多数の手を持ち救済の能力を最大限もった観音が予想される。この極限が千手(せんじゅ)観音である。
天平宝宇三年(759年)に鑑真により唐招提寺に安置された千手観音は現存する最古のもの一つである。この観音は立像であるが、同時期に作られた河内葛井(ふじい)寺の千手観音は坐像である。
平安中期以降には千手観音信仰は盛大になり、観音信仰を独占するまでになった。その最高潮には一千体の千手観音を安置する堂宇を創るまでになった。
多数の手を持ち救済の能力を最大限もった観音が予想される。この極限が千手(せんじゅ)観音である。
天平宝宇三年(759年)に鑑真により唐招提寺に安置された千手観音は現存する最古のもの一つである。この観音は立像であるが、同時期に作られた河内葛井(ふじい)寺の千手観音は坐像である。
平安中期以降には千手観音信仰は盛大になり、観音信仰を独占するまでになった。その最高潮には一千体の千手観音を安置する堂宇を創るまでになった。
東大寺法華堂(三月堂)の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)がよく知られているが、この観音は十一面観音よりさらに強力な観音で、この観音を祈る全て人間を洩らさず救済するという誓願を持っている。この観音に関する経典は三十巻経もあり、この観音の信仰を中心とした宗団もあったらしい。
日本では東大寺のものが最古のもので、天平十八年ごろの作と思われている。一面三目八臂のすがたをしている。その他この観音は大安寺、唐招提寺、広隆寺などに現存する。
観音による救済の願いが強くなり、多義に渡ってくると観音像も次第に複雑になる。その初めのものが十一面観音である。
十一面観音に対する信仰は奈良時代後期なると次第に盛大になった。この時代の造像のものが現在でも多くの残っている。美江寺、聖林寺、観音寺、大安寺。
平安時代にも天台密教の中で十一面観音の信仰が受け継がれていた。そのため比叡山内の僧房の本尊として作られたものも多いという。
地方では滋賀県渡岸寺(とがんじ)の十一面観音が有名。
「お水取り」で知られる東大寺二月堂の秘仏も十一面観音である。「お水取り」は十一面観音悔過(けが)という行法で、悔過(けが)とは仏に過ちを悔いることである。そのため、祈ることは勿論、五体投地などの荒行をおこなう。この功徳によって天下泰平、風雨時順、五穀豊穣などの現世利益が達成されると考えられた。
観音像は阿弥陀如来の脇侍の一尊であるが、法華経に含まれる観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品)においては人間のあらゆる危難に応じて種々の姿に変化し救済を行うものと記している。これは大乗仏教にいうさとりへの道を追求し、さとりの境地の象徴としての浄土への信仰に比較すると大変に異質な性格である。この性格が観音の密教的な仏であることに繋がっている。
飛鳥時代、奈良時代を通じて観音信仰が盛んであったことは当時の多くの観音像が現存することから分る。例えば
法隆寺の百済(くだら)観音、夢殿救世(くぜ)観音
薬師寺東院聖(しょう)観音
これらの観音は一面二臂の姿をした像であるが、やがて多面多臂の姿になる。
「日本密教:その展開と美術」(佐和隆研著)という面白い本がある。このブログでも何回か引用した。改めて読んでみた。
日本が受容した仏教は大乗仏教であり、招来された仏教はその中でもさとりへの哲学を説いたものであった。
この本では
「多くの菩薩がその祈願者に現世利益(げんせりやく)をもたらすという信仰は大乗仏教の思想の中に秘められている。この信仰を展開させて、その背後に仏教的思想による統一を与えたのが密教でる」と密教の性格を端的に記述している。
この本の面白さは現在われわれが古寺で目にする仏像が造像された当時にどうような性格の仏像であったかを推察していることである。
「沈すなわち香」という言葉がある。中国では焚香料の代表格が沈香である。
沈香木は中国西南部と海南島、ベトナム、タイ、ボルネオ等、熱帯の山間僻地の樹林中の生育するアキラリア属等の樹幹のある小部分に稀に生ずる。この木か何らかの刺激を受けるとその部分だけが樹脂化して沈香木となる。地中の埋もれて木自体は腐食してしまうが、沈香木は残るのでこれを採取する。
「沈香を焚けば香気は寂然(せきぜん)として鼻の中に入る。それは木でなく、空でなく、煙でもない。去って着くところがなく、来るもよるところもない」と言われる。
古インド語のサンスクリットでは沈香をアガルーという。「ア」は接頭語で、「ガルー」は重い、水に浮かばない。つまり「沈」である。
沈香木の絶品が伽羅木(きゃらぼく)であり、別名を奇楠木(きなんぼく)という。
今朝の朝刊の記事のタイトルである。
核兵器禁止条約は2017年7月7日、122カ国によって採択。50カ国目の批准書が国連に寄託された後90日で発効する。
9月21日地中海の島国マルタが核兵器禁止条約の批准書を国連に寄託した。これで同条約を批准した国は合計45カ国となった。
普通にスパイスというとき、モルッカのクローブとバンダのナツメッグ、それにインド・セイロンのシンナモンの三つをスパイスのビック・スリーという。インド(マラバル)とジャワ(スマトラ、ブルネオ)のペッパーは別格の扱いで、ペッパーはそのままの名称で呼ばれる。
クローブはオイゲノールを主成分としている。このオイゲノールは香料の中で最も殺菌力と防腐性が強いので食品を味付けと保存に適している。
中国に伝わったのは後漢あたりである。グローブの乾燥花蕾のかたちが釘状であることから丁子(ちょうじ)または丁香と呼ばれた。
一方、ナツメグそしてカーダモンは胃腸の妙薬であった。ナツメグは中国でも薬物で、肉豆蔲(にくすく)と言った。
“The Horse, the Wheel and Language”(David W. Anthony)を読んでいたら最古の合金ではないかなという記述にであった(p. 256)。
黒海・カスピ海ステップで乗馬の習慣を獲得した人々は西に向かって移住を始めた。紀元前4200年ごろドニエプル川渓谷から来たと思われる遊牧民がドナウ川三角洲の北の端に現れた。三角洲の北の湖の多い地方はボルガード文化を持っていた古ヨーロッパの農耕民が暮らしていた。かれらはステップの人々が現れると同時にその地を去った。
この移住してきた人々が作った文化がスヴォロヴォ・ノヴォスヴォボドナヤ複合体である。その墓地から出土した遺物の中に銅とヒ素の合金で作られた腕輪がある。
原文では以下のような記述である:
「N.Ryndinaによって解析された8個の金属性の物体の内6個は典型的なヴェルナ・Gumelni\c{t}aタイプでバルカン山脈由来の鉱物からできていた。一つの腕輪と一つのリングはこれまでにヴェルナやGumelni\c{t}aタイプではなかった意図的な銅とヒ素の合金(それぞれ1.9%と11.2%のヒ素含有量)でできていた。」
これらの合金は最古の合金ではないかなと思う。
胡椒は帝政時代のローマで熱狂的な人気をはくした香辛料である。「長胡椒」が最も人気があり、次いで「白胡椒」、「黒胡椒」の順である。
「白胡椒」と「黒胡椒」はPiper nigrumという蔓性の潅木の果実を乾燥したもので、白黒の違いはその果実の熟成度や製法の違いによる。インド南部が原産。一方インド北部を原産地とするのが「長胡椒」である。多年草潅木Piper Longumで果実は長く穂状につき、そのまま乾燥させたものである。
サンスクリットで長胡椒はpippali、普通の胡椒はmarichaという。ギリシア語ではpeperi、ラテン語ではpiperとなりこれらがヨーロッパ言語の胡椒の語源になっている。つまりヨーロッパ言語の胡椒は「長胡椒」のことである。