馬頭観音と蒼前(そうぜん)駒形明神

馬頭観音と蒼前(そうぜん)駒形明神の双方とも今では馬の守り神とされているが。

馬頭観音は馬の頭部を頭に頂く観音であり、十一面観音や千手観音などと同じ密教の異形の観音の一つである。「陀羅尼経集」なかにも説いている観音で奈良時代ごろにはわが国に知られるようになったといわれている。この観音像の作例はすくなく本来は馬の守り神という特殊な性格は持っていなかったが、近世になるとなぜか馬の守り神と思われるようになった。

一方、蒼前(そうぜん)駒形明神は「蒼前さん」とも呼ばれ、特に馬産が盛んであった東北地方で信仰を集めた馬の守り神である。起源ははっきりしないが、遅くとも中世にはあったようである。

例えば遠野地方の蒼前さんについて、郷土史家の菊地幹氏は以下のように書いている:

「これは馬の安全を祈ることから生まれた信仰で、旧正月十六日と旧四月八日の例祭日には近郊近在はもちろん遠くの村々から馬産を志す人々でにぎわった。…. 参拝者は社務所でお守りの笹の葉をいただき帰路についた。まさに人と馬と神とをつなぐ祭りであった。」

この馬を曳いて蒼前さんに参拝する様子が「チャグチャグ馬っこ」の原型である。

 

「あそび」と法律

裁判というのは法廷という日常から離れた特別な空間で、法服と鬘まで着けた法官が登場する。これらは「あそび」の形式的な特徴である。

ギリシア人のあいだでは法廷での両派の抗争は一種の「討論」とみなされていた。厳しい規則に従いながら抗争する二派が審判者の裁きを要求する闘争であった。訴訟は競技であった。

訴訟における正邪より、原始的な法意識の奥深くに遡ってゆくほどに勝利の期待という要素が強くなる。「あそび」の要素が前面にでてくる。

ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」より

 

「あそび」と文化の関係

ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」は言う:

「『あそび』から文化になる」ではない。
「文化の中に遊ぶという行為の席があった」ということでもない。
「『あそび』から文化へという発展過程がある」ということでもない。

著者は

「文化は『あそび』の形式のなかに成立したこと。文化は原初から遊ばれるものであった」

と主張する。

「原始人の共同体の生活に、動物より価値の高い、単なる生物的なものを越えた特性を保たせていたもの、それがさまざまな形態のあそびである。このあそびのなかで、共同体は生活と世界についてのかれらの解釈を表現した。

文化とはただわれわれの歴史的判断が、この与えられたものに対して名づけた名称でしかない」

「あそび」と闘争

ルールのある闘争、例えば刀を使った真剣勝負もまた「あそび」の範疇に入る。「槍のあそび(asc-plega)」などの詩的比喩で「あそび」ということばを使うことがあるが、武器による真剣勝負もそこにルールがある限り「あそび」である。

楽器を演奏する、たとえばピアノを弾く(play the piano)は英語では「あそぶ」と同じplayである。そうだ、楽器を演奏するのは「あそび」なのである。面白いことに、歌を歌う(sing a song)はplayとは言わない。「道具を使う」かどうかということかもしれない。日本には「演歌」というものがある。play with the voiceかな?

ーホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」を読みながら

津軽半島三厩村(みんまやむら)

この面白い名前の村は津軽半島の先端、龍飛岬にあった。「あった」というのは現在ではない。合併でこの村名は消滅した。

三厩村(みんまやむら)は三つの厩(うまや)と書くが、義経伝説に由来する。東北へと逃れた源義経が岩窟にいた3頭の駿馬を得て北海道へ渡ったという伝説である。ここには義経寺もある。

「あそび」における神聖な真面目さ

「あそび」と真面目の対比を一つの絶対的なものと見なす習慣をわれわれは持っている。

しかし

子どもは完全な真面目さーこれは神聖な真面目さといってよいーの中で遊んでいる。スポーツマンも献身的な真面目さと感激の熱情に溢れてプレーする。このように「あそび」と真面目さの対比は絶対的なものではない。

この考えは祭祀を執り行っている司祭までやはり一種の「あそび」をしている人間という考えかたに繋がる。

考えてもみよ

「あそび」の形式的特徴のなかで日常生活から空間的に分離されているということが最も大事だと指摘した。これは祭祀でも然りである。薬師堂の火渡り神事における「結界」という神事は正にそこの場を特殊な聖なる場とみなすことである。この形式的な一致は「あそび」と祭祀の精神的な領域にまで拡張できる。

しかし

本当の「あそび」は「本当らしく見せかけて、そのふりをしてやっているだけなのだ」という意識が深いところにある。

この特徴も祭祀にはある。

ーホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」より

過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ

これがウンベルト¥エーコ著「薔薇の名前」の最後の語句である。

薔薇は花弁が五枚のことから五芒星(ごぼうせい)に関連付けられ、金星の象徴とされている。そこから発展して太陽神信仰、小宇宙と大宇宙の対応といったキリスト教から見ると異教的なものである。

「過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」