現生馬のわが国への伝来とわが国における乗馬の風習とは時間的なずれがあるのではないか?という問題である。
わが国における乗馬の風習は古墳時代後期(紀元四世紀)に埴輪や壁画で乗馬に適した胡服の人物が登場してることからこの時代あたりから始まったと考えてよい。現生馬もこのときに伝来したのであろうか?それともそれ以前にわが国には現生馬は存在したが乗馬の風習は無かったのかもしれない。
弥生時代(紀元前二世紀ごろ)の貝塚から馬の下顎骨が見つかっていてこの時代に日本でヒトの近くに馬がいたことが示されている。この馬が乗用に供されたかどうかは不明である。
世界史的に見ると現生馬は6000年まえのウクライナで起こった家畜化に始まるとされている。これより以前に世界中にいた「馬」は絶滅したとされている。この家畜化した馬(現生馬)は4000年まえごろには西アジアからブリテン島まで広がる広い分布をもつようになった。
弥生時代(2500年まえ)の馬の遺物は現生馬のものなのか?それともそれ以前にいた「馬」のものだろうか?それ以前の馬とすると、6000年まえごろには絶滅したと思われていた「馬」が2500年ごろもまで日本にいたことになる。多分現生馬だろう。
現生馬とするとどのようにして日本に伝来したのであろうか?日本列島が大陸と陸続きであった氷河時代は9000年まえごろには終わっている。だから現生馬は大陸から陸伝いにきたと考えるのは難しい。弥生時代人が家畜として連れてきたのかもしれない。ウクライナで起こった馬の家畜化は食料としての馬の家畜化であったといわれており、この後に乗用の習慣が起こったことがわかっている。弥生時代人にとっても馬は食料であったのかもしれない。
現生馬の伝来と乗馬の風習とは時期的にずれているのかもしれない。
競歩とテネシー・ウォーカー
競歩で世界新記録がでた。
普通の人が走っても敵わないような速度で「歩く」。さかさま振り子モデルでは脚が地面から離れるはずであるという速度でも「歩く」わけである。「歩き」方にこつがあるのかもしれない。
馬の世界でも速い「常歩」をする馬がいる。テネシー・ウォーカーはその一種である。四拍子の速い常歩で10~15キロメートル毎時の速度を保って長い距離を走る(?)ことができる。この常歩の速度は170~250メートル毎分であり、普通の馬の速歩の速度の領域に属する。
庚申と馬
「日本古街道探訪」の中に「中馬街道」というのがある。これは三河と信州とを結んだ馬による塩輸送の道である。そのなかに街道に沿って庚申碑が驚くほど沢山あるという指摘があり、これが馬の護り神になっていたことが分かる。
馬の護り神と言えば馬頭観音がよく知られいるが、守庚申に登場する「猿」も馬の護り神である。街道に沿って庚申塚や庚申碑が多いこともこの馬と猿とによるのかもしれない。
守庚申は庚申の日には人々が眠っている間に体の中にいる三尸虫(さんしちゅう)が天に昇りその人の罪過を天の主に告げることを防ぐために寝ないでおしゃべりをしたりする習俗であるが、この三尸虫と「申」とが結合して「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿ができた。庚申碑にはこの三猿を表現したものも多い。
一方、猿は山の神(山王)の使者である。山王は馬頭観音より古い歴史を持つ馬の神である。それで山王の使者である猿ー>三猿ー>庚申碑の図式ができあがった。これから庚申碑を馬の護り神に祈念する碑に転用することになったと思われる。
左前の胡服
古墳時代後期の古墳から沢山の馬具や乗馬の壁画が見つかっているが、当時の人たちがどうのような姿で乗馬をしたのかもわかる壁画がある。その一つが福岡県鞍手郡若宮にある竹原古墳の壁画である。馬を引く馬丁の姿が馬と共に描かれている。
筒袖の搾袖、短衣、ズボン姿の馬丁です。このスタイルは中国北方胡族のものである。しかもこの壁がでは判然としないが、左前(左えり)の上着である。左前(左えり)とは男性洋服の衿の合わせかたで左衿が前にくる。この馬丁は馬に向いているから、右腕で馬の手綱を持っていることになる。この動作では左前の方が右前より合せがはだけない。
面白いことにこの壁画でも馬の左側で馬丁は馬を引いている。
駈歩は逃げるのに最適
馬の速歩と駈歩の間の遷移についてはさまざまな説明がされているが、ここでは駈歩が非対称歩様だということに着目してみたい。
馬のような草食動物は肉食動物から逃れるために運動機能を発達させたと考えられる。逃れるためには走る速度もあるが、「旋回しやすさ」も必要になる。速度が小さいと旋回しやすいが、速度が大きくても旋回しやすい歩様がとれるとさらに生存に有利になる。非対称歩様は「旋回のしやすさ」では速歩などの対称歩様より勝っているのではないかと思う。
新田義貞の馬
1952年(昭和28年)に鎌倉市材木座から鎌倉時代末期に属していると考えられる多数の馬の骨が発掘された。
発掘された場所は鎌倉市の西南部、乱橋材木座であり、海岸より鶴岡八幡宮の鳥居に向かう参道のほぼ中央に位置している。この馬たちは同時に出土した人骨から1333年(元弘3年)5月、新田義貞の鎌倉攻めに使った軍馬であろうと考えられている。勿論北条高時側の馬も入っていろだろうが、この馬たちは当時の関東で飼育された馬たちである。詳しい骨の計測から、この馬たちの体高が推定されている。
結果は
体高は109から140cmの範囲にあり、平均は129cm(林田重幸“中世日本の馬について”(馬の文化誌・中世“馬と日本史2、496ページ)であった。130cm前後にピークがあり、今の馬からみると小型の馬が多い。軍馬は大きな馬体のものを選択したであろうことを考えると当時の馬は概して小型の馬が多かったことが分かる。
古墳時代後期に古墳から馬具や埴輪が発掘されていて、それ以前から比較するとこの時代を境に日本に馬が多くなったことがわかる。日本にそれ以前にいた馬たちではなく、大陸経由で日本にもたらされた馬たちであると考えられている。これが日本における「在来馬」の起源である。新田義貞の馬たちもこの流れにあるものだろう。
先史時代に日本に馬はいだはずで、弥生時代の馬の化石が発掘されているが、この馬の系統は古墳時代には絶滅してしまったのだろう。
明治に入り軍馬の大型化が求められて、日本の在来馬は激減してしまう。
equusとcaballus
馬はイタリア語でcavalloであるが
この言葉の起源はラテン語のcaballusだということだ。このラテン語の本当と意味は「駄馬」を意味している。本当の馬はラテン語ではequusである。
ローマ帝国の貴族は正確なラテン語のequusを使っていたが、一般兵士などはcaballusを使っていて、これがイタリア語の定着したものがcavalloだというわけである。
馬には気の毒な話である。
なお、英語のhorseは起源が不明らしく、インド・ヨーロッパ語族には対応する言葉がないとうことだ。
馬の“背最長筋”
“胴体の受動的な腱システムと頸部脊柱
馬は口を地上近くに持っていって頸を前傾下方に伸ばしていられる。野生の馬はこのような姿勢で毎日17から19時間もの間食料をさがす。この馬の姿勢は受動的である。その意味は草を食むために頭を下げるとき筋肉は活動的な収縮をしていないということだ。”
これは“Tug of War”からの引用である。このように馬は草を食むときに姿勢は筋肉を殆ど使わずに自分の胴体を支えることができる。人を乗せて走るためには頭頸軸を上げなければならないが、そのためには上頚部の筋肉を鍛えこの筋肉で自分の胴体と乗り手の体重を支えなければならない。
それができないうちは頭頚軸を上げさせてはならないという。
さもないと馬は背中にある“背最長筋”をつかって自分の胴体と乗り手の体重を支えようとする。そしてこの筋は緊張してしまう。“背最長筋”をリラックスさせておくことは乗馬では最も重要なことだといわれているその筋がこれで緊張してしまう。
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馬頭観音ーなぜ馬か?
馬頭観音は密教の仏像で平安時代はヒトのための仏であったが、なぜか馬の守護神のようになってしまった。なぜ馬の格好をした仏像が作られたかについてヒントらしいことがわかったので書いてみる。
密教の中心的な仏像は大日如来であるが、この仏は古代インドにおける理想的な帝王、転輪聖王(れんりんしょうおう)を意識して製作された。その転輪聖王は世界を平和に統治するために、象、馬、法輪、法螺、宝珠などの7つの宝を備えているが、大日如来の身体にはこの宝の半数以上が描かれている(密教とマンダラ:頼富本宏著)。この宝の馬を強調した仏像が馬頭観音だと思われる。
「本山寺」の馬頭観音
四国八十八ヶ所のお遍路さんは空海の密教の行との関連があり、密教の「文化遺産」であると思われるが、その八十八ヶ所の一つ「本山寺」(もとやまじ)の本尊は馬頭観音である。
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これは馬のための観音ではなく、ましてや競馬のためでもない。これは密教の行の一環として病気平癒、厄難の救済などを祈願するものである。
八十八ヶ所の寺の本尊は、薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音、千手観音などが多いが、本山寺のような特殊な仏像が本尊になっているところもある。毘沙門天(びしゃもんてん)を本尊とするものもある。