歯槽間縁(しそうかんえん)

馬の歯並びの中で歯のない部分を「歯槽間縁」(しそうかんえん)といいますが、結構な隙間ですのでここにハミを咬ませます。馬の歯並びは
3133
前—-
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これは前歯3、犬歯1と続いて、「歯槽間縁」があり、臼歯が3,3と続くわけである。

歯槽間縁
歯槽間縁

この「歯槽間縁」は馬だけの特徴で、これを発見してハミを発明したのはヒッタイト人であると言われている。紀元前2000年ころのことである。だから今から4000年前のことである。4000年間の進化で「歯槽間縁」が生成されたとは考えにくい。
また、ヒトにハミを強制されたことがない「シマウマ」にも「歯槽間縁」はあるらしいので、この間縁はヒト以前の馬に具わった特徴だと考えられる。
一方、馬にとってこの「歯槽間縁」はどんな役割をしているのかは不明である。馬の顔が長くなったためか、単に要らなくなった歯の退化とも考えられる。事実牡馬にはあるが、牝馬には犬歯がない。これは退化だと思う。
ブタの歯並びが哺乳類の基本であるが馬と比べるとブタは
3143
前—-
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であるので馬の臼歯は一本少ないことになる。「歯槽間縁」は臼歯一本分より可成り広いし、ヒトなどもブタに比較すると臼歯が一本足らないが、「間縁」はない。

歌川国芳の馬

浮世絵師歌川国芳は渡辺崋山らの蘭学者との交流があり、西洋画の影響も指摘されている作品もある。以下は「近江の国の勇婦於兼」という浮世絵である。遠近法によるリアルな馬が描かれている。

「近江の国の勇婦於兼」
「近江の国の勇婦於兼」


江戸時代の「西洋画」としては、司馬江漢(しばこうかん)が知られているが、国芳にも西洋画の影響があるとは面白い。

イタヤ馬

ふるさと玩具に「イタヤ馬」というものがあることを知った。秋田角館でイタヤ細工で使った切れ端などで作る子供のためのおもちゃである。イタヤというのは、イタヤカエデの若木の幹を薄く裂いたもので、これを編んでかごやつづらなどを作る。

イタヤ馬
イタヤ馬


面白いことに、このイタヤ馬はかならず左向きに作るそうである。そういえば、乗馬の曳き馬も曳手は馬に左側に立つことになっているし、馬装をする時も馬の左側で作業をする。

小迫(おばさま)延年舞

宮城県栗原市金成町津久毛字小迫(おばさま)の白山神社で行われる流鏑馬神事である。
説明によれば
古来、この馬乗渡しの扇の的を手に入れた部落は豊作であるといわれ、必死に的の奪いあいが行わてきたため、一名「ケンカ祭」ともよばれています。祭りの当日は、那須与一の扇の的射にあやかり宮城県北・岩手県南から数百人の選手が技を競う弓道大会、吟道大会が開催されるほか、地場産品まつりも同時開催され好評です。昭和54年2月3日、重要無形民俗文化財として国の指定を受けました。祭典は、旧3月3日でしたが、現在は4月第1日曜日に開催されています。

流鏑馬神事
流鏑馬神事ー1mほど前の大きな的を射るそうです。


そう言えば那須兄弟は兄の那須与一(宗高)は源頼朝の武将、弟の那須大八郎は源義経の武将と兄弟でも別々の主に仕えていた。最も、兄の那須与一は、直接の上官である梶原景時(かげとき)の陰謀に近い「義経追い落とし」を嫌って、この「扇の的射」のときは、義経配下の武将として従軍していたときのことである。梶原は激怒して、軍罰を科した。この那須兄弟は、もっと複雑で、六郎実高、四郎久高、三郎幹高は平家方にいた。

「木の下が蹄のかぜや散さくら」(蕪村)

顎凹(おとがいくぼ)

広辞苑によれば、顎(おとがい)とは顎(あご)のことである。馬の部位に顎凹(おとがいくぼ)がある。下顎の部位かと思ったが、これはむしろ上顎である。馬の鼻面先端部の最も狭い部分の少しへこんだ部位なのかなと思う。だからこれは上顎と鼻との境目あたりにある。

顎凹(おとがいくぼ)
顎凹(おとがいくぼ)


ここの部位を圧迫することで馬を制御する頭絡がある。対馬の「対州馬」を制御するのに、このハミのない頭絡(無口頭絡)を使う。これは以前のこのブログで紹介したが、顎凹(おとがいくぼ)の説明が間違っていた。この種の無口頭絡は日本の古墳時代あたりから使われていたようで、日本では古い歴史がある。
近代馬術でもハカモア(hackamore)という一種の無口頭絡で馬を制御する仕組みがある。古い時代のものは日本のものと同じように、顎凹(おとがいくぼ)を圧迫するものである。

ハカモア(hackamore)
ハカモア(hackamore)


乗馬クラブで見るものは、以下の画像に似たもので、「鼻頭」を圧迫するのだろうと思われる形態をしている。こちらは、メカニカル・ハカモア(mechanical hackamore)というらしい。これはウエスタンスタイルの乗馬でよく使われている。

メカニカル・ハカモア(mechanical hackamore)
メカニカル・ハカモア(mechanical hackamore)

対馬地方の馬

「対州馬」(たいしゅうば)、これが対馬地方の馬である。対馬は殆どが急斜面で耕地面積は全島の面積の3パーセント程度である。ここに島民と居るのが「対州馬」である。小型であるが、丈夫で島の生活に適して急傾斜地の登降がたくみである。

「対州馬」に乗ったオバチャン
「対州馬」に乗ったオバチャン


嘗ては三千頭もいたそうである。馬三頭と牛一頭を飼っているが、対馬農家の標準的な装備だったそうである。対馬では漁業は男の仕事、農業は女の仕事であるので、馬や牛を扱うのはもっぱら女性の手に委ねられた。
「対州馬」の乗り方は独特である。まず鞍であるが「荷鞍」(にくら)を使う。これには「背もたれ」が付いている。ハミを使わず、「無口頭絡」(むくちとうらく)を使う。そして「無口」の左に着けた一本のロープが手綱となる。このロープを顎凹(おとがいくぼ)を通じて右にして、乗り手は右手でこの一本手綱を持つ。手綱を引く下から顎を圧迫するので、近代馬術で使われているグルメットと同じ役割を果たしている。
なにもかも素朴な仕掛けであるが、仔馬の頃から母馬の様子を見てる「対州馬」にとっては何の不思議ではないかもしれない。しかも常に優しく世話をしてくれるヒトが乗り手であれば尚更であろう。

吉宗と洋馬

江戸幕府の八代将軍の吉宗は西洋の文物に強い興味を持っていた。西洋の天体観測装置を吹上御殿に持ちこんで自ら観測めいたことをしたりしている。
馬についても日本の馬ばかりでなく西洋の馬についても強い興味をもっていた。もともと乗馬についても熱心で、「厩の徒をして越谷の駅におもむかしめ馬力を試みらる、朝鮮あるいは唐産の馬に乗りし者いちはやく帰りしかば、吹上の御園にて其馬を御覧ぜらる」(享保五年四月)などの記事からその様子が分かる。
だから、オランダ人が長崎の出島から江戸に赴き登城の機会が有ると早速に甲比丹(カピタン)に西洋の馬の様子を聞き、「本国のは大馬ありやこれを我が国に牽き渡ること出来ずや」などと洋馬の輸入の可能性も尋問してる。甲比丹は本国は遠いので無理だと答えているが、蘭人の献上品の「馬具一具」などの記載がある。
また、和蘭甲比丹ヂォダチ(Diodati)が江戸に登った時(1721年)には、恒例の登城の外に特別に召し出されて吹上馬場で馬乗を命ぜられた。甲比丹に随伴してきたヘンドリク・ライクマン(Hendric Raijkman)が馬を乗り回し、又騎乗で拳銃を撃ってみせたりした。そのとき吉宗は観客のなかにこっそりいたという。
幕府は馬を実際に注文したのは享保七年(1722)である。出した注文は
一.地より鞍下まで四尺五寸(約135cm)より六寸(138cm)までの男馬三匹
一.右同尺の女馬二匹
今の基準では馬の体高は地上より「き甲」までの長さとなっていて、この長さが147cm以下はポニーである。「鞍下」と「き甲」が同じものであるとこの注文した馬はポニーとなる。もしかしたら「鞍下」とは馬の背で弓なりなっている最も地上に近いところなのかもしれない。この「鞍下」と「き甲」までの距離はどのくらいあろのだろうか?
この注文の馬は享保十年に蘭船二艘で渡来して馬五頭を持ちきたることになる。
このように吉宗によって洋馬の輸入が試みられる。その後に招来された馬を箇条書きすると:
享保10年(1725)オランダ馬 五頭(牡)
同 11年      オランダ馬 五頭(牡三、牝二)
同 12年      ペルシャ馬 二頭 (牡)
同 14年      ペルシャ馬 二頭 (牡)
同 15年      ペルシャ馬 二頭(牡1、牝一)
同 19年      ペルシャ馬 六頭 (牡)
同 20年      ペルシャ馬 二頭 (?)
元文 元年(1736)ペルシャ馬 三頭(牡二、牝一)
同  2年      ペルシャ馬 二頭(牡)
となる(荒居英次箸「徳川吉宗の洋牛馬輸入とその影響」(馬の文化叢書第四巻))。オランダ馬とは北ドイツあたりのOldenburg種あたりか、ペルシャ馬というのはアラビア種(Arabian)と同じかと思う。十二年間で二七頭の馬が輸入されたことになる。この後は吉宗の隠居もあり、輸入はないようだ。
輸入された馬は房州嶺岡牧などの幕府直轄の牧において、軍馬の改良に用いられることになる。

木曽地方の馬

木曽馬は小型ではあるが、粗食に耐え、忍耐強く従順であるといった性質を持っているので農耕馬として高く評価されてたが、どのようにしてこの木曽馬の産馬が隆盛になったのだろう。
木曽といえば「木曽義仲」だ。平家打倒の一勢力として名を馳せた彼の背景は当時木曽にあった在地勢力である。このころから木曽の馬は軍馬として活躍したと思われるが、どのようにして産馬が組織化されていたかは不明なようである。
近世に入るとかなりこの様子がわかってくる。生駒勘七箸「近世における木曽の毛附馬制度と木曽馬の生産」(馬の文花誌「近世:馬と日本史3」第四巻)によれば、慶長十三年(1608)に木曽代官山村良勝によって出された触れの中に「毛付の物成」とよばれる制度があったことがわかる。これは米租に替わって馬を貢租とする制度で、木曽三十ヶ村の内二十ヶ村に対して出されたもので、木曽の広範囲で馬産が盛んであったことを示すものである。
この木曽の代官であった山村氏は江戸時代になっても木曽福島に居館を構え木曽を支配した。また、元和元年(1615)に木曽が尾張藩領となってもそのまま尾張藩の木曽代官を続けた。南部藩から良馬30頭を木曽に入れるなどぼ初期投資をしているが、この山村氏は木曽の馬を独占的に支配した。
例えば、「毛付の物成」では、当才馬(今年生まれの牡馬)を自由に売買することを厳禁し、毎年七月上旬の半夏生の日に二歳馬を木曽福島の代官所へ集めて検査し、良馬200から300頭を選び、村へひき帰らせもう一年飼育させ、翌年その三歳駒を再検査し、そのなかから良馬20から30頭を貢租として召し上げた。残りの馬は、たてがみを切り、印札をわたして自由売買をゆるした。
この山村氏は馬市を主催して馬産の興隆に貢献したが、商業活動に対して冥加金をかけるなどしてこの面でも領民を収奪した。
明治9年の資料によれば木曽馬の飼育頭数は九千頭に達する。

地震波の周期

2011年3月11日に起きた東北・関東大震災は筆舌に尽くしがたい被害を生んだが、地震そのものより地震に伴う津波による甚大な被害が特徴である。
地震による振動で家屋の崩壊を引き起こす振動は、建物の固有振動と共鳴する周期が1秒~2秒あたりのものである。だから到来した地震波にこの周期の成分を多く含んでいるものは家屋に地震そのもので大きな被害がでる。不思議なことに、今回の地震はこの建物に大きな被害を及ぼす1秒~2秒の長周期成分が少ない。1秒以下の成分が大きいことが特徴である。この特徴は前回の宮城沖地震も同じ傾向にある。だから、宮城県周辺は耐震の備えが進んでいることによって地震そのものの被害が少ないわけではない。

加速度データのパワースペクトル(気象庁資料より)。横軸は周期で単位は秒で、縦軸は周期成分の相対的な強度である。宮城県沖(2003年)のグラフのピークが1秒以下の周期のところにあることがわかる。

地震波に含まれる周期成分の特徴が何によって決まるのか考えてみよう。それは地震を引き起こす地殻変動の空間的なスケールの大きさだと思われる。地殻を伝播する弾性波は伝播速度が5~7km/secである。仮に周期1秒の成分を作ろうとしたら、従って5~7km程度の規模の地殻が一斉に活動(地殻変動)すればよい。宮城県沖の地震はこの規模より可成り小さな領域がボコボコと地殻変動した結果なのだと思われる。地殻変動の空間スケールは小さいが、大きな地震であるので変動のずれはおおきなはずである。今回の地震の活動域が日本の東北から関東の太平洋沿岸に沿って500km程度の広い範囲になるが、地殻変動の空間スケールはその100分の1程度かもしれない。

南部地方の馬

源頼朝の奥州支配に伴って牧場経営経験者が南部地方の支配者として投入された結果この地方の馬の生産は飛躍的に増大したと思われるが、実際の経営形態はどのようなものであったのだろうか。

この疑問に対して森嘉兵衛著「南部の馬」(馬の文化叢書第四巻)によれば、以下のようである。 産馬(特に軍用の馬)の経営に当たった南部氏(もともとは甲斐の南部出身)は糠部(ぬかのべ)郡(青森県東部の三戸郡・上北郡・下北郡と、岩手県 北部の二戸郡・九戸郡・岩手郡葛巻町などを含む広大な地域であったとみられてる)を東西南北の四門(かど)に分け、さらにそれらを九つの部(戸)に細分し、一つの戸に一つの牧場を設け、牧士田を与え経営させた。 室町時代にはこの制度を衰微したそうだが、近世に入り南部藩はこの古牧の再興を図り、住谷(三戸)、相内(三戸)、木崎(五戸)、又重(五戸)、三崎(野田)、北野(野田)、蟻渡(野辺地)、大間(田名部)、奧戸(田名部)の九つの藩営牧場を経営した。ここに1500頭近く馬が飼育されていた。 これらの馬の飼育法は野馬飼と里飼の二つがあった。野馬飼は藩営牧場で放牧して育てた馬である。武士が馬役人を務めたが、村々に馬肝入、馬看名子、御野係百姓、木戸番などを命じ実際の世話をさせた。 民間で所有している馬を里馬といった。藩所有の山野へ入り牧草などを取ることを許したが、この馬たちも藩の管理下にあった。藩は春秋二季に領内の総馬検査を実施して、馬を上中下の三等級で判別し、密売等がないか厳しく管理した。 多くの馬を持っていた豪農家や馬喰は、零細農民に馬の世話を委託する「馬小作」という制度も作った。零細農民にとっては大変に不利な条件の小作であったようであるが、馬などの役畜を調達するために農民はこの不利益に甘んじた。「南部曲家」はこの里馬の役畜農業に即した構造の家屋である。しかし、零細農民までこのような家屋を持っていたとは考えにくい。