ウマはホース(13):ノニウス

今回からハンガリーの馬を取り上げる。最初はノニウス(Nonius)。画像はここ

ノニウスは19世紀に広大なオーストリア・ハンガリー帝国の牧場でヨーロッパ中の騎兵の新馬を供給したときにその絶頂期に進化した。

この品種はNonius Seniorを起源としている。この馬は1810年ノルマンディー地方のカルヴァドス(Calvados)で誕生し、1813年にハンガリー人たちに獲得された。かれはNorfolk Roadsterとの半血種であったイギリス産馬、Orionとノルマンディー地方の普通の牝馬とによって誕生したものである。この品種はアラブ種、リピッツァナー、ノルマンディー、そしてイギリス馬を子孫とする牝馬とノニウスの牡ウマにまで戻れるノニウスの牡ウマとによって得られたものである。1860年代、サラブレッドの血統が導入された。今日ではノニウスはハンガリーのホルトバージとチェコのトポイシアンキーで生産されている。

ノニウスは優秀な体型で大人しい。曳きウマとしても騎乗馬としても高速ではないが、多目的で優秀なウマである。

ウマはホース(12):ラインランド

今回はドイツのライン川沿いで飼育されているラインランド(Rhinelander)を取り上げる。画像はここ

重量馬であった旧ラインランドは多くをブラバント種に負っておりラインランド、ヴェストファーレンそしてザクセン中で普通の作業ウマであった。それ以来農作業に従事することが長い間続いたので品種が曖昧になり現在ではもはや確認することが困難になった。しかし血統台帳はこの重量馬をとくにその中の軽い系統を基礎に温血種の乗用馬に移行してきた。

19世紀に騎乗または乗用を目的としたウマの生産プログラムが設定された。それらのウマはサラブレッド、トラケナーそしてハノーバーそれとはっきり確認できないが旧ラインランドからなるハノーファー・ヴェストファーレン地区内の牡ウマを父親とした。現生のラインランドは混血から誕生した選択された半結種の牡ウマたちを基礎に生産されている。

 

ウマはホース(11):ヴュルテンベルク

今回のウマもドイツとウマであるヴュルテンベルク(Wurttemburg)である。画像はここにある。

ヴュルテンベルクはドイツの古典的な温血種の一つで、マールバッハにあったドイツ最古の国営馬産牧場で一世紀以上に亘って系統的に馬産が行われてきた。この牧場は1573年にクリストフ・フォン・ヴュルテンベルク(ヴュルテンベルク公国の君主)により創設され、十九世紀の初めにはウマの全頭数は81,000を越えた。

ヴュルテンベルクは腹帯に沿って深い溝があるがっちりとした乗用馬である。強靭な脚、華麗な動き、欠陥のない体型は特筆すべきこがらである。逞しい馬であるが、長寿で飼育にはことの他経済的である。

ポルシェのエンブレムにはこの馬が描かれている。

ウマはホース(10):ハノーヴァー

今回のホースはハノーヴァー(Hanoverian)である。画像はここ

障害飛越や馬場馬術の競技においてドイツの競技馬の先頭にあるのがハノーヴァーである。

選択的な馬産はジョージ二世のとき1735年に始まった。ハノーヴァー選帝侯とこのイギリス国王はツェレ(Celle)馬産牧場を創設した。最初、農耕の多目的なウマとして14頭のホルスタインの牡ウマたちと地元の牝馬のとの交配が進められた。その後品種改良のためサラブレッドとの交配が行われた。

第二次世界大戦後には馬産の目標が競技馬の生産に向けられるなり、トラケナーやサラブレッドとの交配が、注意深く進められた。

厳格な選択基準の結果、抜群に力強く、動きの正確なウマたちであり、優秀な気質の持主である。

ウマはホース(9):ヴィエルコポルスキ

ヴィエルコポルスキ(Wielkopolski)はポーランドの中央部および西部に嘗ていたもっと古い温血種であるPoznanとMasurenを引き継いでいる。これは実用的で経済的であるようにそして幾分はアラブ種の血統に依存するようにとしたポーランドの馬産の伝統である。

約150年前に国営の馬産牧場で確立したPoznanはアラブ種、サラブレッド種そしてハノーヴァー種の混合で、後にはトラケナーの交配をも進んだ。マズーリ地方で飼育されたMasurenは事実上トラケナー種を祖先としていた。この二つの血統がヴィエルコポルスキで結合され、サラブレッド種、アラブ種そしてアングロ・アラブ種との交配が進められた。

ヴィエルコポルスキは強力で曳きウマとしても乗用馬としても優秀な馬である。活動的で素直な性格からこのウマの重い方は農耕馬として用いられた。華麗なヴィエルコポルスキはその歩様(pace)に特筆されるものがある。即ち、長くゆっくりとした常歩、揺れのすくない速歩、そして歩幅の大きい駈歩と襲歩。

 

乗馬の起源(5)

北方カザフスタンステップの狩猟民たちはウマの群れ全体を誘導し捕獲し、それらの死骸を新しく建設された共同居住地まで運ぶ能力を持っていることを初めて示した。騎乗の習慣の採用がこれらの変化をもたらしたという以外の説明は存在しない。
ボタイやKazhai 1におけるウマの管理と乗馬の主張は二つの異なった遺跡から得られたボタイ・Tersek出土の7本のウマのP_2上のハミによる磨耗痕の存在、死骸輸送方法と解体作業、ウマの糞で満たされた地層の発見、1:1性比、そして乗馬の習慣と一致した経済や居住地の変化を基礎にしている。
乗馬の習慣に反する主張は肢の骨の厚さのばらつきが小さいこと、馬の脊柱の少ないサンプルで乗馬に関連する病理学的な証拠がないことを基礎にしている。後者はボタイのウマの骨の75-90パーセントを占める狩猟で得た野生ウマのものであろうと思われる。

紀元前3700-3500年ごろ北方カザフスタンでウマがハミをされ騎乗され始めたとうことがかなり確実なことだ。

アイスランドの暦法

12世紀にジュリアン歴が導入される以前にアイルランドは独特の暦法を持っていた。

<星のオッド>と仇名がある農奴の歴研究から、一年を52週とするもので一年が364日であった。10世紀になると、この一年では短すぎるので、7年ごとに夏に閏週を1つ入れた暦法である。

「サガとエッタの世界ーアイスランドの歴史と文化」(山室静著)より。

乗馬の起源(4)

馬に関するもう一つの議論は性比1:1の野生ウマの集団の畜刹は一頭の牡ウマが率いるハレム全体そして独身ウマの集団の双方を一掃することでのみ達成できる点で、これらの社会集団は野生では遠く離れて存在するのが一般的であることである。
もしも一頭の牡ウマが率いるハレム全体が罠に掛かったのであれば、牡に対する雌の比は2:1以上になるであろう。群れとして行動している独身群れとハレム群れの双方を捕獲する唯一の方法は非常に広い領域を隈なく探し全ての野生ウマを一掃することだ。こんなことは徒歩では不可能である。