白色矮星周囲に巨大惑星か?

今朝の新聞の記事のタイトルである。

りゅう座の方向に約80光年の距離にある白色矮星の周りに巨大惑星が存在する可能性が高いことをヴィスコンシン大学の研究者たちが発表した。

この白色矮星、WD1856の周りに天体があることを衛星の観測で発見、地上観測でも確認。この周回天体は木星とほぼ同じ大きさで、質量は13.3倍以下と推定された。白色矮星が惑星を従えているのは珍しい例である。この惑星は従ってこの白色矮星の質量の数百分の1程度であるが、大きさはこの白色矮星より大きい。イメージ図はここ

太陽もあと50億年程度で質量の半分程度を周囲に放出し惑星状星雲を形成、残りの半分程度の質量で白色矮星となる。こんな状況で太陽系の惑星はどうなるのだろうか?

 

「香料の道:鼻と舌:西東」:「肉桂=シンナモン」

古代のエジプト・オリエントそしてギルシア・ローマの香料は乳香・没薬・肉桂であった。そこでは肉桂=シンナモンもエジプト南部・東アフリカ原産と思われていた。

肉桂は南シナ、南インド・セイロン、ビルマ、ベトナム、マレー諸島の原産であり、インド以西では産しない。「香料の道:鼻と舌:西東」(山田憲太郎著)の著者はこの泰西の肉桂は現在の肉桂と別物ではないかとしている。

肉桂の香味と刺激はシンナミック・アルデヒドによるが、産地によってかなりの味と匂いと刺激の相違がある。シナ肉桂(カッシア)と南インド・セイロンの肉桂(シンナモン)との相違も大きい。

「香料の道:鼻と舌:西東」:「乳香」と「没薬(もつやく)」

「香料の道:鼻と舌:西東」(山田憲太郎著)という面白い本がある。

われわれの身のまわりには実に様々な香料が使われており、使っている。この本はその香料の歴史を東西世界の規模で叙述したものである。

人類の歴史に登場する最初の香料は「乳香」と「没薬(もつやく)」である。何れも南アラビア、東アフリカで採取される芳香ゴム樹脂である。

人類は香料を「焚香料(incense)」、「化粧料(cosmetics)」そして「香辛料(spices)」として使ってきたが、乳香は焚香料であり、没薬は化粧料の用途が大きい。没薬(もつやく)の「没」は苦味(ビッター)を表す漢字であり、その名前からして没薬は苦い。薬としても使われていた。

170万年前に温泉料理?

今朝の新聞の記事のタイトルである。副題で「人類、火を使う前に食べた可能性」とある。

人類が火を使ったのは70万年前あたりと思われているが、それ以前に温泉のお湯を使って調理をしていたのではという話である。

ボストンのMITの研究者たちは2016年、南アフリカ・タンザニアのオルドバイ渓谷で発掘調査をした。ここではこれまで猿人や原人などさまざまな人類の化石が見つかっている。アィナラ・システィアガ博士たちは人類の遺跡がある約170万年前の地層から採取した岩石の付着した有機物を解析した。

その結果、温度が80度以上のお湯のなかでしか生育しない微生物が作り出す有機物が付着していることが分った。これは遺跡に温泉があったことを示す証拠であると研究グループは考えている。

人類はこの温泉を何らかのかたちで利用していたにちがいない。その一つが調理だ。「温泉たまご」だって作れたはずだ。

 

落語「鰍沢(かじかざわ)」

落語の話がでたのでもう一つ落語の話題を書くこにする。

「鰍沢(かじかざわ)」という演題の落語がある。「古典落語 正蔵・三木助集」で読める。

僕は山梨県に住んでいたことがあるので鰍沢(かじかざわ)というマイナーな地名は知っていたが、この地名を知って人は多くはないように思う。

近世ではこの地名は江戸あたりでも知られていたらしく、この話は園朝が幕末のころ「三題噺」の一つとしてまとめたものである由。以前富士川の水運のことを述べたが、鰍沢がその水運で活気付いていたそんな時代の話である。

「御の字(おんのじ)」:落語「大工調べ」から

似たような成句に「御の字」というものがある。落語の「大工調べ」(古典落語:小さん集)を読んでいたときに出会った言葉である。

落語では

与太郎が家賃を一両二分と八百文もためてしまって大家に大工道具をもっていかれてしまった。仕事ができたのでこの借金を払って大工道具を取り返そうとする。棟梁が手元に一両二分しかなく、残りの八百文をどうするか。大工の与太郎とその棟梁の政五郎の会話である(二分は二分ノ一両、八百文は五分ノ一両)。

「じれッてなあこの野郎、八百足りねえと、こういうのか」

「あッそうだ、いやあ棟梁、勘定がうめえな」

「張り倒すぞ、この野郎。一両二分と八百ッとこィなあ、八百持ってって言い訳するんじゃァねんだ、一両二分持ってくんだい、八百ぐれぇおんの字だよ」

「なんだ、おんの字てえなあ」

この後の政五郎の説明はなにかよくわからないが、「(一両二分持って行けば)、八百文足りなくても十分だ」だという意味で「御の字」を使っている。

 

 

成句:「以って瞑すべし」(もってめいすべし)

「充分に満足すべき内容であった。」という意味を書こうとしてこの成句が頭に浮かんだ。出典は何かなと思って広辞苑を調べてみた。

広辞苑では出典はないが、本来の意味として:

「それだから心残りなく成仏できるだろうの意で、物事が非常にうまくいったから、死んでもかまわない気持をいう。」

とある。

現在のわれわれはものごとの完成度に対して、この成句は自分を納得させる意味合いに使うことが多いように思う。

 

米と塩を運ぶ:富士川の水運

利根川のことを書いたが、この川を使った水上輸送はどうようなものであっただろうか?

近世における利根川の水上輸送が果たした役割が大きかった故に、この川を舞台に博徒の抗争を描いた講談「天保水滸伝」のようなフィクションも生まれたのであろう。

利根川は東北地方の米を江戸に運ぶ「東廻り」の海上輸送航路の一端を担っていたように思われるが、具体的なイメージに乏しい。

水運の面で資料が豊富なのは富士川の水運である。

富士川の水運は慶長12(1607)年京都の豪商角倉了以(1554~1614)による水路開拓に始まる。鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町、富士川右岸)、青柳(右岸、鰍沢町の北隣)、黒沢(左岸、鰍沢町の南隣)の富士川三河岸から駿河岩淵(庵原郡富士川町)まで18里(72km)に舟運の道ができた。

富士川舟運の主な積荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、下げ米は信州、甲州にある幕府天領からの年貢米(御城米;おしろまい)、上げ塩は瀬戸内の塩が中心だった。鰍沢より北への輸送は中馬(馬を使った民間の運輸労働者)で、当時、塩の中継地として殷賑を極めた韮崎宿に出た。

富士川の輸送に使われていた船は「高瀬舟」で、下り荷の米は川の流れでよいとしても上り荷の輸送には人力を使った。その上り荷の塩は一俵六貫目(12.5kg)入りで、一艘積荷は40俵止めとなっていた。岩淵から鰍沢への上りに4~5日を要した。

富士川通船が始まり、鰍沢、青柳、黒沢河岸の3河岸には、常に数百艘の船が浮かび、富士川を航行する船数は、500~560艘に及んだという。

大正4(1915)年以降富士身延鉄道が次第に路線を延長し、昭和3(1928)年、ついに富士・甲府間が全通し、ここに富士川水運の歴史が閉じられる。

船の動力の改良がもっとはやく進んだならば、これらの水運の寿命はもっと長かったのではと思われる。

 

利根川の源流

霞ヶ浦周辺の地図を調べていたら、利根川が目に入った。流域面積日本最大のこの川の源流はという疑問がわいた。

源流探しはみんなの興味を引くらしくどこでも盛んだ。面白そうな例を挙げると

ナイル河:「エジプトはナイルの賜物」といわれるナイル河はエジプト、スーダン、エチオピア、ウガンダ、ザイール、ケニアそしてタンザニアを含む流域を持つが、エチオピアを源とする青ナイルとウガンダのヴィクトリア湖の北岸を源とする白ナイルがある。源流探しはこの白ナイルの源をいう。発見はジョン・スピークで1862年のことであった。

黒部川:ぐっと身近な川である。富山県の黒部渓谷・剱岳(つるぎだけ)は大変の興味深い場所であるが、その黒部川の源流は?

長野県にある鷲羽岳(わしばだけ)の北斜面にある。

さて、利根川であるが、源流も含めで、ここが詳しい。それによると源流は群馬県と新潟県との境界にある大水上山(おおみなかみやま)の三角形の雪渓である。

霞ヶ浦と「帆引き船」

数日前の新聞の旅のコーナーに霞ヶ浦の「帆引き船」の記事が載った。その「帆引き船」の写真がとても印象的であった。その「帆引き船」の写真はここ

いまでは純粋に観光用であるらしいが、嘗てはわかさぎやしらうおを網で獲る漁法の動力としてこの「帆引き」が使われた。操業中は船は帆に風を受けて横に動く。この漁法は明治の中ごろ始まったということでそんなに古いものではないが、霞ヶ浦そしてその東側にある北浦は中世から「海夫」たちの活躍した場所である。