黒部渓谷、劔岳、立山連峰周辺の地図を眺めていると「長次郎谷」、「源次郎尾根」、「作朗越」など人の名前に由来すると思われるものが地形の名前に使われていることがある。これらはこの周辺の山を案内した地元の案内人の名前であるが、「内蔵の助谷」と古風な名前の谷がある。これは現在の「黒四ダム」の少し下流で左岸に流れ込んでいる谷である。
この谷の名前は古風なはずで戦国時代の武将の名前に由来する。その武将は佐々内蔵之助成政という。天正12年(1584年)、越中を支配していた成政が越中から信州に出て、浜松まで行き家康に面会したとされるときに通過したルートが、「早月入りを伊折から大窓を越えて立山の東面に入り、内蔵の助平の岩窟で泊まり、内蔵の助谷を下った」という伝説があるという(「黒部渓谷」)。