、調教のために騎乗やレースに見立てたギャロップも含まれている。これらの少年はジュニアの競馬レースの騎手でもあり、レースで優勝する少年もいる。
一人の少年は学校に馴染めずなにについても自信が持てないでいたが、この馬の世話を通して少しずつ自信を持ってくる。この少年が馬が大好きな様子が印象的だった。この少年は最後にはこの海岸競馬の当日の出走馬のレビューのために、世話した馬を引いて観衆に見せる役割を任される。
このレイタウン海岸競馬は海岸線に沿った直線コースで、長さは約一マイルから二マイル程度のものである。番組では、ボランティア達によるコースの整備の様子なども紹介された。この小さな町の一大イベントである。
日本の国家の起源に関して、騎馬民族説というのがある(江上波夫著「騎馬民族国家」)。これは大和朝廷の主体になったのはだれかという問題である。
古墳前期に比べて古墳後期(四、五世紀)になると、馬に関する埋葬品(馬具、馬の埴輪、乗馬服を着た人物埴輪など)や壁画が大量に古墳から出てくる。これらの事実はそれ以前の弥生時代から始まる農耕民族が自ら馬の文化を大陸から輸入したというよりも、馬を操る民族自体が大陸とくに北アジアから日本に上陸して、旧来の勢力を平定・同化した結果であるとする説である。だから大和朝廷の主体は騎馬民族であると言うわけである。面白い説であるが、古墳時代を調べている考古学者たちからは粉砕の対象らしい。
”粉砕”の対象になる主な理由として、時代が下るが十三世紀にモンゴルのフビライ騎馬軍団が日本に来襲したが失敗に終わっている事実がら、古墳時代に大量の馬を伴って船で日本海を渡るのは不可能でというのがある。
問題は古墳前期に日本にいた旧来の勢力を平定するために必要だった騎馬軍団の規模である。騎馬民族はいわば戦いを専門とする軍事集団で、戦いに勝って得た戦利品で生業をしていた訳である。どのくらいの規模で日本に来襲したか不明だがそんなに多くなくてもよかったのかもしれない。
フビライ騎馬軍団の来襲については、記録がある。高麗から出発する四万の東路軍と、慶元から出る十万の勢力である。計十四万の大規模軍団である。人員の一割が馬の数としても一万匹余になる。こんな大規模な軍団も日本海を渡り、対馬に達したわけである。内部の意思疎通のなさや台風の影響で本州に攻め込むことには失敗したが、この時代には一万匹程度の馬でも日本海を運ぶ技術はあったわけである。
「時そば」の話がでて、江戸時代の時刻の呼び方にも十二支が使われていることを思い出した。子(ね)ノ刻から始まって、亥(い)ノ刻で終わる十二刻である。子ノ刻は真夜中12時に対応し、この対極にあるのが、午(うま)ノ刻である。午ノ刻はつまり昼間の12時に対応する。江戸時代にはこの刻に太鼓で時刻を知らせた。その太鼓の打数を時刻の呼び方ともした。子ノ刻には9打数の太鼓が鳴らされた訳である。「いま何時かい?」「へえ、九ッで」とは、子ノ刻のことである。打数と十二支の対応を纏めると:
明け 六ツ 卯(う)ノ刻
朝 五ツ 辰(たつ)ノ刻
昼 四ツ 巳(み)ノ刻
真昼 九ツ 午(うま)ノ刻
昼 八ツ 羊(ひつじ)ノ刻
夕 七ツ 申(さる)ノ刻
暮れ 六ツ 酉(とり)ノ刻
宵 五ツ 戌(いぬ)ノ刻
夜 四ツ 亥(い)ノ刻
夜半 九ツ 子(ね)ノ刻
夜 八ツ 丑(うし)ノ刻
暁 七ツ 寅(とら)ノ刻
なお、江戸時代は不定時法(一日の昼と夜とで異なるペースで時刻を刻む)であったので、明け六ツと暮れ六ツは季節ごとの「夜明け」、「夕暮れ」できめた。
なぜ、太鼓の打数が四ツから九ツまでかについては、歴史的なものか、単に太鼓の打数を聞いて時刻を知るため、「少なすぎでもなく、多すぎでもない」数としてと用いられたかは不明である。
面白いことに、時代を遡って平安時代では、一日四十八刻の定時法が使われたいたらしい(能田忠亮著「暦」(至文堂:昭和41年))。それによると、一日を時間間隔一定の刻という単位で測り、一日を四十八刻とした。四刻を一辰刻として時刻を知らせる単位とした。各辰刻ごとに太鼓で、九ツ、八ツ、七ツ、六ツ、五ツ、四ツの打数の太鼓をたたいて時刻を知らせた。しかも、各辰刻内でも、刻の時間間隔で1,2,3,4回の鐘を鳴らしたそうである。
江戸の庶民は太鼓や寺でならす鐘の音で時刻を知ったわけである。ところで、太鼓や鐘の音を聞いて時刻を知るわけだが、仕事に熱中しているときなど、音の最初など聞き逃しまうことがある。太鼓や鐘の打数で時刻を知らせる方法の欠点である。もう一度聞かしてくれるといいのだが。そんな時計を見た(聞いた)。これは松本の時計博物館にある一つのグランドファーザー時計(ウィーン製だったように思う)である。各時きっかりにボンボンと時報を告げるが、その二分後に同じ時報をボンボンと告げる。博物館の別の部屋にいたが、昼の十二時になったのでその時計のところに行ってみると確かに二分後にボンボンと時報を告げた。