直前のブログで吉良上野介義央(よしひさ)の私的な書状公開の話を書いたが、「元禄忠臣蔵」=「赤穂浪士事件」そのものが塩の争いが遠因にあるという話である。
「日本古街道深訪」(泉 秀樹著)によれば現在の愛知県幡豆(はず)郡吉良(きら)町には嘗ては大きな塩田があった。その一つ「富好塩田」を開発したのは吉良上野介義央であった。そこで作られた塩は「饗場(あえば)塩」といった。この塩はにがりが多い「差塩(さししお)」であった。一方赤穂藩も塩の産地でこちらは純度の高い「真塩(ましお)」を生産した。この塩を巡る争いが事件の底辺にあるという。
それにしても、そもそも赤穂浪士たちが「殿のかたき」としなければならなかったのは「殿中事件」に対して不当判定を下した幕府首脳であったはず。不思議な事件である。