最近は樹脂製の「蹄鉄」もあるが、蹄鉄といえば「鉄」である。ショックを吸収することから軟鉄が使われている蹄鉄の起源は何処だろうか?
窪田蔵郎著「鉄から読む日本の歴史」によれば、自然界から鉄を取り出す技術は中央アジアで始まった。この技術はその地を追われたトルコ系民族の突厥(トッケツ)つまりダッタン人によって東に伝播した。ダッタン人の語源タタールが転化してわが国の製鉄炉の「タタラ」になったと言われている。これは中国には漢の時代(紀元前200年)ごろからである。乗馬の風習も前後して東に伝播したのであろう。そしてこのダッタン人が馬に蹄鉄を装着すること始めたと言われている。
ウマの家畜化は幸運の産物?(2)
前回のブログで
現生ウマ(全てが家畜化されたウマの後裔)の遺伝的な特徴として最初に家畜化された牝ウマが多様なのに対して雄ウマは一頭にすぎないことを紹介した。
家畜化の関して何故このような偏りが出たかを考えてみたい。
それは家畜化される前の野生ウマの生態に関わっているに違いない。いまとなっては本来の野生ウマの生態を観察することはできないが、家畜ウマが野生化したウマたちの生態は観察できる。
世界の幾つかのところ(ウクライナのアクカニア・ノヴァ、メリーランドやヴァージニア州の堡礁島、そしてネヴァダ州北西部が有名)で自然のままのウマの群れを観察できる。これらの野生ウマたちの標準的な群れは二から七頭の牝ウマとその子どもたちとハレムを形成する一頭の雄ウマからなる。青年期の雄ウマたちは二歳ごろにこの群れを離れる。雄ウマ・ハレムの群れ集団は縄張り範囲を占領する。雄ウマたちは牝ウマのコントロールや縄張りを巡って激しく争う。若い雄ウマたちは排除されたあと、かれらは定住した雄ウマの縄張りの境界でこっそりと「独身群れ」と呼ばれる緩い集まりを形成する。大抵の独身ウマは五歳以上にならないと大人の雄ウマに挑戦したり牝ウマたちを自分のものにすることはできない。確立された群れのなかでは牝ウマたちは群れを先導し脅威が生まれたときは先頭に立つ指導的な牝ウマを頂点とする階層構造を作る。従って牝ウマたちは他の支配、それが牝ウマ、雄ウマそしてヒトであれ、を受け入れる素地を持っている。これに反して雄ウマは頭が固く乱暴であり、噛みついたり蹴ったりと他の権威に対して挑戦的な素地を持っている。相対的に扱いやすく御しやすい牝ウマたちが野生の群れの階層構造の底辺で見つかりやすくなる。しかし相対的に扱いやすく御しやすい雄ウマは例外的な個体であった。つまり野生では自分の子孫を残す可能性のない個体であった。
ウマの家畜化はこのような相対的に扱いやすく御しやすい個体がウマの家畜化の系統を作ろうとしたヒトの住むところに現れたという幸運によっているのかもしれない。ウマから見るとヒトは相手を提供してくれる唯一の方法であったし、ヒトから見るとかれはヒトが欲しがっていた唯一の雄ウマであったわけだ。
ウマの家畜化は幸運の産物?
ウマの家畜化の過程の問題である。
現生ウマの遺伝的な特性を調べてみると興味ある事実が出てくる。
現生ウマ全てが家畜ウマであるが、現生家畜馬の「雌」の系統は極端に分散している。母から娘に変化なして伝わるミトコンドリアDNAから得られた遺伝形質は地球上いる現生ウマの雌のこの部分の分散を説明するためには十七の系統発生的な系列に分類される六十七頭の祖先牝ウマを必要とすることが分っている。野生の牝ウマは多くの異なった場所と時間で家畜ウマに取り込まれたにちがいない。
一方雄から雄子ウマに変化なしで伝わるY染色体に関わる現生「雄」ウマのDNAは極めて一様であることが分っている。たった一頭の野生雄ウマの家畜化があったくらいで説明が着く。
野生ウマを捕獲した人々はいろんな野生牝ウマを捕獲し飼育するとに関し気楽に行っていたが、このデータに従えばかれらは野生の雄ウマをどこでも拒否し、家畜化された牝ウマたちと掛け合わせた野生の雄ウマから生まれた雄子ウマさえも家畜化しなかったことになる。現生ウマたちは極少数の原始雄ウマと多くの変化に富んだ原始牝ウマの後裔である。
カルタゴと馬
紀元前三世紀あたりでローマ帝国と対決していたカルタゴであるが、紀元前146年ローマの将軍スキピオによって廃墟になった。
その廃墟の発掘からカルタゴの文化をしるものが沢山見つかっている。そのなかで興味があるものの一つが金貨である。以下はその一例の画像である。
このコインの表はタニト女神で農業を司る神で、裏には馬が描かれている。カルタゴにとっては馬は特別な動物であったことを示している。
三輪山と二上山
大和盆地の東と西に三輪山と二上山がある。これらの二つの山が万葉集などに頻繁に現れるわけを小川光三著「大和路散歩」で知った。
よくこの二つの山は春分や秋分の日における太陽の出没に関連させる指摘があるが、小川氏はこの二つ山は盆地で始まった稲作農業と関連があると指摘している。三輪山からの太陽の出現は田植えの目安になり、二上山に太陽が沈む時期は収穫の目安になったとうわけである。
この指摘は「春分」「秋分」は大陸から暦がもたらされた以降のことに対して、農耕と関連した自然歴はそれ以前に遡る歴史を持っているはずであることを意味してる。
本居宣長は「真歴考」のなかで日本の歴がもたらされる以前の自然歴の状態を想像して、特定の山々から太陽の出現を例としてあげているが、三輪山と二上山は正にその例である。
ウマはハミを口の中の何処で噛んでいるか?
自明なようで不明な話。
ウマの歯にはハミを噛むことにとても適した個所があるといわれている。これは前歯と奥の臼歯の間にある歯のない領域(歯槽間縁という)である。前歯は左右に三本、臼歯は前臼歯が三本、後臼歯が三本で、間縁は前歯と前臼歯の間にある。この間縁には歯がなく歯肉がむき出しになっている。下顎と上顎とは歯並びが同じで口を閉じるとこの歯槽間縁のところに隙間ができ、ここにハミが入ると考えられてきた。
実際にハミを噛んでいるウマのハミの位置をX線ヴィデオ撮影した人がいる。結果はハミはそんなに静かに間縁に落ち着いているわけではなく。前後に動いているというものだ。
歯槽間縁のところにあったハミは後に動き、口角のところまで移動する。この位置は歯並びでは前臼歯の第二歯のところである。
ハミは再び前に移動して歯槽間縁に移動する。ハミはこの前後の移動を繰り返している。

画像は二つのタイプのハミについてハミの位置を示した模式図である。
馬の伝来と乗馬の風習
現生馬のわが国への伝来とわが国における乗馬の風習とは時間的なずれがあるのではないか?という問題である。
わが国における乗馬の風習は古墳時代後期(紀元四世紀)に埴輪や壁画で乗馬に適した胡服の人物が登場してることからこの時代あたりから始まったと考えてよい。現生馬もこのときに伝来したのであろうか?それともそれ以前にわが国には現生馬は存在したが乗馬の風習は無かったのかもしれない。
弥生時代(紀元前二世紀ごろ)の貝塚から馬の下顎骨が見つかっていてこの時代に日本でヒトの近くに馬がいたことが示されている。この馬が乗用に供されたかどうかは不明である。
世界史的に見ると現生馬は6000年まえのウクライナで起こった家畜化に始まるとされている。これより以前に世界中にいた「馬」は絶滅したとされている。この家畜化した馬(現生馬)は4000年まえごろには西アジアからブリテン島まで広がる広い分布をもつようになった。
弥生時代(2500年まえ)の馬の遺物は現生馬のものなのか?それともそれ以前にいた「馬」のものだろうか?それ以前の馬とすると、6000年まえごろには絶滅したと思われていた「馬」が2500年ごろもまで日本にいたことになる。多分現生馬だろう。
現生馬とするとどのようにして日本に伝来したのであろうか?日本列島が大陸と陸続きであった氷河時代は9000年まえごろには終わっている。だから現生馬は大陸から陸伝いにきたと考えるのは難しい。弥生時代人が家畜として連れてきたのかもしれない。ウクライナで起こった馬の家畜化は食料としての馬の家畜化であったといわれており、この後に乗用の習慣が起こったことがわかっている。弥生時代人にとっても馬は食料であったのかもしれない。
現生馬の伝来と乗馬の風習とは時期的にずれているのかもしれない。
太白山と太白星
仙台市に太白山という小さいが特徴的な山がある。円錐形をした山である。命名の由来は不明であるが金星が落ちてできた山ということで太白山となったという伝説があるという。太白星は金星のことである。古代中国の占星術では金星は宮廷での大臣(太白)のしるしとされ、方位では西、季節は秋のシンボルとされた。さらに軍事を支配する星とされた。軍の勝敗はこの太白星の動きで予言できるとされた。金星の「金」は古代中国の陰陽五行説では「金属」の「金」で「金属」のひやりとした冷たい感触が太陽の沈む西に対応されることはら「金」と西とが繋がっている。
こうしてみると太白山は西に位置する山にその名前の由来があるかもしれない。なるほどこの山は仙台市の西端に位置している。
ハトの首振りと非対称歩行
ハトは歩行するとき首を前後に振る。この原因は歩行による移動により目にはいってくる景色を一定時間静止して置くためらしい。実験的にもこれは確かめられている(「ハトはなぜ首を振って歩くか」(藤田祐樹)。ところでこの首振りは走行の位相と同期していて二足歩行の一歩の間に一回でしかも走行の位相と同期している。
例えば前著者によれば
「ハトの左の肢が空中にあるときにハトは首を伸ばし始めてさらに伸ばし右肢は地面を踏み出すと首を縮め始め右肢が空中にあるときは、さらに首を縮める動作をし右肢が着地するところでそれをやめる。」
という。
面白いのはハトの二足走行は対称になっているが、この走行に首振りまで含めると非対称になっていることである。
馬も走行の際に首を振るが、走行が対称な常歩や速歩ではこの首振りも含めて対称になっている。
非対称走行は馬では駈歩があるが、これには右手前、左手前のモードがある。
ハトの首振り歩行にもモードがあるはずである。
ケルトの地上絵
ナスカの地上絵は有名であるが、ケルトにも地上絵がある。
これはイギリス・アッフィントンにあるケルト人が描いたと考えられている地上絵である。上空から見ないと何が描いてあるか分からないほど大きなもので
画像のように大きな白馬である。何の目的で書いたかは不明である。