日本海を渡った馬たち

馬が日本海を渡って日本に来たことが歴史的にハッキリしている最初は応神天皇の時代に、百済から馬二匹が献上されたというものである。古事記によれば牡牝各一匹とあり、繁殖を目的としたものだったのだろう。汗血馬、アラブ系の馬と思われる。
当時船で馬を輸送するするには、底の浅い、速度の遅い船で、一艘に二匹程度の馬たちを乗せた。

千葉治平著「馬市果てて」

生活の中に馬がいた時代がどのようなものであったのか知りたいと思い調べている。
「馬の文化叢書」9巻「馬と近代文学」の中にそれらしきものが二編あった。一つは木下順二著「馬への挽歌ー遠野で」、もう一つが千葉治平著「馬市果てて」である。
後者の「馬市果てて」は軍馬の供給で栄えた馬市が終了してしまって僅かに挽馬の需要が残った戦後まもない時代の馬産農村の生活を描いたものである。著者の千葉治平は秋田県生まれの人でこのころの秋田の農村を舞台した小説をいくつか書いている。

附馬牛(つきもうし)

遠野に附馬牛(つきもうし)という珍しい名前の場所がある。この名前の由来を調べてみると、
「現在の青森県東半部から岩手県北部にかけての地域は、古く陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡とよばれました。糠部産の馬は名声が高く、「糠部の駿馬」と通称されました。現在の遠野市域はかつて閉伊(へい)郡とよばれた地域で、糠部郡に南接していた閉伊郡も古くから馬産が盛んなところでした。附馬牛地内の稲荷神社には槻の巨木があり、この木の下に多くの牛馬を放牧することができたことが、附馬牛の地名由来との伝承があります。」
とある。ここで「槻」(つき)とは欅のことで、万葉集あたりでは「槻」が使われている。
また、附馬牛の駒形神社ふきんは阿曽沼氏の牧場だったといわれているが、遠野 に駒形神社が多いのは、とくに阿曽沼時代に馬産がすすんだことをものがたっている。
阿曽沼氏は鎌倉時代に頼朝からこの遠野を与えられ戦国時代までこの地を支配した豪族で、南部氏と同じように出身が関東かもしれない。

政宗騎馬像

仙台青葉城趾に政宗の騎馬像がある。常歩の馬に乗っている政宗像である。

政宗の騎馬像
政宗の騎馬像


一方、お隣の山形県には最上義光の騎馬像がある。こちらはレヴァード姿の馬に騎乗している像である。

最上義光の騎馬像
最上義光の騎馬像

日本に神々がいた時代

窪徳忠著「道教の神々」を読んでいると道教では実に様々な神が登場してきる。その多くが現在でも民間信仰の対象になっている。その数は三百種類に達すると言われている。一方、日本の歴史に中で登場する神々の数を数えた人がいる。それによれば日本の神々は、地域の神、農業関係の神、山の神、漁の神など二十五項目、四百十二種もあるという。
不思議なのは今に生きるわれわれはその多くを知らないことだ。近くの神社があってもその神社にどんな神々が祭られているか殆ど気にしない。

徒手調教(work in hand)

馬の調教は”長い調馬索を持ち大きな円周の中心に立って馬を円周に沿って走らせる”。このような風景を良く見かける。こと調教では馬の基本的な歩様、常歩、速歩、駈歩をリズム良く走れるように調教する。
面白い調教として、「徒手調教」(work in hand)がある。これはトレーナーは短めな調馬索を持ち馬と一緒に走る。もちろん馬は鞍もサイドレイン(固定手綱)も着けている。この調教スタイルはレバートやカプリオールなど馬が地上を離れて浮遊する部分を含む演技の訓練で見られる。この徒手調教は二本の柱の間に馬を固定して行われることもある。このよな古典馬術の訓練は今では見たことがないが、絵画などに描かれている。以下の画像はJulius von Blassの油絵「スペイン乗馬学校の朝練」であるが、左の方に二本の柱の間ど訓練している馬が見える。

油絵「スペイン乗馬学校の朝練」
油絵「スペイン乗馬学校の朝練」

Dala horse

昨日は天気がよかったので自転車で駅裏のホースギャラリー・チモシーに行ってみた。そこで珍しい馬の置物をみた。それがDala horseである。これはスエーデンの民芸品で、”幸福を呼び込む”馬として知られているものである。

コンクリートで作った巨大なDALA HORSE
コンクリートで作った巨大なDALA HORSE


スエーデンのDalama地方の民芸品で日本のこけしと同じような子どものおもちゃが起源であるらしい。木彫りであるが、ペイントの仕方が独特で、刷毛の表・裏に別カラーの顔料を着けて一気にペイントするらしい。この方法は今も使われていて、発明者はErik Eriksonという人物で、60歳でアメリカに移民してネブラスカの小さい教会に埋葬された(buried at Bega Cemetery in Stanton County Nebraska, outside of Norfolk.)と言う話である。ノーフォークには大きなライブ・ストックがあり一度見学したことがあった、懐かしい場所である。

五千万年前の馬

約5000万年前に地球が急激に温暖化したが、生き物はどうこれに対処したか。
こんな問題に対する新事実が発見された。新聞によれば、米フロリダ大学の研究チームは当時の馬の化石からこの時代の馬の生き方を再現してみた。
この温暖化の時期は温暖化極大期(PETM)とよばれ、大気中のCO2が、地球上の火山活動の活発化によって増加して温暖化が急激になった。この時期の馬の化石は極めて小型で、体重にして3.9キロしかないことがわかった。

写真は現在の馬と当時の馬の大きさの比較(Scienceより)
写真は現在の馬と当時の馬の大きさの比較(Scienceより)


一般に温度の高い環境では動物は小型化する。これは「ベルグマン法則」というが、今回に発見もその実例である。

現生のウマ起源

現生のウマは全て、祖先をたどると16万年ほど前に生きていた雌にたどり着くそうだ。
欧米の研究グループが世界各地にすむウマのDNAを調べた結果だ。アジア、ヨーロッパ、アメリカの各地にすむウマ83匹のミトコンドリアDNAの塩基配列を調べ、比較した。ミトコンドリアDNAは母親のものだけが子どもに伝わるため、母系の系列を調べることができる。
結果は、この83匹のDNAは18系統に分類された。これを1つ纏めようつすると16~13万年が必要になる。だから16万年あたりまで遡ると一頭に雌ウマにたどり着く。
ウマ科の動物は数千万年まえにこの地上に出現したと思われているが、氷河期を乗り切ったウマは多くないので83頭の出発は割と最近になっているとの由。また、18系統への分岐が8~5千年まえに集中していることは、家畜化とに関連もあるかもしれないとしている。
家畜化されたウマは形態や地域かた四つのタイプに分類されているが、この分類と今回の結果との関係には興味がある。

「馬の鼻息で煮える」

成瀬宇平箸「魚料理のサイエンス」にあった言葉:「鱈は馬の鼻息で煮える」である。鱈は冬の魚で北国(北海道や東北地方の日本海や太平洋)で獲れる。身肉が身割れしやすいので簡単に火が通るので上の諺が出てくる。この身割れの原因は筋肉のブロックを包んでいる筋節という結合組織からくるそうだ。この結合組織はコラーゲンとエラスチンからなるが、鱈の場合はエラスチンが多い。コラーゲンは加熱するとゼラチンになるが、エラスチンはそのまま残る。またこれ以外のタンパク質は加熱で凝固するのでブロック間に隙間ができる。これが身割れである。

鶴岡(山形県)の市場で見た鱈
鶴岡(山形県)の市場で見た鱈


馬の鼻息ねー。確かに凄いよね。