米と塩を運ぶ:富士川の水運

利根川のことを書いたが、この川を使った水上輸送はどうようなものであっただろうか?

近世における利根川の水上輸送が果たした役割が大きかった故に、この川を舞台に博徒の抗争を描いた講談「天保水滸伝」のようなフィクションも生まれたのであろう。

利根川は東北地方の米を江戸に運ぶ「東廻り」の海上輸送航路の一端を担っていたように思われるが、具体的なイメージに乏しい。

水運の面で資料が豊富なのは富士川の水運である。

富士川の水運は慶長12(1607)年京都の豪商角倉了以(1554~1614)による水路開拓に始まる。鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町、富士川右岸)、青柳(右岸、鰍沢町の北隣)、黒沢(左岸、鰍沢町の南隣)の富士川三河岸から駿河岩淵(庵原郡富士川町)まで18里(72km)に舟運の道ができた。

富士川舟運の主な積荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、下げ米は信州、甲州にある幕府天領からの年貢米(御城米;おしろまい)、上げ塩は瀬戸内の塩が中心だった。鰍沢より北への輸送は中馬(馬を使った民間の運輸労働者)で、当時、塩の中継地として殷賑を極めた韮崎宿に出た。

富士川の輸送に使われていた船は「高瀬舟」で、下り荷の米は川の流れでよいとしても上り荷の輸送には人力を使った。その上り荷の塩は一俵六貫目(12.5kg)入りで、一艘積荷は40俵止めとなっていた。岩淵から鰍沢への上りに4~5日を要した。

富士川通船が始まり、鰍沢、青柳、黒沢河岸の3河岸には、常に数百艘の船が浮かび、富士川を航行する船数は、500~560艘に及んだという。

大正4(1915)年以降富士身延鉄道が次第に路線を延長し、昭和3(1928)年、ついに富士・甲府間が全通し、ここに富士川水運の歴史が閉じられる。

船の動力の改良がもっとはやく進んだならば、これらの水運の寿命はもっと長かったのではと思われる。