馬頭観音再論

馬頭観音については以前に話題にしたことがある。
馬頭観音は奈良時代の密教の経典である「陀羅尼集経」に現れる。
馬頭を顔とした観音、馬頭を頭に戴く忿怒(ふんぬ)形の観音である。大乗仏教特に密教になると十一面観音や千手観音などたくさんの機能を持った仏像は出てくる。馬頭観音のその一つである。
なぜ馬頭かという点は不明であるが、ヒンズー教の神々のなかにその起源があり、それが仏教の中に持ち込まれたのかもしれない。
しかし、この時代ではこの観音の人気がさほど高くはなかったらしく、文献のあるものの、現存する仏像もほんのわずかである。平安以降の作例のすくない。
ずっと時代は下って江戸時代あたりになると馬の守護神として民間信仰として信仰されるようになる。

馬頭星雲

オリオン座にある暗黒星雲の一つに「馬頭星雲」がある。星雲と言っているが星の集合ではなく、星間物質の濃い集まりである。それと見えるのはシルエットである。

馬頭星雲(右側の馬のシルエット)
馬頭星雲(右側の馬のシルエット)

常長の馬具

国宝になっている支倉常長が持ち帰ったものの中に欧州とは無関係なものがあるという記事が先日の新聞に載った。
それらは馬具で、かたちからして和製のものである。常長が何処でこれらを手に入れたかやなぜ欧州のキリスト教関連の文物と一緒に持ち帰ったのかは不明であるとの由。

冬よさようならーベラルーシ

ベラルーシのミンスク近くの村で馬そりに乗ってパンケーキ週間を祝う子どもたち。
これは冬に別れを告げる伝統的な行事だそだ。
Children in the village of Strochitsa, near Minsk, Belarus, ride a horse-drawn sled to mark the start of Pancake week – known as Maslyanitsa – an ancient tradition of saying goodbye to winter in Belarus, Russia

ウマ橇に乗るこどもたち
ウマ橇に乗るこどもたち

 

旧正月

旧正月は旧暦の正月のことである。
朔日は月が新月にあるときだから月をみているとわかるが、一月はいつかという疑問がでる。
旧暦は太陽の動きを考慮して暦月を決めている。
・暦月中、冬至を含むものを十一月、春分を含むものを二月、夏至を含むものを五月、秋分を含むものを八月としている。
だから一月は二月の前ということになる。二十四節気で春分の前は「啓蟄」(けいちつ)その前が「雨水」、そしてその前が「立春」となる。だから、正月は立春前後になる。
今年は新暦の二月五日が「旧正月」となる。

こんな話は馬とは関連がないが、岩手の「エンブリ」はこの旧正月の行事である。
田の作業を真似た踊りであり、馬が登場する。
農作業で馬が活躍した証拠だ。

エンブリの馬烏帽子

 

駈歩発進

馬の歩様については以前ここでも取り上げた。馬をトレットミルに乗せてミルの速度を上げていったときにみられる歩様を観察するという実験についても触れた。それによると
常歩から速歩への遷移は速度が約2m/sでおき
速歩から駈歩への遷移は速度が約6m/sでおきる。
さらに、この遷移は酸素消費量を節約するためにおきていることが分かっている。
これは自動車のギアチェンジに譬えられる。
動きはじめはロウに入れて走り始めるが、自動車がある一定の速度以上になったらドライブに入れるようなものだ。多分この方法で燃費を押させることができるのだろう。
遷移速度が2m/sや6m/sになる理由は馬の身体的な特徴から説明される必要がある。
一方、「駈歩発進」という乗馬技術がある。
常歩をしている馬を一気に駈歩の歩様へと切り替える。また速歩から一気に駈歩にする。
これはきっかけさえ上手く与えてやると馬は速度に関係なく歩様遷移をすることができるということである。
自然状態の馬が捕食者を発見して急に駈歩で逃げることを考えると自然なことである。
面白いことは、自動車では走行速度を無視したこのような急な遷移は大抵の場合「エンスト」してしまうが、馬は丈夫なエンジンを持っているのか、「エンスト」を起こさない。
もしかしたら、エンジンだけの問題ではないのかもしれない。
生き物は上手くできてると感心する。

馬連(ばれん)

正月休みに天童市にある「広重美術館」に行ってみた。
最上藩の財政難の時期に広重に浮世絵を描いてもらいそれを債券の替わりに商人から金を借りたという話である。
今回の展示は百人一首と歌舞伎の場面を合わせた刷り物で歌舞伎の名場面に百人一首が添えられていた。これ自体が面白かったが、版画の制作過程のコーナにバレンがあった。それには漢字で「馬連」とあり、さては馬の何か似ていることに由来するものかなとおもった。
形が馬の蹄に似ていることから、それを何回も押しつけて印刷する意味から「馬連」だとか想像してみた。しかし、「馬連」は単なる当て字らしい。
因みに「馬連」は英語でもbarenである。

日本海を渡った馬たち

馬が日本海を渡って日本に来たことが歴史的にハッキリしている最初は応神天皇の時代に、百済から馬二匹が献上されたというものである。古事記によれば牡牝各一匹とあり、繁殖を目的としたものだったのだろう。汗血馬、アラブ系の馬と思われる。
当時船で馬を輸送するするには、底の浅い、速度の遅い船で、一艘に二匹程度の馬たちを乗せた。

千葉治平著「馬市果てて」

生活の中に馬がいた時代がどのようなものであったのか知りたいと思い調べている。
「馬の文化叢書」9巻「馬と近代文学」の中にそれらしきものが二編あった。一つは木下順二著「馬への挽歌ー遠野で」、もう一つが千葉治平著「馬市果てて」である。
後者の「馬市果てて」は軍馬の供給で栄えた馬市が終了してしまって僅かに挽馬の需要が残った戦後まもない時代の馬産農村の生活を描いたものである。著者の千葉治平は秋田県生まれの人でこのころの秋田の農村を舞台した小説をいくつか書いている。

附馬牛(つきもうし)

遠野に附馬牛(つきもうし)という珍しい名前の場所がある。この名前の由来を調べてみると、
「現在の青森県東半部から岩手県北部にかけての地域は、古く陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡とよばれました。糠部産の馬は名声が高く、「糠部の駿馬」と通称されました。現在の遠野市域はかつて閉伊(へい)郡とよばれた地域で、糠部郡に南接していた閉伊郡も古くから馬産が盛んなところでした。附馬牛地内の稲荷神社には槻の巨木があり、この木の下に多くの牛馬を放牧することができたことが、附馬牛の地名由来との伝承があります。」
とある。ここで「槻」(つき)とは欅のことで、万葉集あたりでは「槻」が使われている。
また、附馬牛の駒形神社ふきんは阿曽沼氏の牧場だったといわれているが、遠野 に駒形神社が多いのは、とくに阿曽沼時代に馬産がすすんだことをものがたっている。
阿曽沼氏は鎌倉時代に頼朝からこの遠野を与えられ戦国時代までこの地を支配した豪族で、南部氏と同じように出身が関東かもしれない。