わが国における乗馬の習慣(2)埴輪

わが国で乗馬の習慣がいつごろ始まったかという問題を調べている。

今回は馬の埴輪でみる。古墳後期(六世紀)の墳墓の副葬品には馬の埴輪が多い。その中で人が騎乗した姿の馬の埴輪は唯一であるが1例ある。それは石川県小松市にある矢田野エジリ古墳から出土した埴輪である。馬具(ばぐ)で飾られた馬と、馬とは別につくられた騎乗(きじょう)の人物、そして馬を曳(ひ)く馬子(まご)が別々に作られたようである。騎乗者と思われる人物は股を開き両腕を前にだしている。馬子は右腕を挙げている。馬子は従って馬の左に立ち馬を曳いている格好になる。この馬の埴輪はこの古墳で二例見つかっている。

数が少ないが古墳時代後期ごろには乗馬の習慣があったことの証拠である。

わが国における乗馬の習慣

世界史的にみると馬に乗る習慣は馬の家畜化の過程でおきたものである。この家畜化・乗用化は黒海・カスピ海ステップで紀元前4000年あたりのことである。この解明は馬の乗るときにハミを使うがそのハミによる臼歯の磨耗の特徴を調べたことによる。以前のこのブログでもこのことに触れた。

我が国では古墳時代後期(六世紀)の遺跡から鐙や鞍の遺物が沢山出土することからこの時代あたりから乗馬の習慣が始まったと思われている。しかし出土した鞍などは華美なもので実用に供したのかは疑問である。胡服を着て馬を扱っている人物の壁画があるが、これも乗馬ではない。

今回は時代が下るが万葉集(七世紀から八世紀の歌)に現れる馬を歌った歌の中に明らかに乗馬を意味する情景があるか調べてみる。

馬に関する歌は沢山ある。これは当時馬はかなり日常的な風景として存在したことを示唆している。その中で「乗馬」に直接的に触れた歌がある。例えば:

塩津山(しほつやま)打ち越え行けば、わが乗れる、馬そつまづく、家恋(こ)ふらしも

意味: 塩津山(しほつやま)を越えて行くと、私が乗っている馬がつまづきました。きっと、家のものが私のことを想っていてくれるのでしょう。

あきらかに騎乗している馬である。作者は笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)という人物である。

済州島の馬と倭寇(わこう)

済州島のシンボルは馬(済州馬)であるが、この小型の馬の起源はかなり古いらしい。

海と列島の中世」(網野善彦著)によれば、中世に「倭寇(わこう)」と呼ばれていた海の人々(海人)は西北九州、済州島、朝鮮半島の南端に渡るひろい範囲に住む人々からなり、「船を以って家となす」と言われていたように船や海に長けていた人々であったが、騎馬にも優れ多くの馬を所有してたという。その馬の牧場(牧)が済州島にあった。

 

Horses no slouches with emotions(馬は情感豊かである)

表題のタイトルはNewscientistのNewsLetterの一つである(原文はここ)。このブログでも以前に馬はヒトの表情を理解しているかという実験の話をした。その実験に関連したレターである。

著者は馬はヒトが示す各種のボディーランゲージを理解していると述べている。例えば、馬が間違ってヒトの足を踏んづけてしまったとき、「ごめん」という以外に表現しようのない表情を浮かべるという。

また子どものころの経験を述べている。ドライブ・インの映画場で”National Velvet”という映画が上演された。この映画場の近くの馬場から馬に乗ってきた人々がいたそうである。馬は映画に無関心であったが、映画が競馬のシーンになるとその馬たちは大興奮で嘶いたり、足踏みを始めた。観客は映画はそっちのけで本物の馬たちに見入っていたという。

Shire(シャイヤー)というウマたち

、以前のブログでShire(シャイヤー)を紹介した。普通名詞のshireを辞書で引くと「州」と出てくる。もう一つ意味として、‐shire を語尾とする)イングランド中部諸州とある。
都市名でみると、リンカン (Lincoln) は、イングランド東部のシティかつバラで、リンカンシャーの州都、レスター(Leicester)は、レスターシャーの単一自治体、スタッフォードStafford)は、イングランドのスタッフォードシャーにあるタウン、ダービーDerby)は、イングランド中部ダービーシャーの行政中心地。イングランドの中部にある州である。この地方で生産された重量馬がShireである。

神田日勝(かんだにっしょう)の「馬」

神田日勝(かんだにっしょう)という夭折の画家がいた。名前は以前から知っていたが、かれの絶筆となった作品が「馬」という題名の作品である。

昨日の新聞に「大地への筆触」というタイトルで回顧展の記事が載った。かれの父親が拓北農民隊として家族で北海道に疎開、1945年に十勝平野、鹿追村で暮らし始めた。かれは農業を引き継ぎ、傍ら絵を描き始める。しかし1970年には体調不良、32歳の若さで他界した。

かれの遺作の「馬」という作品がある。この作品以外にもウマをテーマにした作品があるが、この遺作の「馬」が画家と馬の精神的距離が一番近いように思われる作品である。

 

ウイニーの大音響を実感する

今日のお昼休み(馬休の時間でもあった)に洗い場で一頭だけ残されしまった馬が盛んに嘶いていた。この馬の音声はウイニーと呼ばれている。以前にも馬の四種の音声を話題にしたことがあるが、ウイニーが最も大きな音で自分の存在を他の馬たちに知らせるときなどに使う。今日は「早く馬房に帰りたい」と指導員に向かって鳴いていたのである。

ふと他の馬たちは誰が鳴いているのか分るのであろうかという疑問がわいた。それにしても大音響であったのが面白かった。

「相馬(そうま)」という地名

今朝りんごを食べようとしたらその「しなのゴールド」にラベルが貼ってあり「青森県産JA相馬村」と書いてあった。福島県の相馬以外にも「相馬」という地名があることが面白い。

「相馬」とは、馬市で市場で競りに掛けられた馬のコンディションを観ることで、相馬はそのような場所であったと思われる。

青森県の相馬村は弘前市に隣接した村であった。現在は弘前市の一部である。

WEBで「相馬」を検索すると、福島と青森以外に茨城と千葉にまたがる下総国・相馬郡という地名があったことがわかる。常陸を支配した相馬氏が下総の千葉氏の後裔であることを考えると、この相馬と福島の相馬とは何か繋がりあるのかもしれない。

 

 

馬頭観音と蒼前(そうぜん)駒形明神

馬頭観音と蒼前(そうぜん)駒形明神の双方とも今では馬の守り神とされているが。

馬頭観音は馬の頭部を頭に頂く観音であり、十一面観音や千手観音などと同じ密教の異形の観音の一つである。「陀羅尼経集」なかにも説いている観音で奈良時代ごろにはわが国に知られるようになったといわれている。この観音像の作例はすくなく本来は馬の守り神という特殊な性格は持っていなかったが、近世になるとなぜか馬の守り神と思われるようになった。

一方、蒼前(そうぜん)駒形明神は「蒼前さん」とも呼ばれ、特に馬産が盛んであった東北地方で信仰を集めた馬の守り神である。起源ははっきりしないが、遅くとも中世にはあったようである。

例えば遠野地方の蒼前さんについて、郷土史家の菊地幹氏は以下のように書いている:

「これは馬の安全を祈ることから生まれた信仰で、旧正月十六日と旧四月八日の例祭日には近郊近在はもちろん遠くの村々から馬産を志す人々でにぎわった。…. 参拝者は社務所でお守りの笹の葉をいただき帰路についた。まさに人と馬と神とをつなぐ祭りであった。」

この馬を曳いて蒼前さんに参拝する様子が「チャグチャグ馬っこ」の原型である。