パノラマ風写真展:「組写真の世界」

パノラマ風写真展の第二弾。組写真の展示である。

  • 組写真は別フーレムのギャラリーとして表示するようにした。その際余計なリンクが表示されないようにした
  • 写真に繋がるホットスポットを

で示し、それと分るような画像にした。

数学や物理学は男性的イメージ:ジェンダー不平等が影響

今朝の新聞のコラム欄の記事のタイトルである。

東京大学の横山広美教授たちの研究グループは数学や物理学にまつわる男性的なイメージの要因を探るため日本人1177人と英国イングランドの1082人を対象にアンケート調査を行った。

その結果、①数学や物理学を学んだ後の職業が男性向きだと思うひとほど、②女性は男性に比べて数学的能力が低いと思う人ほど、③数学や物理学の進学する人は一般的に頭が良いと思う人ほど、数学や物理学は男性的と見なす傾向が強いことが分ったという。

この傾向の背景には女性が知的であることに否定的なジェンダー不平等が根強くあると研究者たちは指摘し、「理系に女性が少ない問題は単なる個人の選択の問題ではなく、社会の問題であることを示している」とコメントしている。

筆者はこの記事を読んで、この問題にはジェンダー不平等の問題と数学や物理学を含む自然科学と人文科学との間にある不平等の問題とが絡まってあるように思えた。

初午:国分町馬市にぎわう

今朝の河北新報の「故事祭菜」(菅野正道さん)の記事のタイトルである。

かつて仙台藩領は日本屈指の馬産地だった。

仙台城下で馬市が開かれた場所が城下の中心に位置する国分町だった。江戸中期の資料では毎年3月上旬から4月中旬まで行われたという記録がある。国分町は元々仙台城の東に位置する国分寺の門前町だったものを政宗が城下内に移してきた町人町だった由。馬市は国分寺門前町の時代から開かれていたが、城下に移っても継続された。

馬市当時の国分町も今の国分町も東北随一の人の集まる場所で多くの金が動くところが共通だ。

それにしても現在の国分町に馬市の面影が残ってるのだろうか?国分寺門前町には今の木ノ下駒という民芸品が残っている。

The Book of Bread:二十世紀初頭の写真の役割

“The Photobook: A History”(Martin Parr and Gerry Badger)によれば二十世紀初頭では事実を丁寧に記録する媒体として写真が大きな役割を果たした。その一例は”The Book of Bread”である。1903年刊行の本である。

この本は工場でのパン生産技術を詳述した技術書で著者はOwen Simmonsである。多くの写真が挿入されているが、撮影者の氏名は触れられていない。

掲載されている写真の例:

写真1

写真2

 

 

奈良:「幻のヤマトの道」

天理市の近くに都祁(つげ)という地名のところがある。この地名の村では弥生時代後期前後の遺物が数多く出土するという。「大和路散歩」のなかではこの都祁(つげ)を含む道を「幻のヤマトの道」として紹介している。

筆者が興味をもった点は、この地がその後の大和権力の発祥の地かもしれないという点だ。大和権力は大和盆地を基盤としてるがこの地は大和盆地の縁にあたる土地であり、弥生時代後期では人口密集地であったからだ。この中から部族長的な存在が成長し大和権力へと成長したのかもしれない。

この都祁の近くに白石の国津神社がある。この神社の東側に豊かな田園を挟んで二つの峯をもつ野野上(ののかみ)岳がある。向かって右にある峯が雄ヶ岳、左が雌ヶ岳で、この二つの峯の中間(これは二つの峯の間の鞍部のように見える)に向かって田園の中に四ヶ所の叢林がある。これをやすんばという。画像はここ

白石の国津神社から見て朝日が峯の中間から出現する時期がこの里で稲の播種の時期であるという。これが面白い。これは大陸から暦がもたらされるずっと以前から日本にあった自然暦の伝統である。このような自然暦は日本の各地に残っているが、この都祁の例は稲作が始まった当初からあったもののように思える。

 

奈良:「石仏の道」

このブログでも奈良にある巨石遺構を話題にした(飛鳥道の巨石文化)。奈良には石仏も多い。「大和路散歩」では頭塔(ずとう)から東に向かい柳生街道を進み円成寺にいたる道を「石仏の道」として紹介している。確かにこの道は石仏が多い。

主なものを挙げると

  • 頭塔の石仏:塔(方形土壇)のまわりに十三個の自然石がありそこに仏菩薩などが薄肉彫で刻まれている。
  • 寝仏:柳生街道の旧道である滝坂道にある。
  • 夕日観音:「その表情笑ふか如く、また泣くがごとし」(会津八一)
  • 朝日観音:弥勒仏で鎌倉中期の文永二年(1265)の作。
  • 春日山石窟仏:東西二窟に金剛界と胎蔵界の諸仏を彫出している。平安末期の作。
  • 地獄谷石窟仏:線刻されたもの。平安時代の作。彩色は昭和。

以上と多彩である。この道には新薬師寺(十二神将像)や円成寺(大日如来像)といった興味ある仏像が見られる道でもある。

 

The Pencil of Nature:世界最初のフォトブック

“The Photobook: A History”(Martin Parr and Gerry Badger)という厚めの本がある。フォトブックの歴史を詳述したものである。その冒頭に出てくるのが”The Pencil of Nature”である。「自然によるスケッチ」とでも訳されるタイトルの写真集である。

この本は写真が挿絵に使われて出版された世界最初の本で、著者は W. H. F. タルボット(William Henry Fox Talbot )である。1844年から1846年にかけて6分冊としてロンドンで出版された。フランスのニセフォール・エスプリが世界最初の写真を撮った1827年から約20年後のことである。

この本ではタルボットが開発したカロタイプ(ヨウ化銀による撮像法)の詳しい説明があり計24枚の写真が手貼りされている。この本は写真の歴史の上で画期的なものでこの本の出版は「本の芸術」上、グーテンベルグの活字の発明以来の画期的な出来事である。

当時は一般の人たちには写真は馴染みがなかったのでタルボットはこんな注を入れている:
この本に挿入されている画像は芸術家のペンのような助けを一切なしに光の作用だけで作られたものである。それらは太陽が画家となつた絵で、誤解する人がいるかもしていないが、何かを模倣したエッチングではない。

この本は分冊毎に販売された。タルボットは続分冊の出版を計画していたようだが、本は商業的には不成功で、計画は6分冊で終わってしまった。

以下画像を紹介する。

この本の表紙

挿入されている写真

この写真は写真芸術の潜在的な可能性を示すためにタルボットが選んだという。

シリーズ中唯一人物が映っている写真。露出時間を長くしないと作品にならなかったことが理由の由。

“The Photobook: A History”によれば”Photographs of British Algas: Cyanotype Impression” ( Anna Atkins)が1843年と年代ではタルボットの作品より古いがこちらは個人的な範囲に配布されたパンフレットに近く、フォトブックとしてはタルボットのThe Pencil of Natureが世界最初のものである。

スクエア・フォーマット(6×6)に纏わる話題

フィルムカメラの世界では35ミリ版(24X36ミリ)が一般的な画角である。ライカが最初にシネサイズの18×24ミリ判の2コマ分を1コマとして使ったことに由来する。小型カメラの画角はこれが標準で、僅かにその半分を使った画角がその変種である。このハーフ・サイズのカメラとしてはオリンパス・ペンが有名である。変わったところではソ連製のアガート18Kといったものもある。

ソ連製のカメラ、左がアガート18K

ブローニー・フィルム(幅6センチのロールフィルム)を使った所謂中版カメラではもっと自由度がありさまざまな画角が使われてる。6X4.5センチ版、6X6センチ版、6×7センチ版、6X8センチ版、6×9センチ版がある。6X4.5センチ版は35ミリカメラから中版カメラに移行した写真愛好者が使っていた。筆者もマミヤ645プロTLでこの版を使ったことがある。6×7センチ版も使ったことがある。カメラはマミヤプレス スーパー23で1967年製の古いカメラであった。

マミヤプレス スーパー23

表題の「スクエア・フォーマット」は6X6センチ版のことである。スウェーデン製のハッセルブラッドがこのスクエア・フォーマットの専用機として有名である。ドイツのローライSL66も専用機である。

ディジタルカメラになるとこの画角はアスペクト比(縦・横比)と表現される。一台のカメラでさまざまなアスペクト比が設定できるようになっている。筆者の使っているソニーRX10M4では3 : 2(アスペクト比1.5)、4 : 3(アスペクト比1.3)、16 : 9アスペクト比1.7)そして1:1(アスペクト比1.0)の画角が使える。3 : 2は伝統的な35ミリフィルムカメラのアスペクト比である。一方、このカメラの撮像素子は1.0型(13.2mm x 8.8mm) であり、アスペクト比は3:2であることに注意する必要がある。アスペクト比3:2以外で設定できるアスペクト比はソフト的にできるということである。

スクエア・フォーマットが面白い。最近はこのフォーマットで写真を撮っている。その一端はここにある。