源頼朝の奥州支配に伴って牧場経営経験者が南部地方の支配者として投入された結果この地方の馬の生産は飛躍的に増大したと思われるが、実際の経営形態はどのようなものであったのだろうか。
この疑問に対して森嘉兵衛著「南部の馬」(馬の文化叢書第四巻)によれば、以下のようである。 産馬(特に軍用の馬)の経営に当たった南部氏(もともとは甲斐の南部出身)は糠部(ぬかのべ)郡(青森県東部の三戸郡・上北郡・下北郡と、岩手県 北部の二戸郡・九戸郡・岩手郡葛巻町などを含む広大な地域であったとみられてる)を東西南北の四門(かど)に分け、さらにそれらを九つの部(戸)に細分し、一つの戸に一つの牧場を設け、牧士田を与え経営させた。 室町時代にはこの制度を衰微したそうだが、近世に入り南部藩はこの古牧の再興を図り、住谷(三戸)、相内(三戸)、木崎(五戸)、又重(五戸)、三崎(野田)、北野(野田)、蟻渡(野辺地)、大間(田名部)、奧戸(田名部)の九つの藩営牧場を経営した。ここに1500頭近く馬が飼育されていた。 これらの馬の飼育法は野馬飼と里飼の二つがあった。野馬飼は藩営牧場で放牧して育てた馬である。武士が馬役人を務めたが、村々に馬肝入、馬看名子、御野係百姓、木戸番などを命じ実際の世話をさせた。 民間で所有している馬を里馬といった。藩所有の山野へ入り牧草などを取ることを許したが、この馬たちも藩の管理下にあった。藩は春秋二季に領内の総馬検査を実施して、馬を上中下の三等級で判別し、密売等がないか厳しく管理した。 多くの馬を持っていた豪農家や馬喰は、零細農民に馬の世話を委託する「馬小作」という制度も作った。零細農民にとっては大変に不利な条件の小作であったようであるが、馬などの役畜を調達するために農民はこの不利益に甘んじた。「南部曲家」はこの里馬の役畜農業に即した構造の家屋である。しかし、零細農民までこのような家屋を持っていたとは考えにくい。
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