三輪山と二上山

大和盆地の東と西に三輪山と二上山がある。これらの二つの山が万葉集などに頻繁に現れるわけを小川光三著「大和路散歩」で知った。
よくこの二つの山は春分や秋分の日における太陽の出没に関連させる指摘があるが、小川氏はこの二つ山は盆地で始まった稲作農業と関連があると指摘している。三輪山からの太陽の出現は田植えの目安になり、二上山に太陽が沈む時期は収穫の目安になったとうわけである。
この指摘は「春分」「秋分」は大陸から暦がもたらされた以降のことに対して、農耕と関連した自然歴はそれ以前に遡る歴史を持っているはずであることを意味してる。
本居宣長は「真歴考」のなかで日本の歴がもたらされる以前の自然歴の状態を想像して、特定の山々から太陽の出現を例としてあげているが、三輪山と二上山は正にその例である。

ウマはハミを口の中の何処で噛んでいるか?

自明なようで不明な話。

ウマの歯にはハミを噛むことにとても適した個所があるといわれている。これは前歯と奥の臼歯の間にある歯のない領域(歯槽間縁という)である。前歯は左右に三本、臼歯は前臼歯が三本、後臼歯が三本で、間縁は前歯と前臼歯の間にある。この間縁には歯がなく歯肉がむき出しになっている。下顎と上顎とは歯並びが同じで口を閉じるとこの歯槽間縁のところに隙間ができ、ここにハミが入ると考えられてきた。

実際にハミを噛んでいるウマのハミの位置をX線ヴィデオ撮影した人がいる。結果はハミはそんなに静かに間縁に落ち着いているわけではなく。前後に動いているというものだ。

歯槽間縁のところにあったハミは後に動き、口角のところまで移動する。この位置は歯並びでは前臼歯の第二歯のところである。

ハミは再び前に移動して歯槽間縁に移動する。ハミはこの前後の移動を繰り返している。

ウマの口の中で動くハミの位置
ウマの口の中で動くハミの位置

画像は二つのタイプのハミについてハミの位置を示した模式図である。

 

馬の伝来と乗馬の風習

現生馬のわが国への伝来とわが国における乗馬の風習とは時間的なずれがあるのではないか?という問題である。
わが国における乗馬の風習は古墳時代後期(紀元四世紀)に埴輪や壁画で乗馬に適した胡服の人物が登場してることからこの時代あたりから始まったと考えてよい。現生馬もこのときに伝来したのであろうか?それともそれ以前にわが国には現生馬は存在したが乗馬の風習は無かったのかもしれない。
弥生時代(紀元前二世紀ごろ)の貝塚から馬の下顎骨が見つかっていてこの時代に日本でヒトの近くに馬がいたことが示されている。この馬が乗用に供されたかどうかは不明である。
世界史的に見ると現生馬は6000年まえのウクライナで起こった家畜化に始まるとされている。これより以前に世界中にいた「馬」は絶滅したとされている。この家畜化した馬(現生馬)は4000年まえごろには西アジアからブリテン島まで広がる広い分布をもつようになった。
弥生時代(2500年まえ)の馬の遺物は現生馬のものなのか?それともそれ以前にいた「馬」のものだろうか?それ以前の馬とすると、6000年まえごろには絶滅したと思われていた「馬」が2500年ごろもまで日本にいたことになる。多分現生馬だろう。
現生馬とするとどのようにして日本に伝来したのであろうか?日本列島が大陸と陸続きであった氷河時代は9000年まえごろには終わっている。だから現生馬は大陸から陸伝いにきたと考えるのは難しい。弥生時代人が家畜として連れてきたのかもしれない。ウクライナで起こった馬の家畜化は食料としての馬の家畜化であったといわれており、この後に乗用の習慣が起こったことがわかっている。弥生時代人にとっても馬は食料であったのかもしれない。
現生馬の伝来と乗馬の風習とは時期的にずれているのかもしれない。

太白山と太白星

仙台市に太白山という小さいが特徴的な山がある。円錐形をした山である。命名の由来は不明であるが金星が落ちてできた山ということで太白山となったという伝説があるという。太白星は金星のことである。古代中国の占星術では金星は宮廷での大臣(太白)のしるしとされ、方位では西、季節は秋のシンボルとされた。さらに軍事を支配する星とされた。軍の勝敗はこの太白星の動きで予言できるとされた。金星の「金」は古代中国の陰陽五行説では「金属」の「金」で「金属」のひやりとした冷たい感触が太陽の沈む西に対応されることはら「金」と西とが繋がっている。
こうしてみると太白山は西に位置する山にその名前の由来があるかもしれない。なるほどこの山は仙台市の西端に位置している。

ハトの首振りと非対称歩行

ハトは歩行するとき首を前後に振る。この原因は歩行による移動により目にはいってくる景色を一定時間静止して置くためらしい。実験的にもこれは確かめられている(「ハトはなぜ首を振って歩くか」(藤田祐樹)。ところでこの首振りは走行の位相と同期していて二足歩行の一歩の間に一回でしかも走行の位相と同期している。
例えば前著者によれば
「ハトの左の肢が空中にあるときにハトは首を伸ばし始めてさらに伸ばし右肢は地面を踏み出すと首を縮め始め右肢が空中にあるときは、さらに首を縮める動作をし右肢が着地するところでそれをやめる。」
という。
面白いのはハトの二足走行は対称になっているが、この走行に首振りまで含めると非対称になっていることである。
馬も走行の際に首を振るが、走行が対称な常歩や速歩ではこの首振りも含めて対称になっている。
非対称走行は馬では駈歩があるが、これには右手前、左手前のモードがある。
ハトの首振り歩行にもモードがあるはずである。

ケルトの地上絵

ナスカの地上絵は有名であるが、ケルトにも地上絵がある。
これはイギリス・アッフィントンにあるケルト人が描いたと考えられている地上絵である。上空から見ないと何が描いてあるか分からないほど大きなもので

ケルトの地上絵
ケルトの地上絵

画像のように大きな白馬である。何の目的で書いたかは不明である。

競歩とテネシー・ウォーカー

競歩で世界新記録がでた。
普通の人が走っても敵わないような速度で「歩く」。さかさま振り子モデルでは脚が地面から離れるはずであるという速度でも「歩く」わけである。「歩き」方にこつがあるのかもしれない。
馬の世界でも速い「常歩」をする馬がいる。テネシー・ウォーカーはその一種である。四拍子の速い常歩で10~15キロメートル毎時の速度を保って長い距離を走る(?)ことができる。この常歩の速度は170~250メートル毎分であり、普通の馬の速歩の速度の領域に属する。

一年のはじめ

一年のはじめは1月1日である。
この日を一年の何処に置くかは太陽暦であっても自由である。
調べてみるとこの問題は教皇グレゴリウス13世が招集でぃた「改暦委員会」(1570)まで遡る。一年の長さを太陽の回帰年に合わせる作業の過程で、春分の日をニカエア公会議当時に合わせることも提案された。ごの日は3月21日という日付にならなければならないとしたわけである。太陽が春分点にあるときが春分の日であるから、これで太陽の動きと暦の進行とが固定されたわけである。実際の暦の移行は1582年の10月4日(カエサル暦)の翌日が10月15日(グレゴリオ暦)となることでつじつまを合わせた。
現在では1月1日は太陽暦の進行に従って365(366)日後に再び出現するが、春分の日は3月21日であったり22日であったりと動く。

庚申と馬

日本古街道探訪」の中に「中馬街道」というのがある。これは三河と信州とを結んだ馬による塩輸送の道である。そのなかに街道に沿って庚申碑が驚くほど沢山あるという指摘があり、これが馬の護り神になっていたことが分かる。
馬の護り神と言えば馬頭観音がよく知られいるが、守庚申に登場する「猿」も馬の護り神である。街道に沿って庚申塚や庚申碑が多いこともこの馬と猿とによるのかもしれない。
守庚申は庚申の日には人々が眠っている間に体の中にいる三尸虫(さんしちゅう)が天に昇りその人の罪過を天の主に告げることを防ぐために寝ないでおしゃべりをしたりする習俗であるが、この三尸虫と「申」とが結合して「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿ができた。庚申碑にはこの三猿を表現したものも多い。
一方、猿は山の神(山王)の使者である。山王は馬頭観音より古い歴史を持つ馬の神である。それで山王の使者である猿ー>三猿ー>庚申碑の図式ができあがった。これから庚申碑を馬の護り神に祈念する碑に転用することになったと思われる。

左前の胡服

古墳時代後期の古墳から沢山の馬具や乗馬の壁画が見つかっているが、当時の人たちがどうのような姿で乗馬をしたのかもわかる壁画がある。その一つが福岡県鞍手郡若宮にある竹原古墳の壁画である。馬を引く馬丁の姿が馬と共に描かれている。

竹原古墳壁画の馬と馬丁
竹原古墳壁画の馬と馬丁

筒袖の搾袖、短衣、ズボン姿の馬丁です。このスタイルは中国北方胡族のものである。しかもこの壁がでは判然としないが、左前(左えり)の上着である。左前(左えり)とは男性洋服の衿の合わせかたで左衿が前にくる。この馬丁は馬に向いているから、右腕で馬の手綱を持っていることになる。この動作では左前の方が右前より合せがはだけない。
面白いことにこの壁画でも馬の左側で馬丁は馬を引いている。