ハヤブサの見分ける速さ:人間の2倍以上

今朝の新聞によれば

スウェーデンのルンド大学の研究者たちはハヤブサの見分ける速さを測定し、そればヒトの二倍以上であることを見出した。

光源を点滅させる測定をする。ヒトでは毎秒50-60回以上の点滅であると、この光源は点滅ではなく常時点灯しているように感じる。これがヒトの限界である。だから映画は毎秒60コマの静止画を観客に見せて動画として感じさせている。ハヤブサの実験ではこの限界が毎秒120回の点滅以上にならないと常時点灯とは感じないという結果になった。

動体視力というものがある。ピッチャーの投げたボールが「止まって見える」という表現で動体視力が話題になるが、これは視覚の空間分解能と時間分解能による。空間分解能が同じであると時間分解能が高いと速いボールでもコマ切れ(静止画)のように見えるわけである。

ハヤブサは鳥などを捕獲するとき毎時300キロメートルもの速度で追跡するそうでこの動体視力が物を言うのである。

ウマはホース(26):バルブ

今回は(北)アフリカのウマをみる。最初はバルブ(Barb)種で、画像はここ

バルブ種はアラブ種に続いて世界の馬の品種の基礎になった馬である。この品種はサラブレッドの基礎になっている。

この品種は北アフリカのモロッコが原産地である。この品種は氷河期を乗り切って野生ウマの集団を形成したと考えられている。どうだとすると、この品種はアラブ種より古いこのになる。ある時点でアラブ種のいくらかを血がはいったが体型はアラブ種の典型から引き継いだものはなにもない。近年伝統的なバルブ種、つまりイスラムのヨーロッパに進出にたいして大きな役割を果たしたベルベル人の騎兵が乗った馬に関する検討が進められた。元来のバルブ種の起源は不明な点があるが、バルブ種とアラブ種にははっきりとした違いがある。

 

ウマはホース(25):ルシターノ

今回はポルトガルの馬であるルシターノ(Lusitano)の取り上げる。ルシターノも画像はここをみてほしい。

ルシターノは最高級の騎乗馬と同時に観閲用の馬車馬としても特筆され、かつてはポルトガル騎兵の騎乗馬であった。この馬はポルトガルの闘牛士たちに最も好まれた馬であり、この役割のため、Haute Ecoleの上級運動コースで訓練された。近年ではイベリア半島だけでなく、多くの愛好者がいる。

この品種はスペインのアンダルシアンのポルトガル版と言ってよい馬である。

 

 

ウマはホース(24):アンダルシアン

久ぶりに馬の話。

スペインの南に位置するアンダルシア地方の馬であるアンダルシアン

現生のアンダルシアンはアラブ馬やバーブ馬と並んで世界の馬の品種に絶大な影響を与えたスペイン馬の後裔である。十九世紀までスペイン馬はヨーロッパ中で第一級の馬であり、ルネッサンスの乗馬学校の古典馬術がその基礎とした馬であった。ウイーンのスペイン乗馬学校はそこで使われていたスペイン馬に因んで付けられ、有名な葦毛のリピッツァナーは十六世紀にスペインからスロベニアのリピカに輸入されたスペイン馬から直接に引き出されたものである。

アンダルシアンの生産はヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、コルドバ、セビリアが中心で、そこではカソリック修道僧たちによって生産が継続されていた。スペイン馬は野生種のターパンとの関連でポルトガルのソーライアと北アフリカから侵攻してきた部族たちが持ち込んだバーブ馬との混血かもしれない。

アンダルシアンは雄姿の馬である。速い馬ではないが、素早く動き運動能力は高い。鷹のようなスタイルの優雅な頭部で、たてがみや尾の毛は長くときとしてウエーブしている。

 

 

宋の太祖趙匡胤(ちょうきょういん)の「石刻遺訓」

小説十八史略」(陳舜臣)の中で著者は宋の太祖趙匡胤を大変に褒めている。

この趙匡胤は生粋の軍人であるが、国家の基本に文治主義を貫いたからだ。かれは子孫のため遺訓を石に刻み、禁中の最も奥の皇帝しか入れないところに置き、新帝が即位するとこの遺訓を読むことを重要な儀式とした。この遺訓は三百年も続いた宋王朝の基本姿勢となった。

この「石刻遺訓」には何が書かれていたのか?

一 宋に国を譲った後周王室柴(さい)氏を子々孫々にわたって面倒をみること。

ー 士太夫を言論を理由として殺してはならぬこと。

これが遺訓の内容であった。

第一の遺訓のお陰で三百年の宋王朝の期間柴氏は宋王朝の賓客の扱いを受けた。第二は「言論の自由」を保障したことである。

一将功成って万骨枯(か)る

「己亥(きがい)の歳(とし)」という七言絶句の最後の七言である。作者は曹松(そうしょう)である。反戦の歌である。唐の滅亡が迫り、黄巣(こうそう)の反乱軍が長安に侵攻した時代である。「己亥(きがい)の歳(とし)」は乾符六年(西暦879年)に当たる。

七言絶句の全文は:

沢国江山入戦図
生民何計楽樵蘇
憑君莫話封侯事
一将功成万骨枯

沢国の江山、戦図に入る
生民、何の計ありてか樵蘇を楽しまん
君に憑る、話す莫れ封侯の事
一将、功成って万骨枯る

 

小説十八史略」(陳舜臣)より。

 

 

阿倍仲麻呂と鑑真和上

中国の歴史のなかで唐あたりになると日本に馴染みな名前が現れる。

あまのはら ふりさけみれば春日なる
三笠の山に出でし月かも

これは百人一首にある阿倍仲麻呂の歌である。これは唐の時代に黄泗浦(こうしほ)(揚子江河口の南岸の港)で創った望郷の歌である。かれは遣唐使として唐に来て、その才能を認められ二十六年間も唐の玄宗に仕え、ようやく帰国の機会を得た。そのときの歌である。遣唐使一行と帰国の予定であった。帰国船は四艘からなり、かれは第一船に乗った。この船団の第二船に乗ったのが鑑真和上であった。かれは五度も船が遭難して日本に辿りつけずにいて、これが最後のチャンスであった。

第二船は無事に日本に着いたが、残念なことに第一船は遭難し北ベトナムへ押し戻られてしまった。阿倍仲麻呂は苦難のすえ長安に戻ったが、彼が死んだとおもった友人の杜甫は「晁卿衡(仲麻呂のこと)を哭す」という挽歌を創った。

小説十八史略」(陳舜臣)より。

 

製紙技術の東から西への伝播

紙は中国で漢の時代に発明された。

これがトルコやヨーロッパに伝播したのは唐の時代(西暦700年ごろ)であったという。そのころ唐の版図は西へ大きく伸び、キルギスあった小勃律国なども唐へ進貢していた。

この小勃律国が唐に叛いたので唐の軍隊が遠征した(西暦750年ごろ)。小勃律国は当時西方で大勢力であったアラブのアッパーズ朝に救援を求めた。結果的には、唐軍の中にいたトルコ系の部族がアッパーズ朝に寝返ったので唐軍は負けた。

面白いことに、アラブ軍の捕虜となった唐軍兵士の中に、紙漉き工がいて、製紙技術を西方へ伝えた。これがきっかけで紙は西方に伝播した。

小説十八史略」(陳舜臣)より。