駈歩は逃げるのに最適

馬の速歩と駈歩の間の遷移についてはさまざまな説明がされているが、ここでは駈歩が非対称歩様だということに着目してみたい。
馬のような草食動物は肉食動物から逃れるために運動機能を発達させたと考えられる。逃れるためには走る速度もあるが、「旋回しやすさ」も必要になる。速度が小さいと旋回しやすいが、速度が大きくても旋回しやすい歩様がとれるとさらに生存に有利になる。非対称歩様は「旋回のしやすさ」では速歩などの対称歩様より勝っているのではないかと思う。

新田義貞の馬

1952年(昭和28年)に鎌倉市材木座から鎌倉時代末期に属していると考えられる多数の馬の骨が発掘された。
発掘された場所は鎌倉市の西南部、乱橋材木座であり、海岸より鶴岡八幡宮の鳥居に向かう参道のほぼ中央に位置している。この馬たちは同時に出土した人骨から1333年(元弘3年)5月、新田義貞の鎌倉攻めに使った軍馬であろうと考えられている。勿論北条高時側の馬も入っていろだろうが、この馬たちは当時の関東で飼育された馬たちである。詳しい骨の計測から、この馬たちの体高が推定されている。
結果は
体高は109から140cmの範囲にあり、平均は129cm(林田重幸“中世日本の馬について”(馬の文化誌・中世“馬と日本史2、496ページ)であった。130cm前後にピークがあり、今の馬からみると小型の馬が多い。軍馬は大きな馬体のものを選択したであろうことを考えると当時の馬は概して小型の馬が多かったことが分かる。
古墳時代後期に古墳から馬具や埴輪が発掘されていて、それ以前から比較するとこの時代を境に日本に馬が多くなったことがわかる。日本にそれ以前にいた馬たちではなく、大陸経由で日本にもたらされた馬たちであると考えられている。これが日本における「在来馬」の起源である。新田義貞の馬たちもこの流れにあるものだろう。
先史時代に日本に馬はいだはずで、弥生時代の馬の化石が発掘されているが、この馬の系統は古墳時代には絶滅してしまったのだろう。
明治に入り軍馬の大型化が求められて、日本の在来馬は激減してしまう。

封〆申庚

「封〆申庚」はお札である。
庚申〆封の意味で縦にさかさまに貼る。
写真は宮城県村田町の蔵がたくさんならんでいる通りの一軒「まるしょう」の奥座敷の庭側に沢山貼られていたもの一部である。この蔵は幕末・明治・大正時代に建て増しでできたものの由、お札が貼られていたのは一番古い幕末の建物である。

封〆申庚
封〆申庚

このようなお札は通りを挟んで向かいにある分家にも沢山あった。

equusとcaballus

馬はイタリア語でcavalloであるが
この言葉の起源はラテン語のcaballusだということだ。このラテン語の本当と意味は「駄馬」を意味している。本当の馬はラテン語ではequusである。
ローマ帝国の貴族は正確なラテン語のequusを使っていたが、一般兵士などはcaballusを使っていて、これがイタリア語の定着したものがcavalloだというわけである。
馬には気の毒な話である。
なお、英語のhorseは起源が不明らしく、インド・ヨーロッパ語族には対応する言葉がないとうことだ。

極限作業ロボット

今朝のニュースで4本肢の極限作業ロボット研究し新たな動きがあるとの報道があった。
この種のロボット研究では1983年から8年間の通商産業省の大型プロジェクトがあり、大きな進歩があったと評価されている(舘暲著“ロボット入門”)。しかし
「1980年代に原発内など人間が作業を行うには過酷な環境に適応する作業用ロボットの開発が進められていたが、電力会社や政府の圧力によってプロジェクトは潰された。
歴史にifはないのだが、当時に蓄積されていた技術を今日まで発展させていたならば、現在のようなお粗末な状況には成っていなかった。」
という評価もある。後者の評価はその通りである。
キャタビラや車輪でなく、4本肢のロボットだということが面白い。たぶん瓦礫などを乗り越えるにはそのほうが良いのかもしれない。理想は瓦礫を片付けながら前進するロボットであろう。

馬の“背最長筋”

“胴体の受動的な腱システムと頸部脊柱
馬は口を地上近くに持っていって頸を前傾下方に伸ばしていられる。野生の馬はこのような姿勢で毎日17から19時間もの間食料をさがす。この馬の姿勢は受動的である。その意味は草を食むために頭を下げるとき筋肉は活動的な収縮をしていないということだ。”
これは“Tug of War”からの引用である。このように馬は草を食むときに姿勢は筋肉を殆ど使わずに自分の胴体を支えることができる。人を乗せて走るためには頭頸軸を上げなければならないが、そのためには上頚部の筋肉を鍛えこの筋肉で自分の胴体と乗り手の体重を支えなければならない。
それができないうちは頭頚軸を上げさせてはならないという。
さもないと馬は背中にある“背最長筋”をつかって自分の胴体と乗り手の体重を支えようとする。そしてこの筋は緊張してしまう。“背最長筋”をリラックスさせておくことは乗馬では最も重要なことだといわれているその筋がこれで緊張してしまう。

頸を垂れて草を食む馬
頸を垂れて草を食む馬

 

馬頭観音ーなぜ馬か?

馬頭観音は密教の仏像で平安時代はヒトのための仏であったが、なぜか馬の守護神のようになってしまった。なぜ馬の格好をした仏像が作られたかについてヒントらしいことがわかったので書いてみる。

密教の中心的な仏像は大日如来であるが、この仏は古代インドにおける理想的な帝王、転輪聖王(れんりんしょうおう)を意識して製作された。その転輪聖王は世界を平和に統治するために、象、馬、法輪、法螺、宝珠などの7つの宝を備えているが、大日如来の身体にはこの宝の半数以上が描かれている(密教とマンダラ:頼富本宏著)。この宝の馬を強調した仏像が馬頭観音だと思われる。

「本山寺」の馬頭観音

四国八十八ヶ所のお遍路さんは空海の密教の行との関連があり、密教の「文化遺産」であると思われるが、その八十八ヶ所の一つ「本山寺」(もとやまじ)の本尊は馬頭観音である。
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「本山寺」の馬頭観音
「本山寺」の馬頭観音

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これは馬のための観音ではなく、ましてや競馬のためでもない。これは密教の行の一環として病気平癒、厄難の救済などを祈願するものである。
八十八ヶ所の寺の本尊は、薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音、千手観音などが多いが、本山寺のような特殊な仏像が本尊になっているところもある。毘沙門天(びしゃもんてん)を本尊とするものもある。

馬頭観音再論

馬頭観音については以前に話題にしたことがある。
馬頭観音は奈良時代の密教の経典である「陀羅尼集経」に現れる。
馬頭を顔とした観音、馬頭を頭に戴く忿怒(ふんぬ)形の観音である。大乗仏教特に密教になると十一面観音や千手観音などたくさんの機能を持った仏像は出てくる。馬頭観音のその一つである。
なぜ馬頭かという点は不明であるが、ヒンズー教の神々のなかにその起源があり、それが仏教の中に持ち込まれたのかもしれない。
しかし、この時代ではこの観音の人気がさほど高くはなかったらしく、文献のあるものの、現存する仏像もほんのわずかである。平安以降の作例のすくない。
ずっと時代は下って江戸時代あたりになると馬の守護神として民間信仰として信仰されるようになる。