たっぷり本を読む時間ができたので書棚にある本を読み返している。
ダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだ。角川書店から出ているもので上下二巻の単行本である。
上巻はキリスト教とギリシアやローマの多神教、特に太陽神信仰との争いが詳しく展開されていて面白い。ダ・ヴィンチも「太陽賞賛」手稿の存在などから太陽神信仰を持っていたことが分っている。
下巻は「聖杯」を巡る「捕物」が中心になって、急転回の「辻褄あわせ」が多くなってしまっているのが残念である。
たっぷり本を読む時間ができたので書棚にある本を読み返している。
ダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」を読んだ。角川書店から出ているもので上下二巻の単行本である。
上巻はキリスト教とギリシアやローマの多神教、特に太陽神信仰との争いが詳しく展開されていて面白い。ダ・ヴィンチも「太陽賞賛」手稿の存在などから太陽神信仰を持っていたことが分っている。
下巻は「聖杯」を巡る「捕物」が中心になって、急転回の「辻褄あわせ」が多くなってしまっているのが残念である。
欧米では五芒星(ごぼうせい)は金星のシンボルとなっているが、土御門神道のシンボルもこの五芒星である。
吉田光邦著「星の宗教」によれば、土御門神道の本庁の霊場は福井県遠敷郡名田庄村にある。この名田庄は小浜の東北の山間地にある村である。この霊場の傍に四つの神社がある。加茂神社、貴船神社、善積川上神社、泰山府君社の四つである。泰山府君社は陰陽師の安倍晴明が特に信仰したもので土御門神道に引き継がれたものである。この霊場や神社周辺では五芒星が沢山見られる。神社の提灯には「家紋」に対応するところに五芒星が書かれている。また神主の冠にも、神社の神符にも五芒星が書かれている。
また京都に晴明神社あり、安倍晴明を祭ってあるが、ここでも提灯、社殿の屋根瓦、飾り金具に五芒星が描かれている。
五芒星(ごぼうせい)は土御門神道の最重要なシンボルのように思える。
泰山府君
秦の始皇帝(紀元前220年)が泰山で封禅(ほうぜん)の儀式を行った。封は天を祀る儀式で泰山の頂上に壇をしつらえおこなった。禅は地の神に向けての祭りで麓で行った。この封禅の儀式では不老長寿や国運の長久を祈願した。泰山府君はこれらの天の神と地の神の二つながらの威力を持つ強力な神格である。
東岳大帝
「道教の神々」によれば五行説に基づいて五つの山が信仰の対象になった。それらは東岳泰山、南岳衡山、西岳崋山、北岳恒山、そして中岳崇山である。これらお五岳の内で最も権威があったのが東岳泰山で人間の貴賎高下の区別や生死の時期を決める力を持っているとされた。唐の玄宗は東岳泰山を天斉王に、北宋の真宗(十二世紀)は東岳天斉仁聖帝に封じた。これをきっかけに東岳大帝の信仰が始まったという。
いつしかこれらの東岳大帝と泰山府君の区別が無くなってしまったらしい。
騎馬像でレヴァードの姿勢をした騎馬像もある。このブログでも以前紹介した。ウイーンのヘルデンプラッツ(Heldenplatz)にたっているサヴォイ(Savoy)のユージン皇太子(Prince Eugene)の騎馬像である。ところでこのヘルデンプラッツにはもう一つの騎馬像がある。それはカール大公の騎馬像である。これは奇跡の騎馬像と呼ばれている。理由はこの記事を参照していほしい。
レオナルド・ダ・ヴィンチのスフォルツァ騎馬像でも触れたが、レヴァード(両前肢を空中にして両後肢のみで馬体を支える馬術演技)の姿勢の騎馬像は制作が大変に難しい。特に騎馬像が大きくなり重量が増すと困難を極める。スフォルツァ騎馬像は高さは7.2メートル、青銅の重さは72.5トン。これはさすがに無理。
記事によればカール大公の奇跡のレヴァードする騎馬像を制作したのはアントン・ドミニク・フォン・フェルンコルンという彫刻家で、この成功によって次のユージン皇太子のレヴァードする騎馬像を制作することになった。しかし今回はうまく行かず発狂してしまった。弟子は両後肢と尾の三点で立つ騎馬像にして完成させたという。多分後者の騎馬像は前者に比べ重量があったのであろう。この彫刻家は正に重圧に負けてしまったわけだ。
レオナルド・ダ・ヴィンチと司馬江漢は二人とも画家であるが、天文研究もしていたという共通点がある。しかも太陽中心説を擁護する論法が独特で面白い。
レオナルドは言う:
「大きさからみても、 力からみても、宇宙に はそれを凌ぐ天体は見当たらないのから。太陽の光は宇宙に広がるすべ ての天体を照らす。 」(「太陽の賞賛」手稿)
江漢は言う:
「太陽ノ大ナルコト三十万九千五百一里余ナリ、日輪天の一度ハ三十万二千九百八十六里三二九ナリ、太陽ノ一跨(ヒトマタギ)ニ不足(タラズ)、タトエハ人ノ五尺ノ身以テ昼夜歩(ユカ)バ二十里ヲ歴(ヘ)ル」(和蘭天説)
と両者とも太陽が不動なことを主張している。論法が面白い。
世界史的にみると天文学が個別科学となるのは17世紀で「太陽系の大きさ」といった天体までの距離や天体の大きさが議論されはじめたころであると考えられる。これはコペルニクスの天動説から地動説への転回(1543年)より天文学にとっては本質的であると考える。
このような状況にあって15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて生きたレオナルド・ダ・ヴィンチがどうような天文学の研究をしたか興味がある。この問題にたいする詳しい研究の一つに井上昭彦氏の研究がある。それによればレオナルドは「太陽の賞賛」という手稿の中で以下のように記している
「ああ 、太陽よりも人間を崇め讃えようとする人びとに論駁できるほどの 語彙が私にあればよいのだが。大きさからみても、 力からみても、宇宙に はそれを凌ぐ天体は見当たらないのから。太陽の光は宇宙に広がるすべ ての天体を照らす。 」
全てを照らす太陽が宇宙(太陽系)の中心にあることを主張している。これ以前の手稿で天体の見かけの大きさと真の大きさとの関連を議論したり、月の性質を議論している。
天体の見かけの大きさと真の大きさの関係を量的関係として把握する一歩手前まできている。
因みに天体の大きさや天体までの距離を最初に量的に把握したのは古代ギリシアの人々で、地球の大きさ、地球から月までの距離、月の大きさを観測から求めている。地球から太陽までの距離はさすがに難しく信頼できる値は得られていないが、太陽がとてつもなく大きな天体であることは認識できた。これらの知識はアラビアの科学を経て12世紀ごろからヨーロッパに知られるようになる。
南米の馬を紹介する。最初はアルゼンチン原産のクリオロ(Criollo)である。画像はここにある。
アルゼンチン原産であるが、少し異なった体型と異なった名前で南米大陸全体に生息している。例えばブラジルではCrioula Brazileiroの名前を持っている。アルゼンチンにおいてはクリオロはパンパスで働くカーボーイ、ガウチョ(Gaucho)にとっては不可欠な乗り物であり、アルゼンチンで有名なポロ・ポニーの進化で重要な役割を果たしている。
クリオロは16世紀に南米にもたらされたスペインウマの系統を基礎としている。それらの馬は忍耐強いバーブ種の血を持っていた。目立った最初の輸入は1555年にブエノスディアスの建設者であるDon Pedro Mendozaによってなされた。その後原住民のこの都市への侵入で、これらの馬は広範囲に四散し野生となった。
クリオロはスペイン馬を祖先とする仲間に共通の特質である堅牢さや従順さでは世界一のウマである。過酷な環境で最低の食料で生きることができる。また耐久競技では信じ難い力を発揮し、長寿であることも特質である。
田中英道著「レオナルド・ダ・ヴィンチ」によればレオナルド・ダ・ヴィンチは未完も含め三つの騎馬像に関わっている。
(1)コレオーニの騎馬像
ヴェネツィアのカンポ・サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ広場に現存する騎馬像である。画像はここで。直接の製作者はフィレンツェのヴェロッキオであったが騎士の厳しい表情や馬の首あたりの緊張感は当時ヴェロッキオの弟子であったレオナルドの影響が強く出ているといわれている。1480年ごろの作品で、馬は常歩の歩みをしている。
(2)スフォルツァ騎馬像
レオナルドがフィレンツェからミラノに移り、ミラノ公ロドヴィコの依頼により製作を試みた。騎馬像の馬の頭部から脚の先の長さが7.2メートルでしかも馬はレヴァードの姿勢(馬の両前肢を地上に上げて馬体を後肢のみで支える)をとっているというものである。青銅製でその鋳造に必要な青銅の重さは72.5トンという巨大なものであった。1490年ごろの試みである。レオナルドより依頼主が計画を断念してしまったという。強化プラスチックによる現代版「スフォルツァ騎馬像」。
(3)トリヴルツィオ騎馬像
1510年ころである。素描が残っている。その画像はここで。現存しないし製作したのかも不明。