磯貝正義「甲斐の御牧」(馬の文化叢書2 古代:馬と日本史I)には平安時代に甲斐の国あった御牧で飼育されていた馬の数についての推定値が載っている。
甲斐には武蔵・信濃・上野とともに、駒奉の駒の供給地である御牧が置かれていた。御牧は勅旨牧で、当初はもっぱら皇室の料馬を潤沢にする目的で勅旨をもって設定されたものである。牧にはそのほかに国牧・近都牧・国飼などがあった。御牧は左右馬寮の管轄で、奈良時代に遡って作られたものらしい。
延喜式時代()での御牧の数は、甲斐国は柏前・眞衣野・穂坂の三牧、武蔵国は立野牧など四牧、信濃国は望月牧など十六牧、上野国では利刈牧など九牧で、合計三十二牧となる。
これらの牧にいた馬の頭数は以下のように推定される。
この牧から年貢として納めた馬数が記録にある。それによれば
甲斐国六十匹(柏前・眞衣野牧三十匹、穂坂牧三十匹)
武蔵国五十匹(立野牧二十匹、その他六十匹)
信濃国八十匹(望月牧二十匹、その他六十匹)
上野国五十匹
とある。甲斐の国の頭数は牧の数にたいして大きいのは一つの牧の規模が大きかったせいである。これらの頭数は年貢として献上された馬の数であるが、その頭数はそれぞれの牧の規模やその牧で飼育されている馬の頭数に比例していると考えてようだろう。
信濃国については、五十一年後の延喜式撰進時点の牧馬数が記録にある。それは二千二百七十四匹である。この数を信濃国の年貢馬数で割ると28.4とでる。この計数は他の牧にも当てはめると以下のように各牧で飼育されていた馬の平均数が出てくる:
信濃国 二千二百七十四匹
甲斐国 柏前・眞衣野牧 四百二十六匹
穂坂牧 八百五十二匹
武蔵国 千四百二十一匹
上野国 千四百二十一匹
さて、甲斐国の三つ牧がどこにあったかであるが。眞衣野牧、穂坂牧についてはかなり確かなことがわかっている。眞衣野牧は釜無川の上流、甲斐駒ヶ岳の山麓にあたり、今の北巨摩郡武川村牧ノ原がその遺称である。穂坂牧は茅ヶ岳の山麓地帯、今の韮崎市穂坂町に比定されている。柏前牧については諸説あるが、磯貝氏は北巨摩郡高根町樫山をもってその遺構とする説を採っている。
駒ヶ岳・茅ヶ岳・八ヶ岳という山岳地帯で牧場の発達に適した場所である。そして、これらの場所は後年の甲斐源氏の根拠地でもある。
ドサンコの起源
日本の在来馬で国際的に知られている馬はドサンコ(北海道和種馬)である。本州の南部馬や木曽馬などが絶滅危惧になるほどに減少してしまったのに、なぜ北海道に在来種が残っているのか不思議でだ。
ドサンコの起源は江戸時代まで遡る。
江戸時代には北海道は松前藩が支配していたが、松前藩士が蝦夷地(北海道)に赴任するときに本州から馬を持ちこんだ。任期が終わるとその馬を原野に放して人だけ本州に引き上げていた。これを繰り返しいる中で北海道の馬は増えてきたと言われている。一方、アイヌはこの馬を捕まえて家畜として使役した。馬の扱いの巧みなアイヌのお陰で北海道の馬は、北海道の風土に適していたこともあって、増えてきたと考えられている。
それにしても二十世紀の初めに150万頭もいた日本の馬はどこえいってしまったのだろう。
馬への挽歌ー遠野
「馬への挽歌ー遠野」という木下順二の同名の随筆がある。そのには20世紀の初めまで遠野で盛んであった「駄賃付け」という仕事について地元の人たち(70代)が語った物語が記されている。
「百姓がだめなら駄賃にでるか」
「駄賃付け」とは自分の馬を三頭から五頭も一人で曳いて荷物(米)を運ぶアルバイトである。遠野で収穫された米を峠を越えて盛岡・花巻・北上の内陸部へ、宮古・釜石・大船渡・陸前高田・気仙沼の浜へ運搬して帰りのは魚や塩を「帰り馬」の背に載せて遠野に帰ってくる。片道三十里(約120キロ)もある。これを日帰りでこなす。馬の背には一斗俵(約15キログラム)を三から四つ積む。馬の数五、六十頭の集団で遠野を出発する。
出発は午前三時ごろ。『保温のためににんにくをまぜた秣を馬に与え、道草をしないように口籠(くちご)を一頭一頭にはめ、いい音に響く鳴輪を頸にかけ、蹄にはこれも保温のために唐辛子を詰めたわらじを履かせる。』
降りしきる雪の中の出発だ。五頭一組ならば、馴れた馬を一頭先頭にして次にこの馬の引き綱を持った馬子が続き、これに三頭の馬が数珠繋ぎになり、しんがりは馴れた馬の順で歩く。道が凍っているときには鉄沓(かなぐつ)をわらじの下につける。
『時としては三尺も積もる吹雪の中で、鳴輪の音は荒い馬の息づかいと共に切れ切れに尾を引いて嵐の中に飛ぶ。そして鼻息は垂氷(たるひ)となって馬の鼻づらに二尺ほとも垂れ下がる。』こんな状況の日もある訳である。
遠野へ帰着するのは深夜になることもあるが、夕方になることもある。夕方だともう一つ仕事が残っている。馬子は酒屋に向かうわけだ。ご帰還は馬に連れられてということもあるわけである。
このように馬も沢山いた。
蛸薬師の馬頭観音石碑
仙台市内や近郊には実に多くの馬頭観音の石碑がある。市内では江戸時代の街道筋になっているところに多く見かける。街道を往来した馬に関連したものであろう。一方近郊の農村地帯にも沢山の馬頭観音の石碑が目に付く。これらは多分農作業に従事した馬たちの供養のために建てられたものだろう。
前者の一つの蛸薬師の馬頭観音の石碑がある。場所は長町で江戸時代に奥州街道から二口街道が分岐するあたりで蛸薬師の境内にある。江戸末期ものから明治大正のものまであるが、大きなものは江戸時代のものの三基である。
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一つは「天明二年」と側面の刻まれたもので写真のように「大町太物問屋中、京都飛脚中、江戸三度飛脚中」と寄進した問屋仲間の名前が見える。江戸三度飛脚は月に三度江戸との伝馬制度に従事した飛脚で、その人たちが被っていた笠が後の「三度笠」の起源になったものである。太物とは木綿このこと。もう一つは文化八年の日付があり、「大町太物仲間宰領(さいりよう)中」と寄進者の名前がある。宰領とは物や人を運ぶ場合責任を持って監督し付き添っていた人たちのことである。この馬頭観音の石碑が街道の往来の無事を祈願したものであることが分かる。最後の一つは文字が摩滅して読めないが馬頭観音の文字は見える。この境内にはその他沢山の馬頭観音の石碑がある。
因みに「蛸薬師」の蛸の由来は、神社の説明によれば、洪水があって池に薬師如来の像が到来したが、なぜか蛸が吸い付いていたことからだという。
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騎馬民族国家説のその後
江上波夫氏が提唱した日本国家の起源は騎馬民族であるとする説は戦後直後に出されたものである。これから60年ほどたった訳であるが、この説はどのような位置づけで現在は議論されているのであろうかと思って調べている。
考古学からの纏めたものとしては、「騎馬民族説の考古学」(中村潤子著)[馬の文化叢書一古代 埋もれた馬文化:1991年)がある。結論的には、古墳時代の前期と後期との副葬品の違いは文化の連続的な変化として捕らえるにはあまりのも大きな変化であり、不連続的な、革命的なものであるとしている。高句麗あたりからかなりの馬・馬具・馬の技術者が日本に招来されたことは事実だとしている。しかし、これをもって当時の日本が騎馬民族によった征服されたことを示したことにならないとしている。
「馬・船・常民」(網野善彦・森浩一箸:1992年)では、「征服されたか」「しないのか」が重要なことではなく、この馬に象徴される文化が当時の日本に怒濤のようにもたらされたことが重要だとしている。重要な理由は、この馬の副葬品が多く出土するのは関東であり、このことは当時「騎馬軍団」が関東に誕生したことを示唆しているし、また、このことが東国の武士の起源にも繋がることにある。
馬と猫
散歩の途中で見つけた「馬と猫」である。
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花壇の柵に使われていたが、本来の目的は不明である。かなりデザイン感覚に優れていると思ってシャッターを切った。
海の民と陸の民
日本では江戸時代にも陸上運輸手段としての馬車の発達はみられない。その代わり沿岸航海航路の発達は世界一の規模をもつようになる。その意味で日本は「海の民」である。
例えば、新潟(越後)の米を江戸に運ぶことにしよう。陸路では一頭の馬の背に振り分けで二俵の俵を運ぶわけだから千俵の米では五百頭の馬が必要になる。この馬を曳く馬子も一人が二頭の馬を曳くとして二百五十人が必要になる。一日で終わるわけはないので、宿場に宿泊するわけわけだが、馬の背に積んだ荷はそこで降ろして翌日再度馬の背に荷をのせることになり、その労働も追加になるわけである。
一方、船であると一旦船荷として積み込んでしまえば、後は十人程度の船乗りで輸送が済んでしまう。しかも日本の船(弁才船)は甲板がないので一艘に千俵程度の米は積めた。このような海を使った輸送手段が江戸時代、それ以前から発達した。伊達政宗が作らせた貞山運河などもその沿岸航海航路の延長である。陸上の輸送手段に比べて、海を使った輸送手段は圧倒的に優位にあった。
ローマ帝国は「陸の民」だろう。アッピア街道など帝国に張り巡らされた街道は馬車が走ってもよいような堅牢なものであった。軍隊の移動手段であったろうが、物資の輸送手段にもなったはずである。
馬上蛎崎神社と蛎崎大明神
近くに馬上蛎崎神社がある。片平消防署の道路を挟んで向かいにある。
境内にある案内板によれば、「藩祖政宗公に功臣後藤信康が献じた五島という愛馬があった。年老いて慶長19年(1614)公の大阪出陣に洩れた事を悲しみ本丸の崖から飛下り死亡した。依ってその地蛎崎に葬り馬上蛎崎神社を建てて祀り追廻馬場の守護とした。明治4年片平町の良覚院跡に移して社殿成り桜田如水を宮司として町の間に「五島墓さん」と称して親しまれた。子どもの馬脾風(ばひふ=ジフテリア)除けの信仰があり胡桃を奉納する。例祭日は8月1・2日」という。
境内には馬頭観音の石塔や安政六年と読める「山神」の石碑がある。社殿は新しいもののようだ。
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仙台にはこの「蛎崎」と名前が付く神社がもう一つある。それが蛎崎大明神である。場所は仙台城の東の崖下にある。この崖は直角に近い急峻な深い崖である。この神社というか祠へは、広瀬川の西岸にある追廻を南に進み崖下にでるのがよい。この祠の位置は青葉山公園の政宗騎馬像からみた崖の真下になる。四つ鳥居があり、最後の鳥居を潜ると右手に小さい祠があるが、正面にはとてつもなく大きな岩が二つ並んでいるのに出会う。もともとの祠はこれらの大岩の間にあったのでという雰囲気であるが、そこは大規模な落石があって何も残っていない。これが蛎崎神社の説明にあった「本丸の崖」かなとおもった。確かに深い崖である。
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支倉常長と金華山号
このブログで以前書いたが仙台市博物館所蔵で支倉常長が持ち帰ったもの(全て国宝)の中に鞍や鐙など乗馬の器具が多い。これは常長が乗馬に大変に興味を持っていたことからだと思う。当時日本にやってきた宣教師たちが馬を連れてきた可能性があるが、常長は当時のヨーロッパで出会ったアラブ馬の立派な姿態に驚いたことであろう。常長がヨーロッパから馬を持ち帰ったという伝説もある。その馬を基に伊達藩では馬産が幕府に秘密裏に行われたという。
時代がずっと下るが明治天皇の御料馬になった東北の馬がいた。これが金華山号である。明治9年東北巡幸の際に付き人が目をつけて御料馬として買い上げたという。この馬の出身地は仙台の北、鳴子鬼首(おにこうべ)である。この馬は乗馬馬として優秀だったらしくよく調教されていたと言われている。例えば、儀礼式典の際には、祝砲などの大音響の会場でも落ち着いてヒトを乗せていたという。馬の姿態にはモンゴル系の馬以外の特徴があった。
支倉常長が持ち帰った馬の末裔とこの金華山号を関連づける人々もいる。
慶長と明治とは300年以上離れている。その間には江戸幕府八代将軍吉宗によるペルシア馬の組織的な輸入や馬産もある。こちらは資料的にもはっきりしている。この事跡の規模と拡がりのなかに伊達藩が含まれていた可能性もある。
金華山号の木彫が鬼首荒雄川神社境内の主馬(しゅめ)神社にまつられる。
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生きた馬の博物館
世界中には様々な博物館があるが、この博物館は「生きた馬」の博物館である。これはフランスのシャンティイ城のコンデ公ルイ・アンリが建てた18世紀のヨーロッパ最大の厩舎で、ヒトと馬とに関連する博物館である。実際に今でも競走馬の厩舎になっていて、生きた馬が観察できるし、馬術ショーもやっている。展示スペースには馬車や馬具など馬関連の工芸品など200点が展示されている由。
