丙午(ひのえうま)という干支(えと)がある。十干の「丙」と十二支の「午」の組み合わせで、六十年に一度の頻度で起こる。なぜか、この年の女子の誕生を嫌う。この干支の特徴付けからくるものだろうが、その特徴付けの論理を知ると、この「丙午」忌避説がいかに非合理なことがわかる。
まず、十干からみると、陰陽五行説では宇宙を支配して要素(原素)は、木火土金水の五原素である。それぞれの原素は上下関係を持った兄(え)、弟(と)のサブシステムを持つ。これらの十個の要素が十干である。だから、木兄ー甲、木弟ー乙、火兄ー丙、火弟ー丁…となる。火兄(ひのえ)=丙である。この丙原素の特徴は「太陽の光熱」(吉野裕子著「神々の誕生」)。
次に、十二支であるが、年の数え方に使われるが、月次にも使われる。一月=寅月、 二月=卯月、….五月=午月….。陰陽道では、これらの月にも五原素が配当される。午月は夏の季節なので火であるとされる。
ここから、「丙午」は火が重なった十干十二支の一対であるとされる。「火が重なった気性を持つ」ということで忌避されるわけである。
さらに、午=馬ー>「ジャジャ馬」の連想で忌避されることもあるらしい。これは、馬にとっては甚だ迷惑な話である。僕が以前頻繁に乗っていたメープルは牝馬(ひんば)でしたが、乗り手のことを良く聞いて一生懸命はしる馬でした。「馬」=「ジャジャ馬」は不当です。
十二支の午(うま)
十二支(じゅうにし)は年、月や方位に使われている。最も馴染み深いのは、年の数え方であろう。この十二支は最初は単なる漢字で、「子」「丑」「寅」…であって、動物との対応はなかったそうである(柳宗玄著「十二支のかたち」)。いつの頃からか、十二支と動物の対応できあがる。それも可成り恣意的で、「午」の漢字に動物の馬がなぜ対応するのか合理的な説明はない。それでも、午年の人は僕も含めて、自分の守護動物は馬であると思って安心する。
十二支と並んで十干(じゅっかん)というものがる。これは、「甲」「乙」「丙」…の十個の漢字である。陰陽五行説に基づて宇宙を支配する五要素の細分化による十である。十干十二支で年や日を記述する。10と12の最小公倍数は60で、この数で十干十二支はもとの一対に戻る。これを「還暦」という。
十干十二支で最もポピュラーなのは「庚申」(こうしん)だろう。十干の7番目の「庚」と十二支の9番目の「申」の組み合わせである。「申」は動物では猿である。この「庚申」は60の組み合わせのなかで最も強力な一対で(吉野裕子著「神々の誕生」)、これに対応する日や年は、これが無事に過ぎるように「庚申」祭をした。この祭りに神々に祈願したことを示す石碑が「庚申」碑として今もいたるところにある。
馬から横道に逸れてしまったが、僕の住む近くの神社の境内にある「庚申」碑の写真をお見せして終わりとする。
馬のロコモーション
馬は歩行速度によって歩様(gait)を換える。LET’S ENJOY RIDING(全国乗馬倶楽部振興協会)によると
常歩:1分間110m程度の速さのとき、4節で動く
速歩:1分間220m程度の速さのとき、2節で動く
駈歩:1分間340m程度の速さのとき、3節で動く
となっており、代表的な歩行速度で実現する歩様(gait)を説明している。
このことは、歩行速度を徐徐に変えると(例えば、徐徐の速度を上げる)、ある速度の所で、常歩から速歩へと歩行が不連続的に替わることになる。また、さらに速度を上げると、ある速度で、速歩から駈歩へと不連続的に替わることになる。このような不連続的に様子が変わることを、遷移現象という。
このような遷移現象は、社会や自然の中で豊富に見いだすことができる。卑近な例では川の橋桁の下流に出来る渦の文様がある。この文様は流速に従って不連続的に変化することが知られている。日常は乱れた流れを良くみるが、流速が小さいときは、カルマン渦列のような綺麗で面白いパターンを描く。
動物の歩行を研究している人々は、この馬の歩行の遷移現象に大変に興味を持っている。
妙見さんと馬
妙見信仰と馬の関連を調べてみたが、特に興味あるものは得られなかった。だだ、下総(シモフサ)を支配してた千葉氏を通じて若干の関連がわかった。
妙見信仰は、最初は朝廷の祭りとして盛んになるが、鎌倉時代には日蓮宗との関連で全国的な規模の広がりをみせる。武士階級では、北辰妙見が北斗の七菩薩を率いて国土を擁護するという信仰から、武運を守ると信ずるようになった。中でも多田満仲を初めとして、大内、島津、千葉氏らが熱心な信徒であった(野尻抱影著「日本の星:星の方言集」(中央公論社:1973)。この千葉氏は下総を支配していた中世まで遡る古い豪族である。しかも、下総の原野を牧(マキ)として馬の放牧をおおきな生業としていた。この千葉氏は、千葉介常胤(ツネタネ)の時代に、源頼朝の伊豆挙兵に遭遇し、最終的には源氏に加担する。この常胤の末子に胤春(タネハル)がいる。彼は、義経のシンパの一人である(吉川英治著「新平家物語」。このシンパの中には、福島医王寺の佐藤継信・忠信兄弟もいる。
横道にそれたが、この千葉氏のところで、妙見信仰と馬が繋がる。
因みに、相馬中村藩はこの千葉氏の支流である。これが、相馬でも馬と妙見信仰が盛んな理由のように思える。
鞍懸星
西欧でペガススのような馬にかかわる星座があるのであれば、日本にもあるのではないかと調べてみた。
鞍懸星というのがある(野尻抱影著「日本の星:星の方言集」。アオボシ(シリウス)から南へ眼をを移していくと、犬の尾にあたる部分に、三つの二等星があざやかな直角三角形を描いている。これがサンカクボシの和名がある星の集まりである。
このサンカクボシには異名があり、焼津町では、クラカケボシと呼ばれている。野尻抱影氏は「鞍をかける台の形に似ているからだろうが、趣きの深い名で推称に値する」とコメントしている。鞍が農家の親しみのある道具であったことを窺わせる星の名前である。
クラカケボシ(「日本の星:星の方言集」より)
天に昇った馬
ペガススは天に昇った馬である。
神話(野尻抱影著「星座のはなし」によれば、ペガスス(Pegasus(ドイツ語)、Pegase(フランス語)、Pegaso(イタリア語))は、雪のように白い、大きな翼、明星のような輝く目の天馬である。勇士ペルセウスが、蛇髪の女性メドゥーサの首を切り落としたとき、その血が岩にしみいると飛び出した馬である。ところで、R.H.Allen著”Star Names-Their Lore and Meaning” (Dover Pub.: 1963)によれば、ペガススの神話は最初から馬と結びついていたわけではないらしい。この神話を馬と結びつけたは、例のハミの発見者であるヒッタイト人である。ありそうな話である。
それにしても、ペガススは天の昇った馬としてはピカ一である。
ペガスス座がどこにあるかわからないだって。
アンドロメダ座の近く大きなな四角形が見える。その四角形がペガサスの胴体の部分になる。
ペガスス座(プラムスティード図譜から)
白馬山・駒ヶ岳
白馬山や駒ヶ岳はどうように馬と関連があるのだろうか?
それは暦(こよみ)と関連がある。暦といっても自然暦である。白馬山では冬には一面の雪が積もるが、春になると雪が徐徐に解ける。地元の人たちは、この残雪で山に「白馬」が現れるころを見計らって稲の種蒔きをする。ここから白馬山という名前が付いた訳である。駒ヶ岳も同じような由来だと思う。
本居宣長は「真暦考」という書物の中で、大陸から天体運動に基づく暦が日本に導入される以前に、日本でどんな手段で時期を知ったのかを考察してる。日本では四季の変化がはっきりしているので、その変化を知れば時期を決めることができたはずであると述べている。白馬山に残雪の形で現れる「白馬」もそのようなマークの一つである訳である。
それにしても、残雪の形が「白馬」に見えるということは、いかに僕らの祖先の時代には馬がポピュラーな生き物であったかを裏付けるものである。
楢下のハミ
楢下(ナラゲ)は羽州街道の宿場町の一つである。羽州街道は福島と宮城の境に近い桑折(コオリ)を起点として、奥州街道から分かれて福島、山形、秋田を通り青森の油川までに通じていた江戸時代の街道である。 その福島と山形の境に金山峠があるが、その山形側に下りたところに楢下の宿はある。
めずらしい桝方の宿場で、脇本陣などの参勤交代に藩主が宿泊した建物などよく保存されていて、当時の宿場町の雰囲気を残している。写真はその建物の一つ、武田屋にあったハミである。この宿は脇本陣格の旅籠をしていたと説明にあったが、建物の隅に馬屋がありその片隅にこのハミが転がっていた。いつごろのものか不明であるが、「あっ、ハミだ」と思って写真に収めた。
僕らの乗馬クラブの馬たちも様々な形のハミを使っている。そのなかでめずらしい頭絡を使う馬がいる。この頭絡はハッカモーア(hackamore)という。この頭絡は「ハミなし」である。ハミがない代わりに鼻を圧迫することで馬を制御する。
WIKIPEDIAによればこのハッカモーアという言葉はスペイン語由来である。この型の頭絡はハミが発見される以前から馬の制御に使われていたとのことである。馬以外のラクダなどの制御に使われていたものを馬に転用したものである。馬の口への負担が少ないので長距離の乗馬やエンデュランスなどによく使われる。
馬の耳に念仏?
広辞苑によれば、「馬の耳に念仏」という諺は「馬にいくら念仏を聞かせても、その有難みがわからないように、いくら話を聞かせても、何の役にもたたないさま」を言う。
馬の聴力は馬の五感の中で最も優れていると言われているが、この最高の聴力をもってしても、聞く耳を持たないと念仏も聞こえてこないということだろう。
ヒトが「念仏を聞いてその有難みがわかる」とはどういうことなのだろう?
念仏それ自体に論理的な説得力があるのではではなくて、その念仏に誘発された情念が有難みを感ずるのであろう。
念仏を聞いたときの馬の心はまさに馬に聞いてみないとわからないが、馬は喜び、悲しみ、怒りの感情を持っている。動物はヒトが想像する以上に豊かな情感の世界を持っている(松沢哲郎著「チンパンジーの心」。しかし、その情感をヒトに伝える手段に乏しい。
馬は「あのときこういうことがあった」というエピソード記憶の膨大なデータベースを持っていると言われている。だから、念仏を喜びの情感と結びつける経験を持つと、その馬は念仏を聞くことによって喜びの情感を持つことになる。「馬の耳に念仏」は違った意味になる。
最強の武田騎兵軍団
日本の戦国時代に最強の騎兵軍団を持っていたのは甲斐の武田信玄及びその子の武田勝頼だと言われている。「長篠の戦い」で武田勝頼は信長・家康軍と戦うことになるが、この騎兵軍団は信長の謀略にあい手痛い敗北にあう。新田次郎著「武田勝頼」によれば、鉄砲という武器が戦闘に投入されたが、”馬が鉄砲に負けた”のが長篠の真相ではない。
どのくらいの馬でこの武田騎兵軍団は構成されていたのだろうか?
長篠の戦いに出陣した武田軍は一万五千(これに対して織田軍三万五千、徳川軍八千)と言われている。これは軍役として参加した人の数であるが、軍役として参加した馬の数を知りたい。
面白い資料がある。笹本正治著「武田信玄:伝説的英雄像からの脱却」は、武田軍の軍役の状況を資料から確認して表に纏めている。面白いので一部引用してみると:
元亀二年 武田兵庫助 知行高397貫 軍役人数28 馬2
天正四年 小田切民部少輔 軍役人数45 馬6
などとなっている。表の中の軍役人数、馬数の平均を取ってみると馬数は軍役人数の約一割になる。長篠の戦いに出陣した馬の数は一千五百程度ということになる。可成りの馬が戦闘に参加したことになる。このあたりがピークだとおもう。その後の戦闘では鉄砲の投入で戦闘の形態が大きく変わることになる。