ウマはホース(32):クォーター・ホース

北米のウマたちを紹介したい。最初はクォーター・ホース(Quarter Horse)、画像はここにある。

クォーター・ホースは全てが北米で開発された最初の品種である。世界でもっとも人気のあるウマであると主張されている。300万頭以上が全米クォーター・ホース協会に登録されている。

この品種の基礎は1611年ごろヴァージニア州に輸入された英国ウマとその前世紀に北米にもたらされたスペインウマの系統である。このウマは農作業、運搬作業、ウシの管理作業、馬車引き、そして騎乗用としてあらゆる作業に従事した。入植者たちは1マイルの4分の1の直線短距離でこのウマを使って競馬をした。これがこのウマの品種名クォーター・ホースの由来である。この品種は短距離では他の品種に負けない瞬発力を持っている(この特性はこのウマの後肢から臀部にかけての豊富な筋肉による。ここを強調してこのウマはよく後から写真を撮る。)

 

ウマはホース(31):カラバフ

これも黒海とカスピ海とに挟まれたコーカサス山脈の北側の山岳地方で、黒海に面したアゼルバジャンのカラバフ地方のウマである。

金褐色のカラバフは山岳地方のウマである。画像はここ

カラバフはそのスピードとコーカサス山脈の周辺で盛んなchavgan(ポロの形態)やsurpamakh(バスケット)といった騎乗球技における能力で注目されている。また様々な目的でも使われている。

カラバフ地方の在来種であったが、ペルシャ種、アハルテケ、カバルディンとの交配があった。その後競馬アラブ種の系統との交配が増加した。18世紀にはドンへの影響があった。競走馬の競技場でのテストはアゼルバジャンのバクーでおこなわれる。

速いことと俊敏なことに加えて、大変に穏当で、飼い易く、管理が容易そして度胸があると評判である。

 

ウマはホース(30):カバルディン

黒海とカスピ海とに挟まれたコーカサス山脈の北側の山岳地方のウマである。カバルダ人のウマという意味でこのウマはカバルディンと呼ばれている。画像はここ

多くの山岳ウマと同様に強健で敏捷であり、霧の中や夜道でも方向を見つける能力を持っている。

十六世紀にステップのウマとペルシャ系統との交配で誕生し、その以来国営牧場で改良がなされきている品種である。サラブレッドとの交配で誕生したアングロ・カバルディン種もあり、これは少し大柄で速いが本来の強靭性は保持している。

自然に具わった歩様も見つかっているが、長距離の走行おけるその持久力は注目される。主として乗用馬として活躍しているが、馬車の曳きウマとしても使われている。

 

ウマはホース(29):ドン

ロシアのウマを紹介する。今回はドン(Don)、画像はここ

このウマは伝統的にはコザック騎兵に係わってきた。今日では長距離の競技に使われていて、この品種の元品種よりずっと優秀である。ロシア革命後に品種改良が試みられたブジョンヌイ種に大きな影響を与えた。

この品種は強靭なモンゴル平原のウマと軽快で暑さに強いアハルテケやペルシャ・アラブ種との交配でできたものである。19世紀の初めには、サラブレッドや優秀なアラブ半血種との交配による改良がなされた。20世紀以降は僅かに外部の影響があるだけである。

ドンは強靭なウマで飼育しやすく凍結したドン平原で生存そる能力を持っている。適応能力があり従順であるが、身体的には魅力に欠けるところがある。優雅ともいえないし乗りやすいともいえないぎこちない動きに繋がる身体的な欠陥があるが、過酷な状況でも有効に働く資質を持っている。

 

ウマはホース(28):アハルテケ

今回はユーラシア大陸のユニークなウマを紹介する。名前はアハルテケ(AKHAL-TEKE)、カスピ海の東に位置するトルクメニスタン原産である。画像はここで。

アハルテケは世界で最も未知なウマで、ウマの原型の第三型の現代型である。薄い皮膚、細かな体毛そして暑さに強い砂漠ウマの特徴を持っていて、アラブ種の”Munaght”競走馬との関連もありえるとされている。3000年以上に亘り現在のトルクメニスタンの地域で生息していたことが分っている(トルクメニスタン共和国の国章にもアハルテケが描かれている)。

アハルテケはカラクム砂漠のオアシスの周辺で飼育されていて、その主産地はアシルバードである。このウマは他の品種の多くに影響を与えているが、他から影響はない。サラブレッドとの交配を試みたが成功しなかった。トルクメニスタンの人々はアハルテケを競馬に使う。そのようなウマの世話は大変である。アルファルファそしてヒツジの脂肪、卵、オオムギ、そして揚げたドーナッツからなるペレットを餌としてあげ、寒さや暑さの防御のためにフェルトで包んでやる。

アハルテケは西側の理想的なウマの体型を殆んどとっていないけれど、体型は独特である。メタリック金褐色の体色はこの品種の特徴である。アハルテケは底なしのスタミナと持久力を持っている。最低の食料と水で84日かけてアシルバードからモスクワまで4152kmを走破した。

ウマはホース(27):アラブ

今回はアラブ種を紹介したい。

アラブ種は世界中のウマの源泉であると考えられていて、サラブレッドの主たる基礎になった品種であることはよく知られている。画像はここで。

アラビア半島では少なくとも2000年前からアラブ種のウマたちによる競馬が行われていた。これは美術品の存在や「砂漠のウマ」と密接に関係したベドウィンの口承によって分っている。影響力の強いアラブ種の血は七世紀に起こったイスラムの侵攻によって広く拡がった。その結果、アラブ種は世界中のウマの発展に強く寄与することになった。

アラブ種は容姿は美しく一度みたら忘れ難いウマである。このユニークな外見は体型と基礎骨格の構造によって決まっている。通常のウマでは肋骨が18、腰椎が6、そして尾椎が18であるのに対して、アラブ種は17-5-16である。またこのことは尾の付け根の部分が下がらないで断崖絶壁のようになっている理由である(写真をみよ)。スタミナは抜群であり、動きは「浮いてる」ようにスムーズである。肺活量や肢からみた持久力や穏やかさ故にアラブ種は長距離やエンジュランス用のウマとして選択される。従兄弟になるサラブレッドほど速くはないが、アラブ種とアングロ・アラブ種に限定した単純競馬は世界中の多くのところで熱狂的に行われている。

5000年前から酪農?:東アジア草原地帯

今日の新聞記事のタイトルである。記事によれば、ドイツ・マックスプランク人類史研究所の国際研究グループの発見である。

研究グループは東アジアの草原地帯の一角であり、今も馬乳などの乳製品を沢山消費しているモンゴルで、古い時代の遺跡から見つかったヒトの歯の歯石の成分を解析した。

その結果、紀元前3000年ごろのアファナシェボ文化の遺跡から見つかった歯の歯石からウシやヒツジそしてヤギなど反芻動物の乳に含まれるタンパク質の成分が検出されたという。従来は紀元前1300年ごろと思われていたものである。

また馬乳のタンパク質の成分を含む歯石は紀元前1200年ごろと新しいこともわかった。

世界史的に見ると紀元前4000-3500年ごろはウクライナ周辺のポントス・カスピ海ステップでインド・ヨーロッパ祖語の原型を話し馬に乗る習慣を得た遊牧の人々がドナウ川河口周辺の古ヨーロッパに侵入した時期である。この人々の移動は東にも向かったはずで、東アジアの草原地帯に到達したのが紀元前3000年ごろということか?

 

Horse Chestnut

“The Little Guide to Leaves”という絵本を時々眺めている。

そのなかに”Horse Chestnut”がある。

ボストンの友人の庭にこの木の巨木があり、その友人が木の名前の由来を教えてくれたことを思い出した。

この木は秋になると栗のイガの大きさの実を付ける。果皮には栗のようなイガイガはなくツルンとしている。中には栗の実大の実が2-3個入っている。果皮ごと落ちるが、この果皮を含む実が馬糞に似ていることから”Horse Chestnut”という名前が付いた。米国ではこの木は外来種で、本物の”Chestnut”を駆逐してしまったという話だった。

日本ではこの木は「とち(栃)」である。街路樹として近くにも沢山ある。実は「とちのみ」で、興味本位で拾いあつめたことがある。非常に根気よく渋抜きをすると食用になり、「とちもち」の原料になる。

画像はここにある。

なお、乗馬用語では馬糞は「ボロ」という。ボールからきているらしいがこれも形に由来する。

 

美術に表現された馬(9):Bedouins on Horseback (Mane-Katz)

マン=カッツ(Mane Katz)(1894-1962)はウクライナの敬虔なユダヤ教徒の家庭に生まれた。彼の父はかれがユダヤ教の教師になることを期待したが、19歳のときに絵の勉強のためにパリに移住した。彼は東ヨーロッパのユダヤ人コミュニティーにおける村々の生活を描くことで知られるようになる。

アラブ人の乗馬、サーカス乗馬、子馬と母馬、闘牛シーンにおける馬たちと馬を描いた作品も多い。

画像はここで見られる。

美術に表現された馬(8): Two Horses in a Paddock (George Stubbs)

ジョージ・スタッブス(George Stubbs)によって精密に描写された馬たちである。画像はここ

ジョージ・スタッブス(1724 年– 1806年)は常に解剖学に興味を抱いていた。彼の父親は皮なめし工で、かれは革はぎの仕事で父親を助けていた。殆んどは独学であるが、数週間だけ絵の勉強で見習いをしたことがあった。かれは先生の方法には従わず、自然を研究することによって絵画を学びたいと思った。

馬たちの絵を描く前にかれは一年半も馬の解剖学を勉強した。食肉解体処理場から馬を得たら、かれはそれを注意深く捌き、層毎に描写した。かれの描写したものはこの分野の草分け的な本として出版され、今日でも使われている。かれはそこから転じて生きている馬を精密の描写することに集中した。

かれは常に馬の精密描写の第一人者の一人だ考えられている。