あそびと知識:「リグ・ヴェーダ讃歌」にみる

「われ、汝に大地の尽きるさいはてを問わん。われ、汝に大地の臍のいづくに在りやを問わん。われ、汝に雄々しき種馬の種につき問わん。われ、汝に弁論の最高の場を問わん。」

これはリグ・ヴェーダ讃歌(紀元前1200年ごろの最古のヴェーダ文献。バラモン教の最高聖典で1018の歌からなる)の第一巻164歌である。ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」ではこれを祭僧(バラモン)たちが祭儀の際におこなった「知恵比べ」がヴェーダの詩句として残されたものだとしている。

これは形式からも問いの内容からも禅宗の僧が行っている「禅問答」に大変に似ている。

「あそび」と知識

太古の人にとっては、何かを知っているということはそれ自体魔力であった。彼にとってはどんな知識でもことごとく世界秩序そのものと直接の関係があるからである。それ故に、祭祀におけるあそびとして力くらべなどの競技と同じく知識の競技が行われた。

ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」では祭祀の重要な一部であった「謎解きあそび」を古代インドのヴェータ文学から説く解す。

日本の祭りでも綱引きや相撲が祭礼の重要な一部となっている競技の例が多い。祭礼における「言葉あそび」としては「祭文(さいもん)」がある。

「あそび」と法律

裁判というのは法廷という日常から離れた特別な空間で、法服と鬘まで着けた法官が登場する。これらは「あそび」の形式的な特徴である。

ギリシア人のあいだでは法廷での両派の抗争は一種の「討論」とみなされていた。厳しい規則に従いながら抗争する二派が審判者の裁きを要求する闘争であった。訴訟は競技であった。

訴訟における正邪より、原始的な法意識の奥深くに遡ってゆくほどに勝利の期待という要素が強くなる。「あそび」の要素が前面にでてくる。

ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」より

 

「あそび」と文化の関係

ホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」は言う:

「『あそび』から文化になる」ではない。
「文化の中に遊ぶという行為の席があった」ということでもない。
「『あそび』から文化へという発展過程がある」ということでもない。

著者は

「文化は『あそび』の形式のなかに成立したこと。文化は原初から遊ばれるものであった」

と主張する。

「原始人の共同体の生活に、動物より価値の高い、単なる生物的なものを越えた特性を保たせていたもの、それがさまざまな形態のあそびである。このあそびのなかで、共同体は生活と世界についてのかれらの解釈を表現した。

文化とはただわれわれの歴史的判断が、この与えられたものに対して名づけた名称でしかない」

「あそび」と闘争

ルールのある闘争、例えば刀を使った真剣勝負もまた「あそび」の範疇に入る。「槍のあそび(asc-plega)」などの詩的比喩で「あそび」ということばを使うことがあるが、武器による真剣勝負もそこにルールがある限り「あそび」である。

楽器を演奏する、たとえばピアノを弾く(play the piano)は英語では「あそぶ」と同じplayである。そうだ、楽器を演奏するのは「あそび」なのである。面白いことに、歌を歌う(sing a song)はplayとは言わない。「道具を使う」かどうかということかもしれない。日本には「演歌」というものがある。play with the voiceかな?

ーホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」を読みながら

「あそび」における神聖な真面目さ

「あそび」と真面目の対比を一つの絶対的なものと見なす習慣をわれわれは持っている。

しかし

子どもは完全な真面目さーこれは神聖な真面目さといってよいーの中で遊んでいる。スポーツマンも献身的な真面目さと感激の熱情に溢れてプレーする。このように「あそび」と真面目さの対比は絶対的なものではない。

この考えは祭祀を執り行っている司祭までやはり一種の「あそび」をしている人間という考えかたに繋がる。

考えてもみよ

「あそび」の形式的特徴のなかで日常生活から空間的に分離されているということが最も大事だと指摘した。これは祭祀でも然りである。薬師堂の火渡り神事における「結界」という神事は正にそこの場を特殊な聖なる場とみなすことである。この形式的な一致は「あそび」と祭祀の精神的な領域にまで拡張できる。

しかし

本当の「あそび」は「本当らしく見せかけて、そのふりをしてやっているだけなのだ」という意識が深いところにある。

この特徴も祭祀にはある。

ーホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」より

過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ

これがウンベルト¥エーコ著「薔薇の名前」の最後の語句である。

薔薇は花弁が五枚のことから五芒星(ごぼうせい)に関連付けられ、金星の象徴とされている。そこから発展して太陽神信仰、小宇宙と大宇宙の対応といったキリスト教から見ると異教的なものである。

「過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」

「あそび」と祭祀(さいし)

祭祀とは物事を形象化してイメージを創り出すことによって現実にとって代わるものを生み出す行為である。時が巡って季節の聖祭が再びやってくると、共同体は自然のなかに起こるさまざまの偉大な事件を神に奉げまつる行事に演じて祝う。

人類は自然の秩序をかれらの意識の上で捉えたそのままの形で演じ遊んでいるのである。

ーホイジンガ著「ホモ・ルーテンス」より

そして人々は何の理由もなく遊ぶ。

「あそび」の三つの形式的な特徴

ホイジンガは「ホモ・ルーテンス」の中で「あそび」の三つの特徴を挙げている:

1.「あそび」は一つの自由な行動である。命令されてする「あそび」、そんなものは「あそび」でない。この自由な性格によって「あそび」は自然な過程がたどる道筋から区別される。

2.「あそび」は「日常の」あるいは「本来の」の生ではない。幼い子どもでももう遊びというものは「ホントのことをするふりをしてするもの」だと感じている。

3.「あそび」は日常生活からその場と持続時間とによって区別される。それは定められた時間、空間内で「行われ」、その中で終わる。「あそび」の時間制限より「あそび」の空間的な制限が目立つ。

これらに加えて

「あそび」の場の内部は一つの固有な絶対的秩序が統べている。

「あそび」についての名言

ホイジンガは「ホモ・ルーテンス」の中で言っている

「あそびというものが現にあるということが、宇宙の中でわれわれ人間が占めている位置の超論理的な性格を絶えず幾度と無く証明する理由になっている。」

「動物はあそぶことができる。だから動物は単なるメカにズム以上の存在である。われわれはあそびもするし、それと同時に自分があそんでいることを知っている。だからこそわれわれは単なる理性的存在以上のものである。なぜなら、あそびが非理性的なものだからである。」