昨日の雨は激しく「車軸を降らすような」雨だった。

この「車軸を降らすような」雨という表現はよく使われる。

広辞苑によれば

「車軸を下す」また「車軸を流す」とも言う。雨が車軸のような太い雨足でふることの意である。盛衰記に「折節降る雨車軸を下して」とあることを紹介している。出典は不明。

昨日の雨では箸のように延びた雨垂れが落ちてきたが、「車軸を降らす」とは雨垂れの形が太いばかりでなく、長く伸びたものになったことを形容しているのかもしれない。

 

 

また?!左巻きツブ貝:南三陸の漁師金華山沖で発見

今朝の河北新報の記事のタイトルである。

発見したのは漁師の星さん。貝は「コエゾボラモドキ」というツブ貝で通常は殻の頂点から右巻きに成長するが、これは左巻き。画像はここ

水深250メートルに設置したミズタコの籠漁の籠の中に入っていた。殻の長さが約10センチの左巻きのツブ貝である。

南三陸町の志津川湾でも昨年11月左巻きの「ヒメエゾボラ」が見つかっている。

巻き貝の巻く方向は、種によって決まっているのが普通である。9割の種が右巻きと言われているが、理由はよくわかっていない。巻く方向は1個の遺伝子か強く連鎖する複数個の遺伝子によって決定されるという。発見された左巻きのツブ貝は突然変異体である。

 

 

ヨーロッパ中世における賎民

ヨーロッパ中世においても被差別民がいた(中世賎民の宇宙(阿部謹也著))。

日本の中世とヨーロッパ中世との決定的違いはヨーロッパにおけるキリスト教の存在である。キリスト教下では日本のように「穢れ」の蓄積が病気や不運の原因になるといった観念はなかったと思われる。それにも拘わらず、革剥、羊飼、牧人、犬革なめし工、家畜を去勢するものなどが差別された。

農村における共同体の発展や都市におけるギルドの発生によって社会の組織化が進み、これらの組織の枠外にある人々が出てきた。これらの人々が被差別民であった。枠外にあることが直ちに蔑視に繋がらないが、利害が対立する中で「蔑視」の雰囲気が醸成されたのかもしれない。

 

「穢多」(えた)ということば

奈良時代には穢れ(けがれ)を酷く嫌いそれが自分の体に蓄積すると病気や不幸の原因とされ如何に穢れを無くすかが真剣に考えられた。

そのころから「「穢多」(えた)の事なり」として差別された人々がいた。この「穢多」という言葉は「そのひとに穢れ(けがれ)が多い」からか、または「そのひとが穢れ(けがれ)が多いと考えられていたものに従事していた」からか。

多分後者であろう。

塩は当時から特別の物質と考えられていた。腐敗を予防するなど何か神秘的な力を持っている物質と考えられていた。「穢多」の人々はこの塩を使って穢れ(けがれ)を清める特別な能力を持っていて天皇や寺社の管轄下にあってある種の特権、例えば塩の専売権を与えられていた。

南北朝以降天皇や寺社の権威が落ちてくるに従って「穢多」の人々に対する評価も変化した。商業の発達によって塩がより普及することによって塩の神秘性、延いては「穢多」の人々の神秘性も失われていった。

このような状況によって次第に「穢多」の人々に対する蔑視の環境が醸成された。

星の年齢:宇宙で最初に生まれた星

まず太陽が誕生してから何年になるかという問題である。

その直接的な検証はできないが地球上で一番古い岩石の年齢が48億年であることから太陽は誕生から50億年程度たっていると思われる。

このように単独の星の年齢を推定することは難しいが星団に関してはそれを構成する星が同時に誕生したと仮定すると恒星進化論との比較でその星団の年齢は推定できる。球状星団に年齢が古く130億年というものもある。

星は宇宙進化の過程で誕生したと思われるので宇宙の初期に誕生した星の情報が得られれば最初に生まれた星ということになる。宇宙は誕生から膨張しており宇宙の初期に誕生した星の光は赤方偏移を受けて観測される。この赤方偏移の度合いを膨張宇宙のモデルと比較するとその星に年齢が推定できる。最近の観測で約138億年前のビッグバンから約3億年後の宇宙最初期の銀河(星)が見つかっている。

宇宙の初期では物質は水素とヘリウムの形をとっていてそれより複雑な元素が存在しないと考えられている、複雑な元素は星の内部で生成される。星から来る光の分光観測で星の表面付近の元素の存在に関する情報が得られる。この情報からその星が誕生したときの元素分布の推定できる。重い元素を含まない星はより初期に誕生したと考えられるので、重い元素を含まない星が観測されればそれは初期の星ということになる。そのような星が観測されている。われわれの銀河の中にあってその一つは推定年齢は135億年となっている。

宇宙が一様であるとすると約138億年前のビッグバンから約3億年後の宇宙最初期の銀河は我々の住んでいる銀河の135億年まえの過去の姿である。太陽は存在しないが、古い球状星団は誕生して重い元素を欠く星が誕生したような時代である。

「穢れ」(けがれ)と香

古代の人々にとって病気や怪我や不運などの悪いことは身体の溜まった「穢れ」のせいとされた。この「穢れ」を除く方法は沢山あった。その一つは人形にその「穢れ」を移しその人形を川に流せば「穢れ」も流れて行くというものだ。

古代のインドではさまざまな香はこの「穢れ」を取り除く効果があると考えられた。仏教で使われる線香を含めさまざまな香はこのようなインドの思想によるのかもしれない。

レクトール・チャンセラー・プレジデント

レクトール・チャンセラー・プレジデントは何れも大学の学長に対応する名称である。レクトールはヨーロッパ中世の大学で国民団の中から選ばれた自分たちの長を呼ぶのに使われた。任期が短いのが特徴で一ヶ月という短いものもあった。

プレジデントは大学に理事会がありそれが選んだ学長で、大学の部外者がなることもある。アメリカの大学の学長の呼称である。

チャンセラーは教会もこれに関わる形で選任されるイギリス型の学長の呼称である。名誉職の色彩が強い。現在でもロンドン大学などエリザベス女王がチャンセラーになっている大学が多い。

「中世大学都市への旅」(横尾壮英著)より。

ヨーロッパ中世における親族の墓あらし

Newscientistの記事のタイトルである。

ヨーロッパ中世初期に親族の墓を暴いて財宝を持ち去るという風習がはやった。これは単なる墓あらしと思われていたが最近の研究ではそのように単純なものではないことが分ったという話である。

ストックホルム大学の研究者たちは西はブリテンから東はトランシルバニアにある中世の墓に関する記録を解析した。これらの墓は紀元500-800年にわたる期間に亘るものである。

大部分の墓が暴かれ物が持ち去られたことが判明したが、奇妙なことにその墓の中の最も貴重なものが常に持ち去られたというわけではないことが判明した。

例えばケント州のある墓では遺体の衣服からブローチが持ち去られているが、銀箔のペンダントやガラスの数珠でできたネックレスは残されていた。

 研究者のAlison Klevnäsは「墓暴きは最大の利益のみを狙ったものではないように見える」と語っている。

傾向としては剣やブローチといったその親族に数世代に跨がって伝わってきた品々が持ち去られている。ナイフなど個人に繋がる品々は残された。

少数ではあるがもっと不気味な理由で墓が荒らされた証拠が見つかった。ある地域に跨った墓では不死を怖れて遺体に細工をした証拠があった。

「遺体は土に埋められその後は全く手をつけないというのは普遍的ということから遠く離れた観念である」とKlevnäsは語っている。石器時代には墓は生きている人々が遺体と再度対面できるように造られていた。今日でも生きている人々が遺体の残物と面会するような風習や祭りを持っているような文化は数多くある。

中世の大学と国民団(ネイション)

中世の大学で最も重要な集団の単位が国民団(ナテイオ)であった。出身地を同じくするものが相互の利益を守るために大学のなかで結成したものである。

例えばボローニャにはフランス、イギリス、ピカルディ、ブルゴーニュ、ボルドー、カタロニア、ハンガリー、ポーランド、ドイツなど十三の国民団があり、イタリア出身者のために四ないし三つの国民団があった。国民団は大学の重要事項を決める単位であった。中世の大学は国際的かつ学際的であった。

この初期の大学の特徴は国境という枠によって強く規制され、学問の単位として学部を重視する傾向とが強まることによって無くなってゆく。