「己亥(きがい)の歳(とし)」という七言絶句の最後の七言である。作者は曹松(そうしょう)である。反戦の歌である。唐の滅亡が迫り、黄巣(こうそう)の反乱軍が長安に侵攻した時代である。「己亥(きがい)の歳(とし)」は乾符六年(西暦879年)に当たる。
七言絶句の全文は:
沢国江山入戦図
生民何計楽樵蘇
憑君莫話封侯事
一将功成万骨枯
沢国の江山、戦図に入る
生民、何の計ありてか樵蘇を楽しまん
君に憑る、話す莫れ封侯の事
一将、功成って万骨枯る
「小説十八史略」(陳舜臣)より。
「己亥(きがい)の歳(とし)」という七言絶句の最後の七言である。作者は曹松(そうしょう)である。反戦の歌である。唐の滅亡が迫り、黄巣(こうそう)の反乱軍が長安に侵攻した時代である。「己亥(きがい)の歳(とし)」は乾符六年(西暦879年)に当たる。
七言絶句の全文は:
沢国江山入戦図
生民何計楽樵蘇
憑君莫話封侯事
一将功成万骨枯
沢国の江山、戦図に入る
生民、何の計ありてか樵蘇を楽しまん
君に憑る、話す莫れ封侯の事
一将、功成って万骨枯る
「小説十八史略」(陳舜臣)より。
中国の歴史のなかで唐あたりになると日本に馴染みな名前が現れる。
あまのはら ふりさけみれば春日なる
三笠の山に出でし月かも
これは百人一首にある阿倍仲麻呂の歌である。これは唐の時代に黄泗浦(こうしほ)(揚子江河口の南岸の港)で創った望郷の歌である。かれは遣唐使として唐に来て、その才能を認められ二十六年間も唐の玄宗に仕え、ようやく帰国の機会を得た。そのときの歌である。遣唐使一行と帰国の予定であった。帰国船は四艘からなり、かれは第一船に乗った。この船団の第二船に乗ったのが鑑真和上であった。かれは五度も船が遭難して日本に辿りつけずにいて、これが最後のチャンスであった。
第二船は無事に日本に着いたが、残念なことに第一船は遭難し北ベトナムへ押し戻られてしまった。阿倍仲麻呂は苦難のすえ長安に戻ったが、彼が死んだとおもった友人の杜甫は「晁卿衡(仲麻呂のこと)を哭す」という挽歌を創った。
「小説十八史略」(陳舜臣)より。
紙は中国で漢の時代に発明された。
これがトルコやヨーロッパに伝播したのは唐の時代(西暦700年ごろ)であったという。そのころ唐の版図は西へ大きく伸び、キルギスあった小勃律国なども唐へ進貢していた。
この小勃律国が唐に叛いたので唐の軍隊が遠征した(西暦750年ごろ)。小勃律国は当時西方で大勢力であったアラブのアッパーズ朝に救援を求めた。結果的には、唐軍の中にいたトルコ系の部族がアッパーズ朝に寝返ったので唐軍は負けた。
面白いことに、アラブ軍の捕虜となった唐軍兵士の中に、紙漉き工がいて、製紙技術を西方へ伝えた。これがきっかけで紙は西方に伝播した。
「小説十八史略」(陳舜臣)より。
唐の第二代皇帝、太宗李世民(りせいみん)が在位した二十三年間を貞観(じょうかん)の時代という。貞観元年は西暦626年にあたる。
この貞観年間は中国史上で最も政治のよかった時期といわれている。
ー海内(かいだい=天下)升平(しょうへい=太平)、路、遣(お)ちたるを拾わず、外戸、閉ざさず、商旅(しょうろ)は野宿す。
「小説十八史略」(陳舜臣)より。
この成句は三国志の劉備が荊州の劉表のところに寄食しているときに言った言葉から出ている。この言葉は:
「これまで私は馬に乗って戦場をかけめぐる生活を続けておりました。ですから股(もも)は鞍を離れることがなく、そのためいつもひきしまっていたのです。ところがどうでしょう、荊州に来てから軍馬にまたがる機会がなく、脾肉(内股の肉)がすっかりついてしまいました。…..」
と、功名をあげる機会がないことを歎いた。
「小説十八史略」(陳舜臣)より。
これらの二つの言葉は後漢の光武帝の時代(紀元100年ごろ)に初めて使われた。
「烏合の衆」は和戎群の太守であったひとうという人が言った言葉が最初だという。
「井のなかの蛙(かわず)」は隗轟(かいごう)軍閥の部下の馬援(ばえん)が初めて使った成句。
「小説十八史略」(陳舜臣)より。
これも「小説十八史略」(陳舜臣)で語られている話である:
漢の武帝の時代(紀元前100年ごろ)の宮廷の記録係り(太史令)である父、司馬談の後を継いだ司馬遷は太史令となった八年目に皇帝の前に召しだされて李陵(りりょう)の敗戦について意見を求められた。
この李陵は将軍で、李広利(りこうり)将軍とともに匈奴に対して軍事行動を展開した。この李広利将軍は武帝の皇后の兄でそのことで将軍に任命された人物であった。李広利は三万の軍を率いたが、李陵はたった五千の兵を率いて囮部隊の役割を果した。案の定匈奴は八万騎でこの囮部隊に襲い掛かった。この戦いで李陵は善戦したが捕虜になった。しかし囮部隊としての任務は十二分に果たした。
司馬遷はこの李陵の敗戦について意見を求められた。
「このたびの戦い、ひとり李陵のみが孤軍奮闘せしことを、ご明察ねがいあげます。」これが司馬遷の結論であった。
これに対して李広利将軍を評価しない意見だとして怒った武帝は司馬遷を酷い刑罰(宮刑)にかけた。これは司馬遷にとっては死にもあたいする刑罰であった。
司馬遷はこの酷い境遇の中で中国の歴史を書いた。これが「史記」である。百三十編、五十二万六千五百文字の大著である。
それにしても時の権力者は酷いことをするものだ。
「小説十八史略」(陳舜臣)に以下のような記述がある:
「文帝の十六年(紀元前164年)に、瑞兆ともいうべき玉杯が発見された。その玉杯には『人王延寿』というめでたい文字が彫られていた。宮廷に出入りしていた、いかさま占い師の新恒平というものが、すこし前から
ー瑞兆の玉器が近くあらわれるでしょう。
と、予言していたのである。
はたして、めでたい玉杯があらわれたので、それを記念して、文帝は
ー来年から後元(こうげん)と改元しよう。
といったのである」
これが元号の第一号である。
しかもこの話には付録が付く。実はこの玉杯はいかさまであることが判明し、新恒平は処刑される。いまさらまた改元もできないのでこの元号を使い続けた、という。
「元号は誕生のときから、いささか胡散臭いものだったのである。」と著者は結んでいる。
中国では黄色が最も貴い色とされていて中心にくる。これは黄河の色かな?
それを囲んで四つ色がある。方向にもあてられ、その守護神獣が決まっている。それが表題の青竜(せいりゅう)・朱雀(しゅじゃく)・白虎(びゃっこ)・玄武(げんぶ)である。
青は東で、季節は春、神は青竜
赤は南で、季節は夏、神は朱雀
白は西で、季節は秋、神は白虎
黒は北で、季節は冬、神は玄武
となる。
青春はこの「青は東で、季節は春、神は青竜」から来ている。
秦の終わりころの陳勝(ちんしょう)の名文句である。
またかれは
「王候将相(おうこうしょうそう)、なんぞ種(しゅ)あらんや」
つまり権力の中枢にある人々は生まれながらにそれになる人種が決まっているわけではないぞ、という意味。
「小説十八史略」(陳舜臣)から。
また同じ「陳勝呉広」の節に
「星々の火、以(もつ)て原を燎(や)く可(べ)し」という」という興味ある諺が載っていた。