吉宗と洋馬

江戸幕府の八代将軍の吉宗は西洋の文物に強い興味を持っていた。西洋の天体観測装置を吹上御殿に持ちこんで自ら観測めいたことをしたりしている。
馬についても日本の馬ばかりでなく西洋の馬についても強い興味をもっていた。もともと乗馬についても熱心で、「厩の徒をして越谷の駅におもむかしめ馬力を試みらる、朝鮮あるいは唐産の馬に乗りし者いちはやく帰りしかば、吹上の御園にて其馬を御覧ぜらる」(享保五年四月)などの記事からその様子が分かる。
だから、オランダ人が長崎の出島から江戸に赴き登城の機会が有ると早速に甲比丹(カピタン)に西洋の馬の様子を聞き、「本国のは大馬ありやこれを我が国に牽き渡ること出来ずや」などと洋馬の輸入の可能性も尋問してる。甲比丹は本国は遠いので無理だと答えているが、蘭人の献上品の「馬具一具」などの記載がある。
また、和蘭甲比丹ヂォダチ(Diodati)が江戸に登った時(1721年)には、恒例の登城の外に特別に召し出されて吹上馬場で馬乗を命ぜられた。甲比丹に随伴してきたヘンドリク・ライクマン(Hendric Raijkman)が馬を乗り回し、又騎乗で拳銃を撃ってみせたりした。そのとき吉宗は観客のなかにこっそりいたという。
幕府は馬を実際に注文したのは享保七年(1722)である。出した注文は
一.地より鞍下まで四尺五寸(約135cm)より六寸(138cm)までの男馬三匹
一.右同尺の女馬二匹
今の基準では馬の体高は地上より「き甲」までの長さとなっていて、この長さが147cm以下はポニーである。「鞍下」と「き甲」が同じものであるとこの注文した馬はポニーとなる。もしかしたら「鞍下」とは馬の背で弓なりなっている最も地上に近いところなのかもしれない。この「鞍下」と「き甲」までの距離はどのくらいあろのだろうか?
この注文の馬は享保十年に蘭船二艘で渡来して馬五頭を持ちきたることになる。
このように吉宗によって洋馬の輸入が試みられる。その後に招来された馬を箇条書きすると:
享保10年(1725)オランダ馬 五頭(牡)
同 11年      オランダ馬 五頭(牡三、牝二)
同 12年      ペルシャ馬 二頭 (牡)
同 14年      ペルシャ馬 二頭 (牡)
同 15年      ペルシャ馬 二頭(牡1、牝一)
同 19年      ペルシャ馬 六頭 (牡)
同 20年      ペルシャ馬 二頭 (?)
元文 元年(1736)ペルシャ馬 三頭(牡二、牝一)
同  2年      ペルシャ馬 二頭(牡)
となる(荒居英次箸「徳川吉宗の洋牛馬輸入とその影響」(馬の文化叢書第四巻))。オランダ馬とは北ドイツあたりのOldenburg種あたりか、ペルシャ馬というのはアラビア種(Arabian)と同じかと思う。十二年間で二七頭の馬が輸入されたことになる。この後は吉宗の隠居もあり、輸入はないようだ。
輸入された馬は房州嶺岡牧などの幕府直轄の牧において、軍馬の改良に用いられることになる。

木曽地方の馬

木曽馬は小型ではあるが、粗食に耐え、忍耐強く従順であるといった性質を持っているので農耕馬として高く評価されてたが、どのようにしてこの木曽馬の産馬が隆盛になったのだろう。
木曽といえば「木曽義仲」だ。平家打倒の一勢力として名を馳せた彼の背景は当時木曽にあった在地勢力である。このころから木曽の馬は軍馬として活躍したと思われるが、どのようにして産馬が組織化されていたかは不明なようである。
近世に入るとかなりこの様子がわかってくる。生駒勘七箸「近世における木曽の毛附馬制度と木曽馬の生産」(馬の文花誌「近世:馬と日本史3」第四巻)によれば、慶長十三年(1608)に木曽代官山村良勝によって出された触れの中に「毛付の物成」とよばれる制度があったことがわかる。これは米租に替わって馬を貢租とする制度で、木曽三十ヶ村の内二十ヶ村に対して出されたもので、木曽の広範囲で馬産が盛んであったことを示すものである。
この木曽の代官であった山村氏は江戸時代になっても木曽福島に居館を構え木曽を支配した。また、元和元年(1615)に木曽が尾張藩領となってもそのまま尾張藩の木曽代官を続けた。南部藩から良馬30頭を木曽に入れるなどぼ初期投資をしているが、この山村氏は木曽の馬を独占的に支配した。
例えば、「毛付の物成」では、当才馬(今年生まれの牡馬)を自由に売買することを厳禁し、毎年七月上旬の半夏生の日に二歳馬を木曽福島の代官所へ集めて検査し、良馬200から300頭を選び、村へひき帰らせもう一年飼育させ、翌年その三歳駒を再検査し、そのなかから良馬20から30頭を貢租として召し上げた。残りの馬は、たてがみを切り、印札をわたして自由売買をゆるした。
この山村氏は馬市を主催して馬産の興隆に貢献したが、商業活動に対して冥加金をかけるなどしてこの面でも領民を収奪した。
明治9年の資料によれば木曽馬の飼育頭数は九千頭に達する。

南部地方の馬

源頼朝の奥州支配に伴って牧場経営経験者が南部地方の支配者として投入された結果この地方の馬の生産は飛躍的に増大したと思われるが、実際の経営形態はどのようなものであったのだろうか。

この疑問に対して森嘉兵衛著「南部の馬」(馬の文化叢書第四巻)によれば、以下のようである。 産馬(特に軍用の馬)の経営に当たった南部氏(もともとは甲斐の南部出身)は糠部(ぬかのべ)郡(青森県東部の三戸郡・上北郡・下北郡と、岩手県 北部の二戸郡・九戸郡・岩手郡葛巻町などを含む広大な地域であったとみられてる)を東西南北の四門(かど)に分け、さらにそれらを九つの部(戸)に細分し、一つの戸に一つの牧場を設け、牧士田を与え経営させた。 室町時代にはこの制度を衰微したそうだが、近世に入り南部藩はこの古牧の再興を図り、住谷(三戸)、相内(三戸)、木崎(五戸)、又重(五戸)、三崎(野田)、北野(野田)、蟻渡(野辺地)、大間(田名部)、奧戸(田名部)の九つの藩営牧場を経営した。ここに1500頭近く馬が飼育されていた。 これらの馬の飼育法は野馬飼と里飼の二つがあった。野馬飼は藩営牧場で放牧して育てた馬である。武士が馬役人を務めたが、村々に馬肝入、馬看名子、御野係百姓、木戸番などを命じ実際の世話をさせた。 民間で所有している馬を里馬といった。藩所有の山野へ入り牧草などを取ることを許したが、この馬たちも藩の管理下にあった。藩は春秋二季に領内の総馬検査を実施して、馬を上中下の三等級で判別し、密売等がないか厳しく管理した。 多くの馬を持っていた豪農家や馬喰は、零細農民に馬の世話を委託する「馬小作」という制度も作った。零細農民にとっては大変に不利な条件の小作であったようであるが、馬などの役畜を調達するために農民はこの不利益に甘んじた。「南部曲家」はこの里馬の役畜農業に即した構造の家屋である。しかし、零細農民までこのような家屋を持っていたとは考えにくい。

「馬の文化叢書」

「馬の文化叢書」という古代から近代までの日本の馬文化について文献を纏めた叢書がある。出版は馬事文化財団で1993年の出版である。「刊行によせて」から、平成三年度の競馬法改正に伴って日本中央競馬会に創設された特別振興事業の一つの「馬文化保存事業」の一環として刊行されたことがわかる。内容は多岐にわたっているが、古代から近世までの我が国での馬との関わり合いについて相当に包括的に議論されている。内容を各巻の目次で示すと以下のようになっている:

第1巻 古代 : 埋もれた馬文化 / 森浩一編.

第2巻 馬と日本史 ; 1 古代 / 高橋富雄編.

第3巻 馬と日本史 ; 2 中世 / 網野善彦編.

第4巻 馬と日本史 ; 3 近世 / 林英夫編.

第5巻 馬と日本史 ; 4 近代 / 神崎宣武編

第6巻 民俗 : 馬の文化史 / 岩井宏實編.

第7巻 馬学 : 馬を科学する / 松尾信一編.

第8巻 馬術 : 近代馬術の発達 / 千葉幹夫編.

第9巻 文学 : 馬と近代文学 / 古井由吉編.

第10巻 競馬 : 揺籃期のイギリス競馬 / 原田俊治編.

特に日本史と馬の関係が面白そうである。随時紹介したい。

「中馬を狙った野盗の罠」(松本)

表題は昨日のテレビ番組の水戸黄門(西村 晃主演)のタイトルである。このタイトルにある「中馬」が今日のテーマである。馬によるヒトや物資の運搬を仕事にする運搬労働者は時代毎に、「馬借」(中世)、「馬方」(近世)、「馬力」(明治)と名称が変わるが、この「中馬」(ちゅうば)は「馬方」の時代に登場する。
松本は江戸時代には中山道や甲州街道の分岐点になっていたので、ヒトや荷物の流通が盛んであった。江戸時代には各宿場町には宿駅制に基づく交通運輸制度があったが、これらは本来武士団のものであった。これらは助郷など農民にたいする賦役の形で制度化されたものである。しかし時代が進むと、人馬の往来がしげくなり、商業の発達で輸送する貨物の量が増えると旧来の制度では賄えきれなくなる。そこで、駄賃・駕籠賃をとってヒトや物資の輸送を仕事にする運輸労働者の集団が出現することになる。彼らは馬子(まご)、駕籠かき(くもすけ)、川越人足(蓮台がつぎ)などと呼ばれた。
これらのプロ集団に対して、下層農民の農閑期のアルバイトとして運輸労働をする集団も現れる。これが「中馬」(ちゅうば)である。この「中馬」は地理的な特徴があり、関所の煩いのない中部高地の脇往還に発達した。まさに松本などがそうである。四頭の馬を用いての中馬稼ぎは、山間農民の主要な生計手段ともなった(馬の文化叢書「馬の文化史」)。
この「中馬」を含め、近世の馬子・馬方の実体がかなり複雑なようだが、農との結びつきが強い。この点では、駕籠かき(くもすけ)、川越人足(蓮台がつぎ)などとは異なる。落語の「三人旅」に登場するように、馬子は粗野ではあるが純朴な気質を持っていると感じられる要素はこの辺にあるのかもしれない。

甲斐国南部と奥羽南部

山梨県の静岡県よりに南部町というところある。日蓮宗の本山がある身延の近くである。同じ「南部」という文字を持つところとして「南部藩」がある。今の八戸を中心とする江戸幕府時代の藩である。この二つの「南部」は遙か鎌倉時代まで遡ると繋がる。しかも馬を通して繋がるのが面白い。
源頼朝の平泉攻略後には、大挙して関東武士団が奥羽に進駐してくるが、奥羽の良馬を生産する地方には、牧場経営の経験がある武士をその地の地頭にしたらしい。その一例が、甲斐国南部・波木井(はきい)の二つの牧の牧監であった南部氏に糟部の地(現在の奥羽南部地方)を与えたことである。この糟部を領有した南部氏は「四門九戸(くかのえ)」と呼ばれる牧場制を立て、九牧を置いて軍馬の育成に努めた(馬の文化史:馬の文化史叢書第六巻)。この南部氏が領有した地域が奥羽・南部である。七戸(しちのえ)では現在でも馬の生産が盛んだ。

馬(ウマ)と猫(ネコ)

Q:猫は左利きである?
A:実験をしてみた人がいる。直径7cmで高さが15cmのガラス管を用意してその中に生のウサギの肉片を入れて猫が前足で取れるようにしてどちらの前足を使うか調べた。結果は50%の猫はどちらの前足も使う。両刀使いである。残りは左前足のみ使う。右前足のみは殆どいない。
Q:馬が反時計まわりが得意?
A:これも左右特異性である。競馬場の走路の多くが反時計まわりになっていることを見ると、馬は反時計まわりが得意でだと思われる。
Q:猫は一日の大半を寝ている?
A:猫は一日13時間から15時間は寝ています。なぜこんなに長い時間をかけて眠る必要があるのか不思議です。ヒトなどと睡眠の中味が違うのかもしれません。
レム睡眠をしている時間を比較したデータがあります。それによれば全睡眠時間に占めるレム睡眠の割合は:
猫の新生児   80%
ヒトの新生児 50%
成猫     28%
馬      27%
成ヒト    20%
となる。猫の睡眠が特異的であること、猫は大変に「夢見る」動物であることが分かる。
Q:馬は立って眠る?
A:馬は立って眠ります。しかも睡眠時間は4,5時間と猫の1/3程度の短い時間でよいようです。草食動物はこんなものかもしれません。

猫と馬でした。

瑞鳳寺にある下馬碑

画像は瑞鳳寺の山門の脇に建てられている下馬碑である。「下馬」とう文字が石にノミで彫った点の集まりで表現されている。大きな石碑である。

下馬碑
下馬碑


下馬
元々は瑞鳳殿に上がる参道である坂道のたもとにあったものらしい。「下馬」という文字で分かるように、瑞鳳殿に参詣に来た騎乗の武士もここで「下馬」するようにとするものである。江戸時代にはいろんなところに「下馬」の標識があった。
この下馬碑を作らせたのは伊達藩四代藩主綱村で、大阪四天王寺にあった石碑を模写させてそれから作らせたと説明がある。綱村は絵心もあり(実際かれの描いた日本画は素人ではないなというレベルで)この下馬碑の文字の作り方にも興味を持っていたのだろう。また、伊達藩は大阪屋敷もあり(藩主の何人かは大阪生まれだ)、もしかしたら綱村は大阪にも土地勘があり、この碑の存在を以前から知っていて面白いと思っていたのかもしれない。

木ノ下駒

「灯台下暗し」でした。こんな身近に馬の玩具がありました。仙台でそれもごく近いところです。薬師堂です。そこに表題のような「木ノ下駒」があります。画像でみるように馬の玩具です。

木ノ下駒
木ノ下駒


説明によるとこの地で馬の市が開かれ朝廷に献上する馬にこの馬型を下げたとある。「木ノ下」とあるのは地名だと思う。この薬師堂をウルスラ学院の方向に南に行くと「木下」という地名がある。この近くには「東(あずま)街道」という通もある。多賀城が大和朝廷の出先機関であったころは、この東街道は中央と出先を繋ぐ街道であった。名取にもその東街道の一部が残っている。朝廷とあるので江戸時代前のこの時代のことであろう。薬師堂の地には陸奥国分寺があった。天平十三年(741年)の聖武天皇の詔勅によって建てられたものである。寺で馬の市とは珍しいが、隣接する「白山神社」も寺の守護神として古い歴史をもつものなので、もしかしたらこの白山神社が馬市と関連するのかもしれない。

おまんと祭りー「この馬」とまれ

今日のケーブルテレビで高浜おまんと祭りの様子を紹介していた。これは近郊で飼育されている馬たちを神社の奉納する神事であるが、この奉納が豪快だ。周囲100メートルもある円形馬場の拉致に沿って疾走する馬(馬の背には御幣などの飾りものを載せている)に地元の若者たちが馬に掴まって馬と一緒に走るというものだ。馬の速度が遅いときは馬の速度について行けるが、馬のテンションが上がって速度が速くなるとと馬に掴まれず倒れるもの、掴まっても速度に勝てず落とされるものが多くなる。

動画

「優秀馬」というサラブレットになると速度が速く、「ゼロすかし」(一度も転んだことが無い走者)でもなかなか転ばずに走ることが難しくなる。今年は一人「ゼロすかし」を続けていた若者も転んでしまった。

この若者がインタビューで「人生の中で最も熱くなれる瞬間だ」と答えていたのが印象的だった。