製紙技術の東から西への伝播

紙は中国で漢の時代に発明された。

これがトルコやヨーロッパに伝播したのは唐の時代(西暦700年ごろ)であったという。そのころ唐の版図は西へ大きく伸び、キルギスあった小勃律国なども唐へ進貢していた。

この小勃律国が唐に叛いたので唐の軍隊が遠征した(西暦750年ごろ)。小勃律国は当時西方で大勢力であったアラブのアッパーズ朝に救援を求めた。結果的には、唐軍の中にいたトルコ系の部族がアッパーズ朝に寝返ったので唐軍は負けた。

面白いことに、アラブ軍の捕虜となった唐軍兵士の中に、紙漉き工がいて、製紙技術を西方へ伝えた。これがきっかけで紙は西方に伝播した。

小説十八史略」(陳舜臣)より。

 

太宗李世民(りせいみん)の貞観(じょうかん)の時代

唐の第二代皇帝、太宗李世民(りせいみん)が在位した二十三年間を貞観(じょうかん)の時代という。貞観元年は西暦626年にあたる。

この貞観年間は中国史上で最も政治のよかった時期といわれている。

ー海内(かいだい=天下)升平(しょうへい=太平)、路、遣(お)ちたるを拾わず、外戸、閉ざさず、商旅(しょうろ)は野宿す。

小説十八史略」(陳舜臣)より。

 

髀肉(ひにく)の歎

この成句は三国志の劉備が荊州の劉表のところに寄食しているときに言った言葉から出ている。この言葉は:

「これまで私は馬に乗って戦場をかけめぐる生活を続けておりました。ですから股(もも)は鞍を離れることがなく、そのためいつもひきしまっていたのです。ところがどうでしょう、荊州に来てから軍馬にまたがる機会がなく、脾肉(内股の肉)がすっかりついてしまいました。…..」

と、功名をあげる機会がないことを歎いた。

小説十八史略」(陳舜臣)より。

 

「烏合の衆」と「井のなかの蛙(かわず)」

これらの二つの言葉は後漢の光武帝の時代(紀元100年ごろ)に初めて使われた。

「烏合の衆」は和戎群の太守であったひとうという人が言った言葉が最初だという。

「井のなかの蛙(かわず)」は隗轟(かいごう)軍閥の部下の馬援(ばえん)が初めて使った成句。

小説十八史略」(陳舜臣)より。

 

 

 

司馬遷(しばせん)の偉大さ

これも「小説十八史略」(陳舜臣)で語られている話である:

漢の武帝の時代(紀元前100年ごろ)の宮廷の記録係り(太史令)である父、司馬談の後を継いだ司馬遷は太史令となった八年目に皇帝の前に召しだされて李陵(りりょう)の敗戦について意見を求められた。

この李陵は将軍で、李広利(りこうり)将軍とともに匈奴に対して軍事行動を展開した。この李広利将軍は武帝の皇后の兄でそのことで将軍に任命された人物であった。李広利は三万の軍を率いたが、李陵はたった五千の兵を率いて囮部隊の役割を果した。案の定匈奴は八万騎でこの囮部隊に襲い掛かった。この戦いで李陵は善戦したが捕虜になった。しかし囮部隊としての任務は十二分に果たした。

司馬遷はこの李陵の敗戦について意見を求められた。

「このたびの戦い、ひとり李陵のみが孤軍奮闘せしことを、ご明察ねがいあげます。」これが司馬遷の結論であった。

これに対して李広利将軍を評価しない意見だとして怒った武帝は司馬遷を酷い刑罰(宮刑)にかけた。これは司馬遷にとっては死にもあたいする刑罰であった。

司馬遷はこの酷い境遇の中で中国の歴史を書いた。これが「史記」である。百三十編、五十二万六千五百文字の大著である。

それにしても時の権力者は酷いことをするものだ。

 

 

元号の起源について

小説十八史略」(陳舜臣)に以下のような記述がある:

「文帝の十六年(紀元前164年)に、瑞兆ともいうべき玉杯が発見された。その玉杯には『人王延寿』というめでたい文字が彫られていた。宮廷に出入りしていた、いかさま占い師の新恒平というものが、すこし前から
ー瑞兆の玉器が近くあらわれるでしょう。
と、予言していたのである。
はたして、めでたい玉杯があらわれたので、それを記念して、文帝は
ー来年から後元(こうげん)と改元しよう。
といったのである」

これが元号の第一号である。

しかもこの話には付録が付く。実はこの玉杯はいかさまであることが判明し、新恒平は処刑される。いまさらまた改元もできないのでこの元号を使い続けた、という。
「元号は誕生のときから、いささか胡散臭いものだったのである。」と著者は結んでいる。

青竜・朱雀・白虎・玄武

中国では黄色が最も貴い色とされていて中心にくる。これは黄河の色かな?

それを囲んで四つ色がある。方向にもあてられ、その守護神獣が決まっている。それが表題の青竜(せいりゅう)・朱雀(しゅじゃく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)である。

青は東で、季節は春、神は青竜

赤は南で、季節は夏、神は朱雀

白は西で、季節は秋、神は白虎

黒は北で、季節は冬、神は玄武

となる。

青春はこの「青は東で、季節は春、神は青竜」から来ている。

磋呼、燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや

秦の終わりころの陳勝(ちんしょう)の名文句である。

またかれは

「王候将相(おうこうしょうそう)、なんぞ種(しゅ)あらんや」

つまり権力の中枢にある人々は生まれながらにそれになる人種が決まっているわけではないぞ、という意味。

小説十八史略」(陳舜臣)から。

また同じ「陳勝呉広」の節に

「星々の火、以(もつ)て原を燎(や)く可(べ)し」という」という興味ある諺が載っていた。

 

馬子草(まごそ)温泉

阿蘇付近の馬子唄を調べていたら、面白い名前の温泉に出会った。

名前も面白いが温泉の質もいいらしい。

こんな説明があった:

飯田高原の中央にある馬子草(まごそ)温泉は、加温・加水をしていない源泉掛け流しの温泉です。黄色のにごり湯で、肌がしっとりするくらいやわらかなお湯は皮膚病、火傷、関節痛などに効果があり、飲用することで糖尿病や肝臓病、胃腸にも効くと言われています。泉質のよさはもちろん、くじゅう連山をパノラマで見ることができる露天風呂の景色が最大の魅力。広々した湯船からは、硫黄山のモクモクと立ち上がる白い煙や、青々した草が広がる高原が望めます。

菅原道真と屈原

この二人には共通点がおおい。歌人や詩人であったが当時の政治に深く関与し、二人とも政治的に対立する勢力の陰謀によって左遷・追放された。しかも亡くなった後に怨霊になった点も共通している。菅原道真はその怨霊を鎮めるために天満宮にまつられ、屈原が自殺した五月五日にはその死を悼んで人々は竹筒に米を入れて水に流した。

屈原は中国戦国時代(起源前300年ごろ)の人であり、菅原道真は十世紀の人であり、千年以上も離れているがひとは同じようなことを繰り返すものだ。