極限作業ロボット

今朝のニュースで4本肢の極限作業ロボット研究し新たな動きがあるとの報道があった。
この種のロボット研究では1983年から8年間の通商産業省の大型プロジェクトがあり、大きな進歩があったと評価されている(舘暲著“ロボット入門”)。しかし
「1980年代に原発内など人間が作業を行うには過酷な環境に適応する作業用ロボットの開発が進められていたが、電力会社や政府の圧力によってプロジェクトは潰された。
歴史にifはないのだが、当時に蓄積されていた技術を今日まで発展させていたならば、現在のようなお粗末な状況には成っていなかった。」
という評価もある。後者の評価はその通りである。
キャタビラや車輪でなく、4本肢のロボットだということが面白い。たぶん瓦礫などを乗り越えるにはそのほうが良いのかもしれない。理想は瓦礫を片付けながら前進するロボットであろう。

馬連(ばれん)

正月休みに天童市にある「広重美術館」に行ってみた。
最上藩の財政難の時期に広重に浮世絵を描いてもらいそれを債券の替わりに商人から金を借りたという話である。
今回の展示は百人一首と歌舞伎の場面を合わせた刷り物で歌舞伎の名場面に百人一首が添えられていた。これ自体が面白かったが、版画の制作過程のコーナにバレンがあった。それには漢字で「馬連」とあり、さては馬の何か似ていることに由来するものかなとおもった。
形が馬の蹄に似ていることから、それを何回も押しつけて印刷する意味から「馬連」だとか想像してみた。しかし、「馬連」は単なる当て字らしい。
因みに「馬連」は英語でもbarenである。

日本に神々がいた時代

窪徳忠著「道教の神々」を読んでいると道教では実に様々な神が登場してきる。その多くが現在でも民間信仰の対象になっている。その数は三百種類に達すると言われている。一方、日本の歴史に中で登場する神々の数を数えた人がいる。それによれば日本の神々は、地域の神、農業関係の神、山の神、漁の神など二十五項目、四百十二種もあるという。
不思議なのは今に生きるわれわれはその多くを知らないことだ。近くの神社があってもその神社にどんな神々が祭られているか殆ど気にしない。

軍馬の慰霊碑

以前にこのブログで「戦争に征った馬たち」を紹介した。
仙台市博物館の手前の広場にも軍馬の慰霊碑がある。
碑文には
「昭和6年9月18日以降無言ノ戰士トシテ満洲事変變ニ参加セシ第2師團下諸部隊戰病死馬87頭ノ霊ヲ合祀ス」とある。

軍馬碑
軍馬碑

ラクダ(camel)の速歩

新聞にラクダの競走の記事があった。
ラクダはどんな歩様(gait)で走るのか興味があったので調べてみた。
基本的な歩様(gait)は側対歩(pace)である。左の前肢と後肢を同時に動かし、次に右の前肢と後肢を動かす。二拍子であるので速歩であるが、馬などの斜対歩(trot)とは対照的である。速度は670メートル毎分と馬の速歩(220メートル毎分)よりずっと速い。この値は馬の駈歩(330メートル毎分)よりも速い。持久力もかなりあって15~20時間かけて150kmもの距離を移動できる。

エマは絵馬?

柳田国男に「絵馬と馬」という文章がある。
そこではエマは絵馬であるということに疑問を呈している。「エマを絵馬」としているは、本物の馬を差し上げることの代わりに絵馬(板に書いた馬)を供するようになったとする説で、これに対する疑問である。エマは絵馬よりもっと広い意味と長い歴史を持っているということだ。馬でないエマは沢山ある。例として目薬屋の看板と共通の御薬師堂の眼の額、ひらがなの「め」の字を左右から八つものなどがある。
また西洋でもカトリックの古い寺院にも蝋細工でできた手や乳房など奉納してる。これらは神に献上したわけではなく、病気平癒の祈願である。
エマは絵馬より広い歴史を持ち、広い意味を持つ画板である。
写真の蛸薬師のエマは蛸の絵柄である。

長町・蛸薬師
長町・蛸薬師

義理と人情

年末の歌舞伎「義経千本桜」の三代目「すしや」をテレビで観た。

江戸の庶民は義理と人情の狭間で苦労するといった歌舞伎の場面に自分のことのように涙した。

それを最もよく表現した歌舞伎が「菅原伝授手習鑑」(すがわらでんじゅてならいかがみ)の四段目「寺子屋」であろう。

あらすじはこうだ:
菅原道真の旧臣武部源蔵(だけべげんぞう)夫婦は寺子屋を開いて主君の一子秀才(しゅうさい)をかくまっているが、ついに敵方の平時平方の露見しその首を打たなければならなくなった。たまたまその日に入門した小太郎という子を身代わりに首を打ったがその首実験にきた松王は確かにと鑑定して帰る。喜ぶ夫婦の前に小太郎の母千代が戻って「お役に立ててくださったか」と言い驚く源蔵夫婦の前に再び松王が訪れ、小太郎は自分の子であり管丞相(かんしょうじょう)への報恩のため身代わりに差し出したと本心を語り深い悲しみをみせる。

 

 

原田甲斐供養会

原田甲斐の供養会が9日に営まれた(河北新報12日夕刊)。「寛文事件」で最も謎に満ちた人物が原田甲斐(はらだかい)である。伊達安芸の居城である涌谷では、原田甲斐は反対派の伊達兵部の一味ということになっている。
小説「樅の木は残った」(山本周五郎箸)、「虹の刺客」(森村誠一著)では、酒井雅楽頭(うたのかみ)の兵部を取り込んだ伊達家取り潰しの策動を察知した原田甲斐は、伊達安芸のように伊達家が兵部によって藩政が壟断されていることを幕府に訴えることで幕府介入のきっかけを与えてしまうことを心配していた。そこで「なにも無かった」ことで事態を収拾しようとした。刃傷事件のあった酒井邸で居合わせた伊達藩の重臣を原田甲斐は斬り殺して沈黙させてしまう。原田甲斐自身も駆けつけたものたちによって殺されてしまう。生き残ったのは古内志摩(ふるうちしま)唯一人である。かれは、この刃傷事件にはなぜか沈黙している。
伊達安芸はこの事件では正義派ということなるが、原田家は大悪人としてお家断絶となる。真実は分からないが歴史に埋もれさせるのには惜しい人物である。
供養会はいつもは命日の4月に行われるが震災の影響で7月になった。場所は「荘厳寺」。ここには原田邸にあった山門(逆さ門)が移設されて原田家とは縁が深いことからだと説明があった。原田邸は現在の高等裁判所の敷地である。

春・夏・秋・冬

現在の日本では一年を春・夏・秋・冬の季節に分ける。何時からいつまでを「春」というのだろうか?これが今日のテーマである。
江戸時代の太陽太陰暦では、天体の月の満ち欠けに合うように「月」の初めとその長さが決められたが、太陽の動きにも合わせるようにした。そのため、「二十四節気」という太陽の動きに基づく節目を太陰暦に導入した。「二十四節気」は
立春(りっしゅん)
春分(しゅんぶん)
立夏(りっか)
夏至(げし)
立秋(りっしゅう)
秋分(しょうぶん)
立冬(りっとう)
冬至(とうじ)
など太陽の動きによる節目である。例えば、冬至は一年の内で南中の太陽の高度が最も低くなる日であるし、逆に、夏至では高度が最も高く日である。
二十四節気では、各「立」と「分」の間に二つの節が入る。
たとえば立春と春分の間には
雨水(うすい)
啓蟄(けいちつ)
の二つの節がはいる。このようにして6X4=24になる。
日本の春・夏・秋・冬はこの二十四節気を基に決められる。すなわち
春:立春から立夏まで
夏:立夏から立秋まで
秋:立秋から立冬まで
冬:立冬から立春まで
となる。立春は二月上旬であるので、実感の季節感からすると、この季節区分は少し前倒しである。だから、「暦の上では、春ですが…」となる。立秋は八月上旬であるので、この事情は秋も同じである。二十四節気は中国起源であるのでもっと緯度の高い北京あたりの季節に対応したものであるという説があるが、秋については、妥当であるが、春は逆センスになる。
僕はこれを以下のように考える。
そもそも天体の運行に基づく暦を作ろうとした文明には四季折々の風物から季節をはかる自然暦の環境が無かった。だから、「立春」などの節も単に観念的なものであったと思う。 ところが、それを輸入した日本には、以前から自然暦の長い伝統があった(本居宣長「真暦考」)。そこで輸入した暦に自然暦の対応をせざるを得なくなった。そこで上のような季節を配当した。これが僕の説である。
因みに西欧では
春:春分から夏至まで
夏:夏至から秋分まで
秋:秋分から冬至まで
冬:冬至から春分まで
となる。こちらの方が日本の季節感にマッチする季節区分である。