「馬の文化叢書」

「馬の文化叢書」という古代から近代までの日本の馬文化について文献を纏めた叢書がある。出版は馬事文化財団で1993年の出版である。「刊行によせて」から、平成三年度の競馬法改正に伴って日本中央競馬会に創設された特別振興事業の一つの「馬文化保存事業」の一環として刊行されたことがわかる。内容は多岐にわたっているが、古代から近世までの我が国での馬との関わり合いについて相当に包括的に議論されている。内容を各巻の目次で示すと以下のようになっている:

第1巻 古代 : 埋もれた馬文化 / 森浩一編.

第2巻 馬と日本史 ; 1 古代 / 高橋富雄編.

第3巻 馬と日本史 ; 2 中世 / 網野善彦編.

第4巻 馬と日本史 ; 3 近世 / 林英夫編.

第5巻 馬と日本史 ; 4 近代 / 神崎宣武編

第6巻 民俗 : 馬の文化史 / 岩井宏實編.

第7巻 馬学 : 馬を科学する / 松尾信一編.

第8巻 馬術 : 近代馬術の発達 / 千葉幹夫編.

第9巻 文学 : 馬と近代文学 / 古井由吉編.

第10巻 競馬 : 揺籃期のイギリス競馬 / 原田俊治編.

特に日本史と馬の関係が面白そうである。随時紹介したい。

「中馬を狙った野盗の罠」(松本)

表題は昨日のテレビ番組の水戸黄門(西村 晃主演)のタイトルである。このタイトルにある「中馬」が今日のテーマである。馬によるヒトや物資の運搬を仕事にする運搬労働者は時代毎に、「馬借」(中世)、「馬方」(近世)、「馬力」(明治)と名称が変わるが、この「中馬」(ちゅうば)は「馬方」の時代に登場する。
松本は江戸時代には中山道や甲州街道の分岐点になっていたので、ヒトや荷物の流通が盛んであった。江戸時代には各宿場町には宿駅制に基づく交通運輸制度があったが、これらは本来武士団のものであった。これらは助郷など農民にたいする賦役の形で制度化されたものである。しかし時代が進むと、人馬の往来がしげくなり、商業の発達で輸送する貨物の量が増えると旧来の制度では賄えきれなくなる。そこで、駄賃・駕籠賃をとってヒトや物資の輸送を仕事にする運輸労働者の集団が出現することになる。彼らは馬子(まご)、駕籠かき(くもすけ)、川越人足(蓮台がつぎ)などと呼ばれた。
これらのプロ集団に対して、下層農民の農閑期のアルバイトとして運輸労働をする集団も現れる。これが「中馬」(ちゅうば)である。この「中馬」は地理的な特徴があり、関所の煩いのない中部高地の脇往還に発達した。まさに松本などがそうである。四頭の馬を用いての中馬稼ぎは、山間農民の主要な生計手段ともなった(馬の文化叢書「馬の文化史」)。
この「中馬」を含め、近世の馬子・馬方の実体がかなり複雑なようだが、農との結びつきが強い。この点では、駕籠かき(くもすけ)、川越人足(蓮台がつぎ)などとは異なる。落語の「三人旅」に登場するように、馬子は粗野ではあるが純朴な気質を持っていると感じられる要素はこの辺にあるのかもしれない。

甲斐国南部と奥羽南部

山梨県の静岡県よりに南部町というところある。日蓮宗の本山がある身延の近くである。同じ「南部」という文字を持つところとして「南部藩」がある。今の八戸を中心とする江戸幕府時代の藩である。この二つの「南部」は遙か鎌倉時代まで遡ると繋がる。しかも馬を通して繋がるのが面白い。
源頼朝の平泉攻略後には、大挙して関東武士団が奥羽に進駐してくるが、奥羽の良馬を生産する地方には、牧場経営の経験がある武士をその地の地頭にしたらしい。その一例が、甲斐国南部・波木井(はきい)の二つの牧の牧監であった南部氏に糟部の地(現在の奥羽南部地方)を与えたことである。この糟部を領有した南部氏は「四門九戸(くかのえ)」と呼ばれる牧場制を立て、九牧を置いて軍馬の育成に努めた(馬の文化史:馬の文化史叢書第六巻)。この南部氏が領有した地域が奥羽・南部である。七戸(しちのえ)では現在でも馬の生産が盛んだ。

馬(ウマ)と猫(ネコ)

Q:猫は左利きである?
A:実験をしてみた人がいる。直径7cmで高さが15cmのガラス管を用意してその中に生のウサギの肉片を入れて猫が前足で取れるようにしてどちらの前足を使うか調べた。結果は50%の猫はどちらの前足も使う。両刀使いである。残りは左前足のみ使う。右前足のみは殆どいない。
Q:馬が反時計まわりが得意?
A:これも左右特異性である。競馬場の走路の多くが反時計まわりになっていることを見ると、馬は反時計まわりが得意でだと思われる。
Q:猫は一日の大半を寝ている?
A:猫は一日13時間から15時間は寝ています。なぜこんなに長い時間をかけて眠る必要があるのか不思議です。ヒトなどと睡眠の中味が違うのかもしれません。
レム睡眠をしている時間を比較したデータがあります。それによれば全睡眠時間に占めるレム睡眠の割合は:
猫の新生児   80%
ヒトの新生児 50%
成猫     28%
馬      27%
成ヒト    20%
となる。猫の睡眠が特異的であること、猫は大変に「夢見る」動物であることが分かる。
Q:馬は立って眠る?
A:馬は立って眠ります。しかも睡眠時間は4,5時間と猫の1/3程度の短い時間でよいようです。草食動物はこんなものかもしれません。

猫と馬でした。

瑞鳳寺にある下馬碑

画像は瑞鳳寺の山門の脇に建てられている下馬碑である。「下馬」とう文字が石にノミで彫った点の集まりで表現されている。大きな石碑である。

下馬碑
下馬碑


下馬
元々は瑞鳳殿に上がる参道である坂道のたもとにあったものらしい。「下馬」という文字で分かるように、瑞鳳殿に参詣に来た騎乗の武士もここで「下馬」するようにとするものである。江戸時代にはいろんなところに「下馬」の標識があった。
この下馬碑を作らせたのは伊達藩四代藩主綱村で、大阪四天王寺にあった石碑を模写させてそれから作らせたと説明がある。綱村は絵心もあり(実際かれの描いた日本画は素人ではないなというレベルで)この下馬碑の文字の作り方にも興味を持っていたのだろう。また、伊達藩は大阪屋敷もあり(藩主の何人かは大阪生まれだ)、もしかしたら綱村は大阪にも土地勘があり、この碑の存在を以前から知っていて面白いと思っていたのかもしれない。

木ノ下駒

「灯台下暗し」でした。こんな身近に馬の玩具がありました。仙台でそれもごく近いところです。薬師堂です。そこに表題のような「木ノ下駒」があります。画像でみるように馬の玩具です。

木ノ下駒
木ノ下駒


説明によるとこの地で馬の市が開かれ朝廷に献上する馬にこの馬型を下げたとある。「木ノ下」とあるのは地名だと思う。この薬師堂をウルスラ学院の方向に南に行くと「木下」という地名がある。この近くには「東(あずま)街道」という通もある。多賀城が大和朝廷の出先機関であったころは、この東街道は中央と出先を繋ぐ街道であった。名取にもその東街道の一部が残っている。朝廷とあるので江戸時代前のこの時代のことであろう。薬師堂の地には陸奥国分寺があった。天平十三年(741年)の聖武天皇の詔勅によって建てられたものである。寺で馬の市とは珍しいが、隣接する「白山神社」も寺の守護神として古い歴史をもつものなので、もしかしたらこの白山神社が馬市と関連するのかもしれない。

おまんと祭りー「この馬」とまれ

今日のケーブルテレビで高浜おまんと祭りの様子を紹介していた。これは近郊で飼育されている馬たちを神社の奉納する神事であるが、この奉納が豪快だ。周囲100メートルもある円形馬場の拉致に沿って疾走する馬(馬の背には御幣などの飾りものを載せている)に地元の若者たちが馬に掴まって馬と一緒に走るというものだ。馬の速度が遅いときは馬の速度について行けるが、馬のテンションが上がって速度が速くなるとと馬に掴まれず倒れるもの、掴まっても速度に勝てず落とされるものが多くなる。

動画

「優秀馬」というサラブレットになると速度が速く、「ゼロすかし」(一度も転んだことが無い走者)でもなかなか転ばずに走ることが難しくなる。今年は一人「ゼロすかし」を続けていた若者も転んでしまった。

この若者がインタビューで「人生の中で最も熱くなれる瞬間だ」と答えていたのが印象的だった。

 

「ルーシー」は二足歩行

新聞でルーシーが二足歩行をしていた証拠が見つかったとする記事を見た。ルーシーは今から320万年まえにアフリカに住んでたアファール人の女性の化石に付けられた名前で、今回同じアファール人の第四中足骨の化石が発見され、この骨の形状から足裏に「土踏まず」があったことが示されたというわけである。
「土踏まず」は二足歩行をするときに姿勢を制御したり、衝撃を和らげたりするのに必要な足の構造だと考えられているので、これからルーシーを初めとするアファール人の二足歩行が証明されたと報じている。
二足歩行といえば、つい最近に通常に二足歩行をするチンパンジーの話が報じられていたが、猿などの四足歩行は前足をナックルウォークさせる。これらを見ていると二足歩行までもう一歩という感じである。

立春正月

広辞苑によれば、「節分」とは、立春(りっしゅん)、立夏(りっか)、立秋(りっしゅう)、立冬(りっとう)の前日のことで、今日では、これらの中の立春の前日の節分のみが人口に膾炙されている。
旧暦ではこの立春の前後が年の始めであった。
暦を作る上では、冬至が最も重要な日である。冬至の日は太陽の動きを観察することで決められる。一年で棒の影が最も短くなるタイミングが冬至である。冬至から次の冬至までが一年となる。これを正確に決めるのが暦の最重要事である。
この一年にどのような月を配分するかは次の問題である。
たとえば、江戸時代の最後の暦である「天保暦」では
「歴日中、冬至を含むものを十一月、春分を含むものを二月、夏至を含むものを五月、秋分を含むものを八月とする。」(能田忠亮著「暦」(至文堂:昭和41年)。
だから正月元日は立春の前後になる。元日が立春の前になるのか、後になるのかは年による。
こんな和歌もある。「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはん今年とやいはん」(在原元方)。
こんな複雑な旧暦であるが、江戸時代の人は西洋の太陽暦を見て、「怪奇の甚だしいもの、蓋し蛮人の遺毒か」(渋川春海)と言ったとか。

「年の内の春ゆゆしきよ古暦」(蕪村)
「御経(おんきょう)に似てゆかしさよ古暦(ふるこよみ)」(蕪村)

牛供養/馬頭観音

牛供養/馬頭観音
牛供養/馬頭観音

写真は秋保への途中の路傍に仲良く並んでいた牛供養と馬頭観音の碑である。
牛供養はそのままであるが、馬頭観音とは、馬供養のためのようにみえるが、なぜ馬頭観音なのか?
インドの神に「馬頭神」というのがある(柳宋玄「十二支のかたち」(岩波書店:1995))。この神の名前は「ハヤグリーヴァ」である。太陽を導くもの、太陽の象徴、さらには太陽神「ヴィシェヌ」と同一だと見なされるヒトのための神である。これが中国に入り、馬頭明王となる。大乗仏教系の仏教神となる。これが日本には入り、馬頭観音となる。だから、馬頭観音は馬の霊力にあやかったヒトのためにあったわけである。
これが江戸時代に入り、馬頭観音は馬の供養、馬の保護神として信仰されるようになる。今も多くの場所で碑を見かけるほどポピュラーになった。