東洋の星学(6):文昌帝君(ぶんしょうていくん)

文昌帝君(ぶんしょうていくん)は北斗の魁星(かいせい)=(北斗七星を柄杓(ひしゃく)になぞらえたとき、水をくむ部分の先端にある第1星)の近くにある文昌六星を神格化したものである。

唐代に張亜という人がいて、故郷の浙江省から梓潼(しとう)県に移って先生になったが、人柄がよいうえに文章にすぐれ、しかも人々に親切丁寧に教えたのですっかり尊敬された。かれが死ぬとかれの徳をしのんで梓潼君祠をたてて祀ったという。この梓潼君が文昌帝君と結びつき文昌帝君が「文章・学問の神」とされるようになった。

また、文昌帝君は文字を書いた紙を粗末にしないという習俗と関連して信仰されている。この習俗を「惜字紙(せきじし)」という。

 

東洋の星学(5):南斗真君

南斗星君(なんとせいくん)は南のいて座の近くにある六星、南斗六星を神格化したものである。位置はここで。北斗が司命の神であるのに対して南斗は生を司る神である。

「道教の神々」(窪徳忠著)では、南斗は「北斗七星の柄杓の近くにある六星」としているがこれは別な星か?

 

ネアンデルタール人も魚介類に舌鼓

今日の朝刊の記事のタイトルである。ネアンデルタール人も魚介類を食べていた証拠が見つかったという記事である。現生人類(ホモサピエンス)が狩猟生活をしていた時代はタンパク源として大量に魚介類を食べていたことは骨の窒素含有量で推定されているが、ネアンデルタール人も魚を食べていたことが遺跡の発掘調査でわかった。

バルセロナ大学の研究者たちはリスボンの南30kmの大西洋に面したところにあるフィゲイラ・ブラバ遺跡で、二枚貝のムラサキガイや魚、カニの化石を発掘した。これらの化石は年代測定で10万6000年~8万6000年の範囲にあることが分り、この年代にヨーロッパにいたのはネアンデルタール人だけであることからネアンデルタール人も魚を食べていたと結論つけた。

ネアンデルタール人と海洋動物の関係に新たな光を当てる発見である。

焼いた痕があるカニの爪の化石

東洋の星学(4):北斗真君

道教の神であり北斗七星を神格化したものであり、北斗星君とも言う。

紀元前三世紀以前には北斗七星は現在より北極星に近く位置しており、中国では地平線に沈むことがなかった。

『史記』の「天官書」では、太一は北斗を車として天上を巡って四郷を治め云々と書いてあり、北斗が有力な星とみられていたことを示している。

人間の寿命・富貴・貧賤を司る司命の神である。一心に信仰すれば死籍を削ってくれて長生きできると説く経もある。

道教では東・西・南・北。中の五斗星君(ごとせいくん)を説くが、南北両斗、なかでも北斗への信仰が盛んある。

日本では北斗七星は数字「七」との関連で「庚申(こうしん)信仰」に現れる。

 

東洋の星学(3):日本の七夕祭

日本では七夕が最も馴染みがある「星祭り」でありこのブログでも触れたが、なぜか星との関わりが希薄な「星祭り」である。

筑紫中真著「アマテラスの誕生」によれば、七夕伝説が中国から伝わってきたとき以前に日本には「カミまつり」があり、この「カミまつり」が七夕伝説と同化してできたのが日本の七夕まつりである。

神は一年に一度海または海に通じている川をとおって遠いところから訪問してくると考えられていた。人々は海岸や川のほとりに「湯河板挙(ゆかわだな)」という小屋をたて、カミの妻となるべき処女を住まわせ、神のくるのを待ち受けさせた。この棚機つ女(たなばたつめ)は普段はカミの着物を機(はた)にかけて織っていた。つまりカミまつりをする巫女だったわけである。

このカミまつりの風俗が七夕伝説と同化したものが日本の七夕まつりになったというわけである。星の「織女星」というより棚機つ女(たなばたつめ)にあやかろうとする習俗が顕著なまつりである。これらが星との関わりが希薄な「星祭り」である理由と思われる。

東洋の星学(2):北極紫微大帝

北極星を神格化したものである。

夜空を眺めて北方に動かない一つの星を見つけそれを中心として他の多くの星が整然と動いていることを古代の中国の人々が見つけた。そして、「天人感応」の説によってその星を人間界の天子と考えた。

『史記』の「天官書」の冒頭では、北極星は「太一(たいいつ)」(の中心に位置する星官)の居場所で、その脇の三星が三公、うしろの四星が正妃と後宮、まわりの十二星が藩臣としている。

紫微とは天帝の在所の意味。星や自然界を統御する極めて高い地位にある神である。

誕生日は旧暦四月十八日で、その日には降福除災を祈る人が多いという。

 

東洋の星学(1):道教の星の神々

道教の神々」(窪徳忠著)によれば、道教に現れる星の神々は

  • 星科(総星)
  • 太歳
  • 太乙
  • 火徳星君
  • 文昌帝君(奎星・文奎星)
  • 北極星君
  • 玄天紫微大帝
  • 玄武
  • 真武
  • 南極老人
  • 斗母
  • 斗星辰
  • 三台星

次回から多少詳しく見ることにしよう。

土御門神道:占星術の日本的変容

「星の宗教」(吉田光邦著)を読んでいたら以下のような叙述に出会った。

「慶長六年正月、(安倍)久脩が国家鎮護、玉体安穏のため泰山府君蔡をおこなった。ついで八年二月、こんどは徳川家康のために天曹地府蔡をおこなった」

安倍久脩は中世の陰陽師安倍晴明の子孫で絶えていた陰陽道の復興と再組織化をはかった人物である。「道教の神々」(窪徳忠著)によれば、泰山府君は泰山を神格化したものである。泰山府君、天曹、地府は中国占星術に出てくる星である。

安倍晴明は中世の陰陽寮の長官であり、陰陽寮は律令制のなかで「占い」などの非合理的な色彩の強い職制であった。久脩の時代になって、国家鎮護、玉体安穏といった密教が唱えるような目的を掲げるようになり、宗教的な色彩を持ち始めた。この流れが神道に繋がった。それが土御門神道(つちみかどしんとう)となった。

太陽は運動している

銀河の中心に対して太陽はほぼ回転運動をしている。その速度は220km/sであるので一昼夜で進む距離は1900万8000kmである。太陽の直径は139万2700 kmであるので一昼夜で約十四歩である。かなりのヨチヨチ歩きであるが、司馬江漢は納得するかな?

司馬江漢の宇宙観:大きさの認識

司馬江漢の「和蘭天説」では地球から惑星までの距離、ひいては太陽系の大きさ、さらに惑星の大きさに詳しく言及している。このことに興味がある。大きさといった比較的地味な量に関心を持っていたことは彼自身がその大きさの「天文学的な大きさ」に感銘したからなのであろう。

「和蘭天説」で距離・大きさに言及しているところを拾いだしてみる。

「九天の図」の説明で

  • その次を宗動天といい、地をはなるること日本の里法にて八万零九百十七万三千三百六十二里半(32億3669万3450km)。
  • その次を恒星天(二十八宿および北辰)、地をはなるること四万零三百四十六万二千三百零四分ノ三里(16億1384万9203km)。
  • その次を土星天、地をはなるること二万五千七百二十一万三千二百零五里(10億2885万2820km)。
  • その次を木星天、地をはなるること一万五千八百四十六万一千九百八十里(6億3384万7920km)。
  • その次を火星天、地をはなるること三千四百十六万五千一百二十五里(1億3666万0500km)。
  • その次を日輪天、地をはなるること三千零零六万九千六百十二里半(1億2027万8450km)。
  • その次を金星天、地をはなるること三百万零零八百五十一里四分ノ一(1200万3405km)。
  • その次を水星天、地をはなるること一百二十四万八千四百二十七里半(499万3708km)。

と地球からの距離を列挙している。宗動天や恒星天の距離といった不思議な距離が出てきるが、外惑星までの距離は典拠があるらしい値である。

続いて惑星の大きさについて記している。注目すべきは日輪の大きさで

  • 日輪の大なること二十二万九千五百零一里零九(51万8004km)

このような距離や大きさへの拘りは「地道説」の擁護にも役立っている。

江漢はこんなこと言っている:

仮に太陽が地球の周りを回転しているとすると

「予考える、太陽の大なること二十万九千五百一里余なり、日輪天の一度は三十五万二千五百八十六里三二九なり、太陽の一跨ぎに足らず、たとえば人の五尺の身を以って昼夜歩けば二十一里をへる」

と述べ、太陽の動きの不自然さを指摘している。面白い。