蛸薬師の馬頭観音石碑

仙台市内や近郊には実に多くの馬頭観音の石碑がある。市内では江戸時代の街道筋になっているところに多く見かける。街道を往来した馬に関連したものであろう。一方近郊の農村地帯にも沢山の馬頭観音の石碑が目に付く。これらは多分農作業に従事した馬たちの供養のために建てられたものだろう。
前者の一つの蛸薬師の馬頭観音の石碑がある。場所は長町で江戸時代に奥州街道から二口街道が分岐するあたりで蛸薬師の境内にある。江戸末期ものから明治大正のものまであるが、大きなものは江戸時代のものの三基である。

馬頭観音の石碑
馬頭観音の石碑


一つは「天明二年」と側面の刻まれたもので写真のように「大町太物問屋中、京都飛脚中、江戸三度飛脚中」と寄進した問屋仲間の名前が見える。江戸三度飛脚は月に三度江戸との伝馬制度に従事した飛脚で、その人たちが被っていた笠が後の「三度笠」の起源になったものである。太物とは木綿このこと。もう一つは文化八年の日付があり、「大町太物仲間宰領(さいりよう)中」と寄進者の名前がある。宰領とは物や人を運ぶ場合責任を持って監督し付き添っていた人たちのことである。この馬頭観音の石碑が街道の往来の無事を祈願したものであることが分かる。最後の一つは文字が摩滅して読めないが馬頭観音の文字は見える。この境内にはその他沢山の馬頭観音の石碑がある。
因みに「蛸薬師」の蛸の由来は、神社の説明によれば、洪水があって池に薬師如来の像が到来したが、なぜか蛸が吸い付いていたことからだという。

蛸薬師
蛸薬師

騎馬民族国家説のその後

江上波夫氏が提唱した日本国家の起源は騎馬民族であるとする説は戦後直後に出されたものである。これから60年ほどたった訳であるが、この説はどのような位置づけで現在は議論されているのであろうかと思って調べている。
考古学からの纏めたものとしては、「騎馬民族説の考古学」(中村潤子著)[馬の文化叢書一古代 埋もれた馬文化:1991年)がある。結論的には、古墳時代の前期と後期との副葬品の違いは文化の連続的な変化として捕らえるにはあまりのも大きな変化であり、不連続的な、革命的なものであるとしている。高句麗あたりからかなりの馬・馬具・馬の技術者が日本に招来されたことは事実だとしている。しかし、これをもって当時の日本が騎馬民族によった征服されたことを示したことにならないとしている。
馬・船・常民」(網野善彦・森浩一箸:1992年)では、「征服されたか」「しないのか」が重要なことではなく、この馬に象徴される文化が当時の日本に怒濤のようにもたらされたことが重要だとしている。重要な理由は、この馬の副葬品が多く出土するのは関東であり、このことは当時「騎馬軍団」が関東に誕生したことを示唆しているし、また、このことが東国の武士の起源にも繋がることにある。

馬と猫

散歩の途中で見つけた「馬と猫」である。

馬と猫
馬と猫


花壇の柵に使われていたが、本来の目的は不明である。かなりデザイン感覚に優れていると思ってシャッターを切った。

海の民と陸の民

日本では江戸時代にも陸上運輸手段としての馬車の発達はみられない。その代わり沿岸航海航路の発達は世界一の規模をもつようになる。その意味で日本は「海の民」である。
例えば、新潟(越後)の米を江戸に運ぶことにしよう。陸路では一頭の馬の背に振り分けで二俵の俵を運ぶわけだから千俵の米では五百頭の馬が必要になる。この馬を曳く馬子も一人が二頭の馬を曳くとして二百五十人が必要になる。一日で終わるわけはないので、宿場に宿泊するわけわけだが、馬の背に積んだ荷はそこで降ろして翌日再度馬の背に荷をのせることになり、その労働も追加になるわけである。
一方、船であると一旦船荷として積み込んでしまえば、後は十人程度の船乗りで輸送が済んでしまう。しかも日本の船(弁才船)は甲板がないので一艘に千俵程度の米は積めた。このような海を使った輸送手段が江戸時代、それ以前から発達した。伊達政宗が作らせた貞山運河などもその沿岸航海航路の延長である。陸上の輸送手段に比べて、海を使った輸送手段は圧倒的に優位にあった。
ローマ帝国は「陸の民」だろう。アッピア街道など帝国に張り巡らされた街道は馬車が走ってもよいような堅牢なものであった。軍隊の移動手段であったろうが、物資の輸送手段にもなったはずである。

馬上蛎崎神社と蛎崎大明神

近くに馬上蛎崎神社がある。片平消防署の道路を挟んで向かいにある。
境内にある案内板によれば、「藩祖政宗公に功臣後藤信康が献じた五島という愛馬があった。年老いて慶長19年(1614)公の大阪出陣に洩れた事を悲しみ本丸の崖から飛下り死亡した。依ってその地蛎崎に葬り馬上蛎崎神社を建てて祀り追廻馬場の守護とした。明治4年片平町の良覚院跡に移して社殿成り桜田如水を宮司として町の間に「五島墓さん」と称して親しまれた。子どもの馬脾風(ばひふ=ジフテリア)除けの信仰があり胡桃を奉納する。例祭日は8月1・2日」という。
境内には馬頭観音の石塔や安政六年と読める「山神」の石碑がある。社殿は新しいもののようだ。

馬上蛎崎神社全景
馬上蛎崎神社全景


仙台にはこの「蛎崎」と名前が付く神社がもう一つある。それが蛎崎大明神である。場所は仙台城の東の崖下にある。この崖は直角に近い急峻な深い崖である。この神社というか祠へは、広瀬川の西岸にある追廻を南に進み崖下にでるのがよい。この祠の位置は青葉山公園の政宗騎馬像からみた崖の真下になる。四つ鳥居があり、最後の鳥居を潜ると右手に小さい祠があるが、正面にはとてつもなく大きな岩が二つ並んでいるのに出会う。もともとの祠はこれらの大岩の間にあったのでという雰囲気であるが、そこは大規模な落石があって何も残っていない。これが蛎崎神社の説明にあった「本丸の崖」かなとおもった。確かに深い崖である。

蛎崎大明神(最後の鳥居から大岩を臨む)
蛎崎大明神(最後の鳥居から大岩を臨む)

支倉常長と金華山号

このブログで以前書いたが仙台市博物館所蔵で支倉常長が持ち帰ったもの(全て国宝)の中に鞍や鐙など乗馬の器具が多い。これは常長が乗馬に大変に興味を持っていたことからだと思う。当時日本にやってきた宣教師たちが馬を連れてきた可能性があるが、常長は当時のヨーロッパで出会ったアラブ馬の立派な姿態に驚いたことであろう。常長がヨーロッパから馬を持ち帰ったという伝説もある。その馬を基に伊達藩では馬産が幕府に秘密裏に行われたという。
時代がずっと下るが明治天皇の御料馬になった東北の馬がいた。これが金華山号である。明治9年東北巡幸の際に付き人が目をつけて御料馬として買い上げたという。この馬の出身地は仙台の北、鳴子鬼首(おにこうべ)である。この馬は乗馬馬として優秀だったらしくよく調教されていたと言われている。例えば、儀礼式典の際には、祝砲などの大音響の会場でも落ち着いてヒトを乗せていたという。馬の姿態にはモンゴル系の馬以外の特徴があった。
支倉常長が持ち帰った馬の末裔とこの金華山号を関連づける人々もいる。
慶長と明治とは300年以上離れている。その間には江戸幕府八代将軍吉宗によるペルシア馬の組織的な輸入や馬産もある。こちらは資料的にもはっきりしている。この事跡の規模と拡がりのなかに伊達藩が含まれていた可能性もある。
金華山号の木彫が鬼首荒雄川神社境内の主馬(しゅめ)神社にまつられる。

金華山号
金華山号

生きた馬の博物館

世界中には様々な博物館があるが、この博物館は「生きた馬」の博物館である。これはフランスのシャンティイ城のコンデ公ルイ・アンリが建てた18世紀のヨーロッパ最大の厩舎で、ヒトと馬とに関連する博物館である。実際に今でも競走馬の厩舎になっていて、生きた馬が観察できるし、馬術ショーもやっている。展示スペースには馬車や馬具など馬関連の工芸品など200点が展示されている由。

アングロ・アラブ種「パオン」

昨日の馬場レッスンで乗った馬が「パオン」である。
アングロ・アラブ種でサラブレッドに比べてがっしりした体型で肢も太い。
Smithsonian Handbook”Horese”によれば、アングロ・アラブ種はアラブ種とそれを派生させたサラブレットの分家である。この馬は両方の馬の良い点を受け継いでいるにちがいない。このような掛け合わせはアラブ種の「大人しさ」と「スタミナ」を引き継ぎ、サラブレッドの「速さ」と「理解力」を直ぐに興奮する性質なしに受け継いた。
この馬の生産は英国で組織化され、ポー(Pau)、ポンパドゥール(Pompadour)、タルブ(Tarbes)、ヘロス(Gelos)などのフランス各地の大きな生産農場で150年に渡って組織的に生産され、その様式が完成したと言われている。英国でも優秀な馬が生産されたが、フランスへの影響はそれほどない。フランスでは1816年にアラブ種の二頭のオス馬と三頭のサラブレッドのメス馬との交配から生産が始まった。血統台帳への登録は最低でも25パーセントでアラブ種の血が入った馬で、両親がアラブ種、サラブレッド、またはアングロ・アラブ種である馬であることが確認されたものである。
アングロ・アラブ種の見かけはアラブ種よりサラブレッドである。アングロ・アラブがサラブレッドほど速くはないが、襲歩(gallop)ができる体型である。全体的にいってアングロ・アラブ種はアラブ種に比べ大きくがっちりしている。フランスではアングロ・アラブ種だけの特別な競馬もある。さらに国際的な規模で馬術等の競技に参加している。

 

支倉常長と乗馬

仙台市立博物館には支倉常長が当時のヨーロッパから持ち帰った品ものが展示されている。その全てが国宝である。昨日もその展示を見たが、招来されたものに馬具が多いのに気がついた。教会関連のものが多いのは当時の常長の関心事であったように、乗馬も常長の関心事であったのだろう。
常長が戦国時代の遺風のある時代に生きた武将でもあった証なのかもしれない。
馬具は
鞍(くら)(木製革張り)
鞍(くら)(木製)
鐙(あぶみ)(真鍮製)左右ー足置きが透かしになっている。鐙の側面に鋳出しの模様がある。
鐙(あぶみ)(鉄製)
轡(くつわ)(鉄製)2つ
四方手(しおで)
野沓(のぐつ)
である。
四方手(しおで)や野沓(のぐつ)は日本の乗馬用具名であるが当時のヨーロッパの鞍の部品なのであろう。。

古墳時代の「壷鐙」

滋賀県東近江市の蛭子田遺跡で、5世紀後半~6世紀前半(古墳時代後期)の木製のつぼ鐙が出土し、14日、同県文化財保護協会が発表した(河北新報7月14日)。
同協会は「木製つぼ鐙としては最古級。この地域が乗馬の文化をいち早く導入したことを示すとともに、初期の馬具を考える上で重要」としている。材質は針葉樹で、1本の木をくりぬいて作っていた。高さ20センチ、幅14センチ、奥行き16センチ。つま先に向かって左寄りになる形状から、右足用とみられる。表面は磨かれ、丁寧に仕上げられていた。地下約2メートルの川跡から出土。近くで見つかった須恵器から時期を特定した。

木製つぼ鐙
木製つぼ鐙


日本での鐙の歴史を見ると
日本の「鐙」は6世紀頃、中国、朝鮮半島から伝えられ、初期の原始的な「鐙」が数多く、各地の古墳から出土している。初期の「鐙」は、足を掛けるところが輪状になっている「輪鐙」と呼ばれる木製の物で、その後、木製の物に薄い鉄の板で補強した、木芯鉄張り「輪鐙」が登場し、6世紀末には「鐙」の先端部が壷を横にした形の「壷鐙」が登場する。平安時代になると「壷鐙」の足を乗せる部分が踵まで伸びた「舌長鐙」へと変化し、鎌倉から江戸時代末期まで、日本の「鐙」の主流をなした。この形は日本独特の形状で他ではみられない。平和な時代と共に、実戦用の物がすたれ、金銀象嵌、螺鈿、漆蒔絵の豪華な美術工芸品としても素晴らしい物が作られた。
と言われていて今回の「壷鐙」は壷を縦にしたような形で使うもので特異である。