徒手調教(work in hand)

馬の調教は”長い調馬索を持ち大きな円周の中心に立って馬を円周に沿って走らせる”。このような風景を良く見かける。こと調教では馬の基本的な歩様、常歩、速歩、駈歩をリズム良く走れるように調教する。
面白い調教として、「徒手調教」(work in hand)がある。これはトレーナーは短めな調馬索を持ち馬と一緒に走る。もちろん馬は鞍もサイドレイン(固定手綱)も着けている。この調教スタイルはレバートやカプリオールなど馬が地上を離れて浮遊する部分を含む演技の訓練で見られる。この徒手調教は二本の柱の間に馬を固定して行われることもある。このよな古典馬術の訓練は今では見たことがないが、絵画などに描かれている。以下の画像はJulius von Blassの油絵「スペイン乗馬学校の朝練」であるが、左の方に二本の柱の間ど訓練している馬が見える。

油絵「スペイン乗馬学校の朝練」
油絵「スペイン乗馬学校の朝練」

Dala horse

昨日は天気がよかったので自転車で駅裏のホースギャラリー・チモシーに行ってみた。そこで珍しい馬の置物をみた。それがDala horseである。これはスエーデンの民芸品で、”幸福を呼び込む”馬として知られているものである。

コンクリートで作った巨大なDALA HORSE
コンクリートで作った巨大なDALA HORSE


スエーデンのDalama地方の民芸品で日本のこけしと同じような子どものおもちゃが起源であるらしい。木彫りであるが、ペイントの仕方が独特で、刷毛の表・裏に別カラーの顔料を着けて一気にペイントするらしい。この方法は今も使われていて、発明者はErik Eriksonという人物で、60歳でアメリカに移民してネブラスカの小さい教会に埋葬された(buried at Bega Cemetery in Stanton County Nebraska, outside of Norfolk.)と言う話である。ノーフォークには大きなライブ・ストックがあり一度見学したことがあった、懐かしい場所である。

五千万年前の馬

約5000万年前に地球が急激に温暖化したが、生き物はどうこれに対処したか。
こんな問題に対する新事実が発見された。新聞によれば、米フロリダ大学の研究チームは当時の馬の化石からこの時代の馬の生き方を再現してみた。
この温暖化の時期は温暖化極大期(PETM)とよばれ、大気中のCO2が、地球上の火山活動の活発化によって増加して温暖化が急激になった。この時期の馬の化石は極めて小型で、体重にして3.9キロしかないことがわかった。

写真は現在の馬と当時の馬の大きさの比較(Scienceより)
写真は現在の馬と当時の馬の大きさの比較(Scienceより)


一般に温度の高い環境では動物は小型化する。これは「ベルグマン法則」というが、今回に発見もその実例である。

現生のウマ起源

現生のウマは全て、祖先をたどると16万年ほど前に生きていた雌にたどり着くそうだ。
欧米の研究グループが世界各地にすむウマのDNAを調べた結果だ。アジア、ヨーロッパ、アメリカの各地にすむウマ83匹のミトコンドリアDNAの塩基配列を調べ、比較した。ミトコンドリアDNAは母親のものだけが子どもに伝わるため、母系の系列を調べることができる。
結果は、この83匹のDNAは18系統に分類された。これを1つ纏めようつすると16~13万年が必要になる。だから16万年あたりまで遡ると一頭に雌ウマにたどり着く。
ウマ科の動物は数千万年まえにこの地上に出現したと思われているが、氷河期を乗り切ったウマは多くないので83頭の出発は割と最近になっているとの由。また、18系統への分岐が8~5千年まえに集中していることは、家畜化とに関連もあるかもしれないとしている。
家畜化されたウマは形態や地域かた四つのタイプに分類されているが、この分類と今回の結果との関係には興味がある。

「馬の鼻息で煮える」

成瀬宇平箸「魚料理のサイエンス」にあった言葉:「鱈は馬の鼻息で煮える」である。鱈は冬の魚で北国(北海道や東北地方の日本海や太平洋)で獲れる。身肉が身割れしやすいので簡単に火が通るので上の諺が出てくる。この身割れの原因は筋肉のブロックを包んでいる筋節という結合組織からくるそうだ。この結合組織はコラーゲンとエラスチンからなるが、鱈の場合はエラスチンが多い。コラーゲンは加熱するとゼラチンになるが、エラスチンはそのまま残る。またこれ以外のタンパク質は加熱で凝固するのでブロック間に隙間ができる。これが身割れである。

鶴岡(山形県)の市場で見た鱈
鶴岡(山形県)の市場で見た鱈


馬の鼻息ねー。確かに凄いよね。

軍馬の慰霊碑

以前にこのブログで「戦争に征った馬たち」を紹介した。
仙台市博物館の手前の広場にも軍馬の慰霊碑がある。
碑文には
「昭和6年9月18日以降無言ノ戰士トシテ満洲事変變ニ参加セシ第2師團下諸部隊戰病死馬87頭ノ霊ヲ合祀ス」とある。

軍馬碑
軍馬碑

レヴァード(Levade)

高等馬術の演技の一つにレヴァード(Levade)がある。
ヴァードでは前肢を折り曲げて、低くした後肢の飛節に馬体を載せる体勢で数秒間静止の状態をとる。多くの乗馬記念碑ではこのようなスタイルの馬や騎乗者のものが多い。例としては、ウイーンのヘルデンプラッツ(Heldenplatz)にたっているサヴォイ(Savoy)のユージン皇太子(Prince Eugene)の像がある。嘗ては、馬の前肢も後肢も空中にするレヴァードは乗馬学校や騎乗者に課せられた課題の一つであった。このような体勢の馬は多くの銅版画や絵画でみることができる。今ではこのレヴァードの生の演技はスペイン乗馬学校でのみ見ることができる。

レヴァード(Levade)
レヴァード(Levade)

甲斐の御牧

磯貝正義「甲斐の御牧」(馬の文化叢書2 古代:馬と日本史I)には平安時代に甲斐の国あった御牧で飼育されていた馬の数についての推定値が載っている。
甲斐には武蔵・信濃・上野とともに、駒奉の駒の供給地である御牧が置かれていた。御牧は勅旨牧で、当初はもっぱら皇室の料馬を潤沢にする目的で勅旨をもって設定されたものである。牧にはそのほかに国牧・近都牧・国飼などがあった。御牧は左右馬寮の管轄で、奈良時代に遡って作られたものらしい。
延喜式時代()での御牧の数は、甲斐国は柏前・眞衣野・穂坂の三牧、武蔵国は立野牧など四牧、信濃国は望月牧など十六牧、上野国では利刈牧など九牧で、合計三十二牧となる。
これらの牧にいた馬の頭数は以下のように推定される。
この牧から年貢として納めた馬数が記録にある。それによれば
甲斐国六十匹(柏前・眞衣野牧三十匹、穂坂牧三十匹)
武蔵国五十匹(立野牧二十匹、その他六十匹)
信濃国八十匹(望月牧二十匹、その他六十匹)
上野国五十匹
とある。甲斐の国の頭数は牧の数にたいして大きいのは一つの牧の規模が大きかったせいである。これらの頭数は年貢として献上された馬の数であるが、その頭数はそれぞれの牧の規模やその牧で飼育されている馬の頭数に比例していると考えてようだろう。
信濃国については、五十一年後の延喜式撰進時点の牧馬数が記録にある。それは二千二百七十四匹である。この数を信濃国の年貢馬数で割ると28.4とでる。この計数は他の牧にも当てはめると以下のように各牧で飼育されていた馬の平均数が出てくる:
信濃国         二千二百七十四匹
甲斐国 柏前・眞衣野牧 四百二十六匹
穂坂牧               八百五十二匹
武蔵国         千四百二十一匹
上野国         千四百二十一匹
さて、甲斐国の三つ牧がどこにあったかであるが。眞衣野牧、穂坂牧についてはかなり確かなことがわかっている。眞衣野牧は釜無川の上流、甲斐駒ヶ岳の山麓にあたり、今の北巨摩郡武川村牧ノ原がその遺称である。穂坂牧は茅ヶ岳の山麓地帯、今の韮崎市穂坂町に比定されている。柏前牧については諸説あるが、磯貝氏は北巨摩郡高根町樫山をもってその遺構とする説を採っている。
駒ヶ岳・茅ヶ岳・八ヶ岳という山岳地帯で牧場の発達に適した場所である。そして、これらの場所は後年の甲斐源氏の根拠地でもある。

ドサンコの起源

日本の在来馬で国際的に知られている馬はドサンコ(北海道和種馬)である。本州の南部馬や木曽馬などが絶滅危惧になるほどに減少してしまったのに、なぜ北海道に在来種が残っているのか不思議でだ。
ドサンコの起源は江戸時代まで遡る。
江戸時代には北海道は松前藩が支配していたが、松前藩士が蝦夷地(北海道)に赴任するときに本州から馬を持ちこんだ。任期が終わるとその馬を原野に放して人だけ本州に引き上げていた。これを繰り返しいる中で北海道の馬は増えてきたと言われている。一方、アイヌはこの馬を捕まえて家畜として使役した。馬の扱いの巧みなアイヌのお陰で北海道の馬は、北海道の風土に適していたこともあって、増えてきたと考えられている。
それにしても二十世紀の初めに150万頭もいた日本の馬はどこえいってしまったのだろう。

馬への挽歌ー遠野

「馬への挽歌ー遠野」という木下順二の同名の随筆がある。そのには20世紀の初めまで遠野で盛んであった「駄賃付け」という仕事について地元の人たち(70代)が語った物語が記されている。
「百姓がだめなら駄賃にでるか」
「駄賃付け」とは自分の馬を三頭から五頭も一人で曳いて荷物(米)を運ぶアルバイトである。遠野で収穫された米を峠を越えて盛岡・花巻・北上の内陸部へ、宮古・釜石・大船渡・陸前高田・気仙沼の浜へ運搬して帰りのは魚や塩を「帰り馬」の背に載せて遠野に帰ってくる。片道三十里(約120キロ)もある。これを日帰りでこなす。馬の背には一斗俵(約15キログラム)を三から四つ積む。馬の数五、六十頭の集団で遠野を出発する。
出発は午前三時ごろ。『保温のためににんにくをまぜた秣を馬に与え、道草をしないように口籠(くちご)を一頭一頭にはめ、いい音に響く鳴輪を頸にかけ、蹄にはこれも保温のために唐辛子を詰めたわらじを履かせる。』
降りしきる雪の中の出発だ。五頭一組ならば、馴れた馬を一頭先頭にして次にこの馬の引き綱を持った馬子が続き、これに三頭の馬が数珠繋ぎになり、しんがりは馴れた馬の順で歩く。道が凍っているときには鉄沓(かなぐつ)をわらじの下につける。
『時としては三尺も積もる吹雪の中で、鳴輪の音は荒い馬の息づかいと共に切れ切れに尾を引いて嵐の中に飛ぶ。そして鼻息は垂氷(たるひ)となって馬の鼻づらに二尺ほとも垂れ下がる。』こんな状況の日もある訳である。
遠野へ帰着するのは深夜になることもあるが、夕方になることもある。夕方だともう一つ仕事が残っている。馬子は酒屋に向かうわけだ。ご帰還は馬に連れられてということもあるわけである。
このように馬も沢山いた。