「アメリカの現代写真」で最初に紹介されているのがこの写真集「Americans」である。1950年代に出版され、大きな衝撃を当時のアメリカ人たちに与えたと言われている。かれはスイス生まれのアメリカ市民でアウトサイドからアメリカ人を観察し写真に収めていた。
ジャン・グルーヴァーの「静物写真」
ちくま文庫「アメリカの現代写真」(小久保彰著)の中でジャン・クルーヴァー(Jan Groover)の「静物写真」の紹介があった。
写真はここ。
スプーンやピーマンなどの日常的なものを対象としながら配置や構図で非日常を表現している。大変に興味深い写真家である。
ハヤブサの見分ける速さ:人間の2倍以上
今朝の新聞によれば
スウェーデンのルンド大学の研究者たちはハヤブサの見分ける速さを測定し、そればヒトの二倍以上であることを見出した。
光源を点滅させる測定をする。ヒトでは毎秒50-60回以上の点滅であると、この光源は点滅ではなく常時点灯しているように感じる。これがヒトの限界である。だから映画は毎秒60コマの静止画を観客に見せて動画として感じさせている。ハヤブサの実験ではこの限界が毎秒120回の点滅以上にならないと常時点灯とは感じないという結果になった。
動体視力というものがある。ピッチャーの投げたボールが「止まって見える」という表現で動体視力が話題になるが、これは視覚の空間分解能と時間分解能による。空間分解能が同じであると時間分解能が高いと速いボールでもコマ切れ(静止画)のように見えるわけである。
ハヤブサは鳥などを捕獲するとき毎時300キロメートルもの速度で追跡するそうでこの動体視力が物を言うのである。
ウマはホース(26):バルブ
今回は(北)アフリカのウマをみる。最初はバルブ(Barb)種で、画像はここ。
バルブ種はアラブ種に続いて世界の馬の品種の基礎になった馬である。この品種はサラブレッドの基礎になっている。
この品種は北アフリカのモロッコが原産地である。この品種は氷河期を乗り切って野生ウマの集団を形成したと考えられている。どうだとすると、この品種はアラブ種より古いこのになる。ある時点でアラブ種のいくらかを血がはいったが体型はアラブ種の典型から引き継いだものはなにもない。近年伝統的なバルブ種、つまりイスラムのヨーロッパに進出にたいして大きな役割を果たしたベルベル人の騎兵が乗った馬に関する検討が進められた。元来のバルブ種の起源は不明な点があるが、バルブ種とアラブ種にははっきりとした違いがある。
ウマはホース(25):ルシターノ
「唇亡びて歯寒し」
ウマはホース(24):アンダルシアン
久ぶりに馬の話。
スペインの南に位置するアンダルシア地方の馬であるアンダルシアン。
現生のアンダルシアンはアラブ馬やバーブ馬と並んで世界の馬の品種に絶大な影響を与えたスペイン馬の後裔である。十九世紀までスペイン馬はヨーロッパ中で第一級の馬であり、ルネッサンスの乗馬学校の古典馬術がその基礎とした馬であった。ウイーンのスペイン乗馬学校はそこで使われていたスペイン馬に因んで付けられ、有名な葦毛のリピッツァナーは十六世紀にスペインからスロベニアのリピカに輸入されたスペイン馬から直接に引き出されたものである。
アンダルシアンの生産はヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、コルドバ、セビリアが中心で、そこではカソリック修道僧たちによって生産が継続されていた。スペイン馬は野生種のターパンとの関連でポルトガルのソーライアと北アフリカから侵攻してきた部族たちが持ち込んだバーブ馬との混血かもしれない。
アンダルシアンは雄姿の馬である。速い馬ではないが、素早く動き運動能力は高い。鷹のようなスタイルの優雅な頭部で、たてがみや尾の毛は長くときとしてウエーブしている。
宋の太祖趙匡胤(ちょうきょういん)の「石刻遺訓」
「小説十八史略」(陳舜臣)の中で著者は宋の太祖趙匡胤を大変に褒めている。
この趙匡胤は生粋の軍人であるが、国家の基本に文治主義を貫いたからだ。かれは子孫のため遺訓を石に刻み、禁中の最も奥の皇帝しか入れないところに置き、新帝が即位するとこの遺訓を読むことを重要な儀式とした。この遺訓は三百年も続いた宋王朝の基本姿勢となった。
この「石刻遺訓」には何が書かれていたのか?
一 宋に国を譲った後周王室柴(さい)氏を子々孫々にわたって面倒をみること。
ー 士太夫を言論を理由として殺してはならぬこと。
これが遺訓の内容であった。
第一の遺訓のお陰で三百年の宋王朝の期間柴氏は宋王朝の賓客の扱いを受けた。第二は「言論の自由」を保障したことである。
フォトギャラリーに「紅葉のころ」を追加
一将功成って万骨枯(か)る
「己亥(きがい)の歳(とし)」という七言絶句の最後の七言である。作者は曹松(そうしょう)である。反戦の歌である。唐の滅亡が迫り、黄巣(こうそう)の反乱軍が長安に侵攻した時代である。「己亥(きがい)の歳(とし)」は乾符六年(西暦879年)に当たる。
七言絶句の全文は:
沢国江山入戦図
生民何計楽樵蘇
憑君莫話封侯事
一将功成万骨枯
沢国の江山、戦図に入る
生民、何の計ありてか樵蘇を楽しまん
君に憑る、話す莫れ封侯の事
一将、功成って万骨枯る
「小説十八史略」(陳舜臣)より。

