ミツバチの「8の字」ダンスは面白い

前日のブログでミツバチの「8の字」ダンスについて最新の研究成果を紹介した。

この「8の字」ダンスは動物のコミュニケーションの問題として面白い。

餌場を見つけたミツバチは「8の字」ダンスで、巣からその餌場までの距離と方向を仲間に知らせる。

honeybee
「8の字」ダンスと胴震い(waggle)-オリジナル論文より

まず距離の伝達である。遠くから帰ってきたミツバチはゆっくりとした頻度で「8の字」ダンスをし、近くから帰ったミツバチは活発にダンス(頻度が高い)をする。つまり、ダンスの頻度は距離に反比例する。実際はダンスの半ばで行う胴震い(waggle)のときに発する「ブーン」という音の発生頻度を仲間は聞き、距離推定に使っているらしい。

次に方向の伝達である。これも結構面白い。

巣面は地面に対して垂直になっている。餌場から帰ってきたミツバチはこの巣面でダンスをする。そのダンスのどう胴震い(waggle)をしながら進む軸(上の図)の方向と垂直とのなす角度が、仲間が巣を出たとき取るべき太陽と餌場との角度になる。

例をあげる。巣面にかけ時計がありその面上でミツバチがダンスをしていると思ってみよう。

仮に太陽が南にあり、餌場も南あるとするとミツバチはこのかけ時計の12時の方向に向かって胴震いをしながら進む。反対に餌場が北にあるとすると、ミツバチはこのかけ時計の6時の方向に向かって進む。餌場が西の方向では、ミツバチはこのかけ時計の3時の方向に向かって進む。餌場が東の方向ならば、ミツバチは9時の方向に向かって進む。

このようにして仲間は巣のなかで太陽を見てない状況であるが、仮に巣を出て太陽を見てどの方向にいったらよいかの情報を得ることができる。

このようにミツバチは直接見えない事柄についてコミュニケーションをしている。

 

 

種によって違うミツバチダンス

K.v.フリッシュ著「ミツバチの不思議」の中でも紹介されているが、ミツバチは餌場を発見すると巣に戻りそれを仲間に知らせる。その方法は「8の字」ダンスで餌場の方向と距離(ダンスの頻度が距離に反比例する。つまり近いと頻度が高く、遠いと頻度は低い。)を知らせる。この発見はカール・フォン・フリッシュでこれでノーベル医学・生理学賞を受賞した。

honeybee
「8の字」ダンスと胴震い(waggle)-オリジナル論文より

今日のブログのタイトルは今日の新聞記事の見出しである。この「8の字」ダンスに方言があるという記事である。この方言を発見したのはドイツ・ビュルツブルグ大学などの研究者で、トウヨウミツバチ、コミツバチ、そしてオオミツバチの三種の「8の字」ダンスを比較した。観察はこの三種がおなじ場所にすむインド南部で行われた。その結果、同じ距離にある餌場を仲間に知らせるときのダンスが三種で異なっているということを突き止めた。

元々この三種は巣からの行動半径が異なっていて、トウヨウミツバチの行動半径は約1000mで、コミツバチでは2500mであり、オオミツバチでは3000mと長くなる。

発見はこうだ:

餌場が800mのところにあったとしよう。

これに対してトウヨウミツバチはコミツバチよりゆっくりとした頻度でダンスをして、オオミツバチはこのコミツバチよりさらに速い頻度のダンスをする。

つまり餌場が800mと同じであっても

行動半径の短いトウヨウミツバチにとって「遠いところだよ」となり、コミツバチにとっては「まあまあの距離だよ」となるし、行動半径の長いオオミツバチにとっては「近くだよ」となる。

このオリジナルの論文はここにある。

 

アファナシェボ文化とトカラ語

前日の記事でアファナシェボ文化に触れたがこの文化圏はトカラ語派圏と重なる地域である。アファナシェボ文化圏はシベリア・ミヌシンスク盆地のアファナシェヴォで最初に発掘調査されたが、現在のモンゴル西部、新疆ウイグル自治区北部、カザフスタン中東部にまで広がっていた。だからモンゴルといっても西端が含まれるのにすぎない。

この地域は西暦800年ごろ死語になったインド・ヨーロッパ語族の一つであるトカラ語圏と重なる。トカラ語派を話す人たちはミイラのDNA型鑑定の結果、アファナシェヴォ文化を担った集団と非常に近く、個体の7割が南シベリアに特徴的なミトコンドリアDNAを持っていたため、北方から南下して来たことが明らかになった。

司馬江漢:火星までの距離

司馬江漢著 『和蘭天説 (Oranda tensetsu)』寛政8年 (1796)の中で地球から火星までの距離として

三千四百二十六万五千一百二十五里

と記している。一里を4kmとするとこれは

1億3706万km

となる。

火星が地球に最も近くにくるときの距離は

5759万km~1億142万kmであるので司馬江漢が記した値はそんなにおかしな値ではない。典拠は何であろうか?

ケプラーの第三法則

ケプラーは有名な三つ法則を太陽系の惑星の運動に関して発見している。第一の法則は地動説にたってみると火星の運動は太陽を一つの焦点とする楕円運動であること。第二は火星は太陽から離れているときはゆっくりであるが、近いと速い速度で運動するという「面積速度一定」の法則があること。これら二つの法則は太陽から火星までの絶対的な距離のデータは必要としない。火星の遠近(相対的な距離)は火星の明るさの変化で推定できる。これらの法則は1609年に公表されている。

第三法則は太陽系を構成する惑星の間に成り立つ法則で、少し様子の異なる。「惑星の太陽からの平均距離の3乗と公転周期の2乗との比は、惑星によらず一定である」とよく表現される法則で、1619年の公表された。この法則の確認には一つ一つの惑星の平均距離が必要になる。よく考えれば惑星ごとの平均距離の比(木星の平均距離は火星の平均距離の3倍とか)でよい。さらに考えれば、地球より太陽に近い内惑星(水星、金星)は地球からみてその惑星が太陽から最大離れる角度(最大離角)の値が観測できるので、その離角の比が平均半径の比になる。この値で水星、金星に第三法則が成り立つか確認できる。さらに木星の衛星(4つ)を使うこもできる。木星の衛星の運動はミニ太陽系である。各衛星が木星か最大離れる角度が衛星間に平均半径の比になるからだ。

ケプラーが第三法則を発見するに際して使ったデータの詳細が不明であるが、地球より外側にある惑星の距離のデータはまだなかったと思われる。例えば火星までの距離はケプラーより約50年後の1671年にカッシーニの観測で初めて得られた。もしかしたらケプラーは内惑星(水星、金星)だけ使って第三法則を出したのかもしれない。

 

天文学:宇宙観からの脱却

1543年にコペルニクスの「天体の回転について」が出版されて太陽系の地動説が登場、ガリレオによる木星の衛星の発見もあり、太陽系のモデルとして地動説が不動のものとなり、新しい宇宙観が確立した。

この新しい宇宙観を以って個別科学の天文学の確立と言えるのだろうか?

天文学の研究対象はもちろん天体である。この天体の特徴は「手にとって眺めることができない」ことである。天体の実体の把握は目的の天体までの距離がわかって始めて可能になる。この点で、太陽系の大きさを問題とし、地球と火星との間の距離を実測したカッシーニの業績を以ってヨーロッパで個別科学としての天文学が確立したと見たい。コペルニクスから約100年後である。

火星までの距離

火星の表面で地震を観測したという話題が今朝の新聞に載っていた。米国の探査機「インサイト」の観測である。「インサイト」は2018年11月の火星地表に着陸。地震計で地表の地震波を測定した。火星では火山活動が起きておりそれによる地震(最大でM4.0程度)が起きていると思われている。

ところで地球から火星までの距離を最初に問題にし、観測を試みたのは誰で何時ごろのことだろうか?

資料によれば

それはカッシーニであり、太陽系の大きさを問題にし、1671年に地球と火星の距離を測定したのが最初である。恒星の距離測定には年周視差が用いられるこの方法で恒星の距離測定ができたのはこれより200年後のことである。

カッシーニが用いたのは地心視差で地球の表面の遠く離れた二つの地点で同時に目的の天体を測定する。二点間の距離が分っていて天体を見込む角度がわかるので地表からその天体までの距離が出せる。

この年には火星が近日点を通り過ぎていており地球からも近かった。南米のカイエンヌでフランスのジャン・リシェが測定しているのと同時にカッシーニとジャン・ピカールはパリからの火星の位置を突き止めた。この観測は使用機器の質が悪かったが、カッシーニは地球と火星までの距離を出した。

ここまでできれば、太陽から火星の距離なども推定でき、太陽系の大きさも概算できる。

 

日本で天文学が意識されたのは何時ごろか?

個別科学としての天文学が日本で意識されたのは何時ごろのことであろうか?

年表によれは明治五年(1872)南校ではフランス人レピシェを雇い入れ数学・天文学の教育にあたらせた。天文暦学とは関わりのない、純然たる天文学教育の始まりである。この純然たる天文学教育は星学(せいがく)と呼ばれていた。

この星学という言葉は司馬江漢著 『和蘭天説 (Oranda tensetsu)』
寛政8年 (1796)の中に見える。「天文学三道あり、一は星学(セイガク)、二は暦算学、三は窮理学なり」

窮理学は物理学のことである。

最初に講義された「星学」の具体的な中身については不明であるが

遠西観象図説(1823)には

「六星の大小及び其運行遅速距離遠近等、傍通(〈〉みとうし)して目(〈注〉めのへ)にあり。実に星学家坐右の珍宝なり」

とあり、星学では惑星の運動、惑星の距離などが議論されたと思われる。特に惑星の距離はその惑星の実体を知る上で不可欠なものであり、これが議論されるということは「星学」は本物の天文学になりつつあることを示している。

この「星学」が司馬江漢の時代に現れたということは、この時代あたりから洋学を通して個別科学の天文学が日本でも意識され始めたと言ってよいと思われる。

学問を科学にする三要件

「日本の唯物論者」の中で著者の三枝博音は学問を科学にする三つの要件をあげている。

第一は人民大衆である。大衆に触れさせない。大衆に秘密になっている。大衆の幸福と生活が考えられていない。このような学問は科学とはいえない。

儒家の一人の言

「学問は王家の嘉謀なり」(つまり人民を支配する道具である)

これでは学問は科学にはなりえない。

第二は自然である。これは三浦梅園の言葉が当を得ている。

第三が確実性である。言い切ることができることである。

これには自然の対象を孤立系(空間的にも時間的にも限定されたもの)と見なして見る視点が重要になる。この視点が個別科学の発展を促し、法則性(つまり言い切る)の発見を促したと考えられる。東洋の学問は関連性に重点を置いた(たとえば、大宇宙と小宇宙(人体)との対応関連、これは最たるものであるが)ことと対照的である。