4万4000年前の物語?

今朝の新聞の記事のタイトルである。

インドネシアのスラウッシ島にはさんご礁でできた洞窟が沢山あり、それらの洞窟の壁面には壁画が描かれたものがあることが1950年ごろより知られていてその数は242箇所にもわたっている。

壁画の描かれた年代は?

2014年にオーストラリアのグリフィス大学とインドネシアの国立考古学研究センターの研究者たちによる年代測定がなされた。4万年前近くに描かれた壁画もあるという驚くべき結果であった。

2017年に見つかった洞窟壁画ではさらに面白いことが見つかった。この洞窟はレアン・ブル・シポン4洞窟と名づけられたもので動物(2頭のスラウェシイボイノシシと4頭のスイギュウ)が描かれていたが、一頭のスイギュウの前には人らしきものが6人描かれていた。この人らしきものは「くちばし」や「尾」ようなものを持っていて当時の人々の想像力によって生まれた「獣人」だという。この壁画の年代測定もされて4万3900年~3万5100年と出た。

こんな古い時代から人類は想像力を働かして世界を見ていたのだ。

この洞窟の壁画の画像はここで見られる。

 

 

ハヤブサの見分ける速さ:人間の2倍以上

今朝の新聞によれば

スウェーデンのルンド大学の研究者たちはハヤブサの見分ける速さを測定し、そればヒトの二倍以上であることを見出した。

光源を点滅させる測定をする。ヒトでは毎秒50-60回以上の点滅であると、この光源は点滅ではなく常時点灯しているように感じる。これがヒトの限界である。だから映画は毎秒60コマの静止画を観客に見せて動画として感じさせている。ハヤブサの実験ではこの限界が毎秒120回の点滅以上にならないと常時点灯とは感じないという結果になった。

動体視力というものがある。ピッチャーの投げたボールが「止まって見える」という表現で動体視力が話題になるが、これは視覚の空間分解能と時間分解能による。空間分解能が同じであると時間分解能が高いと速いボールでもコマ切れ(静止画)のように見えるわけである。

ハヤブサは鳥などを捕獲するとき毎時300キロメートルもの速度で追跡するそうでこの動体視力が物を言うのである。

宋の太祖趙匡胤(ちょうきょういん)の「石刻遺訓」

小説十八史略」(陳舜臣)の中で著者は宋の太祖趙匡胤を大変に褒めている。

この趙匡胤は生粋の軍人であるが、国家の基本に文治主義を貫いたからだ。かれは子孫のため遺訓を石に刻み、禁中の最も奥の皇帝しか入れないところに置き、新帝が即位するとこの遺訓を読むことを重要な儀式とした。この遺訓は三百年も続いた宋王朝の基本姿勢となった。

この「石刻遺訓」には何が書かれていたのか?

一 宋に国を譲った後周王室柴(さい)氏を子々孫々にわたって面倒をみること。

ー 士太夫を言論を理由として殺してはならぬこと。

これが遺訓の内容であった。

第一の遺訓のお陰で三百年の宋王朝の期間柴氏は宋王朝の賓客の扱いを受けた。第二は「言論の自由」を保障したことである。

一将功成って万骨枯(か)る

「己亥(きがい)の歳(とし)」という七言絶句の最後の七言である。作者は曹松(そうしょう)である。反戦の歌である。唐の滅亡が迫り、黄巣(こうそう)の反乱軍が長安に侵攻した時代である。「己亥(きがい)の歳(とし)」は乾符六年(西暦879年)に当たる。

七言絶句の全文は:

沢国江山入戦図
生民何計楽樵蘇
憑君莫話封侯事
一将功成万骨枯

沢国の江山、戦図に入る
生民、何の計ありてか樵蘇を楽しまん
君に憑る、話す莫れ封侯の事
一将、功成って万骨枯る

 

小説十八史略」(陳舜臣)より。

 

 

阿倍仲麻呂と鑑真和上

中国の歴史のなかで唐あたりになると日本に馴染みな名前が現れる。

あまのはら ふりさけみれば春日なる
三笠の山に出でし月かも

これは百人一首にある阿倍仲麻呂の歌である。これは唐の時代に黄泗浦(こうしほ)(揚子江河口の南岸の港)で創った望郷の歌である。かれは遣唐使として唐に来て、その才能を認められ二十六年間も唐の玄宗に仕え、ようやく帰国の機会を得た。そのときの歌である。遣唐使一行と帰国の予定であった。帰国船は四艘からなり、かれは第一船に乗った。この船団の第二船に乗ったのが鑑真和上であった。かれは五度も船が遭難して日本に辿りつけずにいて、これが最後のチャンスであった。

第二船は無事に日本に着いたが、残念なことに第一船は遭難し北ベトナムへ押し戻られてしまった。阿倍仲麻呂は苦難のすえ長安に戻ったが、彼が死んだとおもった友人の杜甫は「晁卿衡(仲麻呂のこと)を哭す」という挽歌を創った。

小説十八史略」(陳舜臣)より。

 

製紙技術の東から西への伝播

紙は中国で漢の時代に発明された。

これがトルコやヨーロッパに伝播したのは唐の時代(西暦700年ごろ)であったという。そのころ唐の版図は西へ大きく伸び、キルギスあった小勃律国なども唐へ進貢していた。

この小勃律国が唐に叛いたので唐の軍隊が遠征した(西暦750年ごろ)。小勃律国は当時西方で大勢力であったアラブのアッパーズ朝に救援を求めた。結果的には、唐軍の中にいたトルコ系の部族がアッパーズ朝に寝返ったので唐軍は負けた。

面白いことに、アラブ軍の捕虜となった唐軍兵士の中に、紙漉き工がいて、製紙技術を西方へ伝えた。これがきっかけで紙は西方に伝播した。

小説十八史略」(陳舜臣)より。

 

太宗李世民(りせいみん)の貞観(じょうかん)の時代

唐の第二代皇帝、太宗李世民(りせいみん)が在位した二十三年間を貞観(じょうかん)の時代という。貞観元年は西暦626年にあたる。

この貞観年間は中国史上で最も政治のよかった時期といわれている。

ー海内(かいだい=天下)升平(しょうへい=太平)、路、遣(お)ちたるを拾わず、外戸、閉ざさず、商旅(しょうろ)は野宿す。

小説十八史略」(陳舜臣)より。